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いつしか月は姿を消し、太陽が高く登っていた。
人狼なら深い眠りに落ちる頃合い。
けれど私たちは互いに匂いを擦りつけ合い、何度も何度も姿と匂いを確認し合った。なのに何度そうしても、足りないという焦燥に似た思いが湧き上がる。
ずっとこうしていたい。もっともっと近くに。いっそ匂いが混じりあえばいいのに。
月二巡りほどの間離れていたことで、私も番も求める衝動がさらに強くなっているようだ。
それでも魂の奥底で繋がっている、そんな実感が、さらに歓喜を呼んだ。こうしている今この時、私たちは激しい幸福を感じ、それを共有している。
けれど……我が番から漂う香しい匂いのなか、時折混じる苦み。
―――この人狼には棲まいがある。子を成した雌と子育て中―――
それを想うと、私の胸は張り裂けそうになる。
誰の責でもないと分かっていても、どんな痛みより痛い。あらゆる苦しみより、もっと苦しい。この銀鼠の狼を奪い去り、二匹だけでどこか遠くの森へ行けたら……しかしそれは、幸福とは言えない。
罪も咎もなくこの森から離れ精霊のいない森へ、などと……なぜ私たちがそのような重荷を背負う必要がある? それでは幸福に成れないではないか。
だからこそ、私はやらねばならない。
番の幸せな笑顔を見るために。苦みの無い幸福な匂いを嗅ぐために。
振り切るように後ろへ飛んで、私は番から離れる。
しかしすぐに飛び寄ってきた白銅の銀鼠は、愛しげに鼻を擦りつけて来た。
甘えるような仕草。
一見強く見える銀鼠の毛が、とても優しく私を擦る。太陽の光を受けた毛先が、動くごとに柔らかい輝きを帯びる。潤みを帯びた鈍色の瞳が私を求めて揺れている。
ああ、なんて可愛い、なんて美しい、我が番。
そんな気持ちを押し殺し、私は言った。
「……あなたは、もう行かなければ」
愛しい番の目が見開かれる。なぜ、と声にならぬ想いが痛いほど伝わってくる。
「……行きたくない。そなたと共に在りたい」
「私だってそうです。離れたくない。ですがお願いです、愛しいあなた」
私も苦しい。行かせたくなどない。
けれどそれを押し殺し、今度は鼻先で押しやるようにして離れて愛しさを隠さぬ目で見つめると、銀鼠の人狼はその場に留まってくれる。
私も同じ想いなのだ。このままずっと共に行けるなら、けっして離れはしない。それが番にも伝わっている。請うような鈍色のまなざしが潤んでとても魅力的だ。さらに強く漂う芳香が、この私を強く求めていると伝えて来る。
唯一の存在。
狂おしいほどに愛おしい。
離れると考えるだけで死にたくなるほど。
けれど、だからこそ、私はやり遂げなければならない。
新たに心へ強く命じ、私は眼差しをきつくした。
「私たちは今まで通りなのだと周囲を騙さなければなりません」
「……分かっているのだ。そなたのすることにはすべて意味があると……だが菫の白蜜、そなたの心は強い。我は……それほど強くない」
「ああ……愛しいひと……」
「あの棲まいに戻りたくないのだ。あの雌に近づきたくないのだ」
そうだ。
番以外と子を成したことが、白銅の銀鼠にとって如何に苦しいことなのか。想像するしかないが、私よりずっと苦しい思いをしていることは確か。
白銅の銀鼠。愛しい番。守ってあげたい。苦しみから逃れさせてあげたい。その想いに偽りはない。
なのにこんなにも苦しんでいるこの人狼に、酷な事を命じて……私だっていやだ。あの雌と共に眠る我が番など想像もしたくない。
けれど必要なのだ。愛しい番と共に在ろうとするなら、その望みを叶えるために必要なことなのだ。
私は愚かで、これ以外の方法が分からない。
「まだしばらくの間……永遠に共に在るために、必要なのです。愚かな私を許して。お願いします」
「いいや、いいや、そなたが謝ることではない、我が……安易に子作りなどしたから」
「それは違います! だって、私たちは会えなかったかもしれない!」
私がひと里で過ごしている間に、番探しの旅でこの森へ来たこの人狼は、あの雌を宛がわれなければ、次の森へと番探しに旅立っていた。
それから冬をまたがぬほどの間、私はひと里にいたのだ。郷にとどまらず旅立っていたなら逢えぬままだったかもしれない。
こんなにも通じ合える唯一と出会えなかったなら……私は何も考えず、漫然と不満を抱えながらシグマの役目を淡々と果たしていたのだろう。あの味気ない夜になど、けして戻りたくない。
「あなたは正しい人狼です。どうぞそのままでいて」
この可愛らしくも美しい狼は、このままでいなければならない。
道を踏み外すのは私。
穢れを纏うのは私。
それでいい。
そう思ってもやはり離れ難く、私たちは再び月が昇るまでそうしていた。
◆ ◇ ◆
我が番が棲まいへと向かうのを見送って、私は水の道に飛び込んで泳いでから香り草を擦りつけ、巣に戻る。
するとカイが巣の前に造ってあった炉に火を入れ、沸かした茶を飲んでいた。
「おや」
「…………」
恨みがましい目つきで見てくるのに、私は軽く手を振っていなす。
「寝ていると言ったのに」
「……寝てなかった」
「寝ていましたよ、森で。気持ち良かったです」
「水浴び、した……?」
くん、と鼻を蠢かせ、カイが問う。
「ええ、魚を捕って食べたり。久しぶりの我が森ですから、楽しくなって」
「……ん」
目の前に湯気立つ椀を差し出され、にっこり受け取る。
「ありがとうございます」
「おれ、でかける」
「務めですか」
「ん」
「いつから?」
「もう、行く」
「ああ、それでここに?」
わざわざ私に報告などせずとも良いのに。可愛いと思い、思わず頭の毛を撫でた。
「ん」
「私も務めがあります」
「ん」
コクコクと頷きつつ茶をすするカイは、やはりかわいい。
思わず笑んでしまいつつ茶を飲み終えた私は、腰をあげてシグマの建屋へ向かう。
するとカイがついて来た。割とよくあることなので放っておいたら、建屋の前でグイッと腕を掴まれた。
「なんです?」
私の胸元に顔を押し付け、クンクンと匂いを嗅いでいる。
「……」
微妙な顔をしているカイににっこり問いかけると、黙したまま首を振り、去っていった。
匂いが残っていただろうか。
だとしても、カイに白銅の銀鼠の匂いが分かるだろうか。
いいや。
分かったとしても、問題ない。
カイは、私が望めば、その通り従うだろう。
そんな確信があった。
◆ ◇ ◆
建屋に入った私は上位に帰参の報告をして、記録を残す作業を始めた。
今回赴いた黄金の郷について、そして山のものについての記録を残さねばならない。
山のものについては、今まで残されていた記録に足りなかった部分を、特に詳細に記した。
頭部に角があり、瞳孔が横長で口が小さい。腰から下が山羊と似て、首のあるあたりから臍から上の胴体がある。走るのは遅いが岸壁をスイスイ駆ける。高く飛ぶことはできるが人狼には及ばない。鼻は弱く、耳も人狼どころか鹿にも及ばないけれど、遠くを見通す目があるようだ。
あえて『頂の祠』については詳細を記さず、山のものがそこを大切にしているらしいということのみ記録した。
黄金の郷についてだが、アルファになると頭の毛や体毛が金に染まることは、既に記録に残っている。
今回分かった『瞳に金の粒が散るものが次代のアルファとなるらしい』ことは、あえてひと族風の言葉で書き加えておく。
ひと族の言葉は、使う文字がほとんど同じなのだが単語自体が少し違い、同じ綴りの単語でも意味が違うことが多い。一見して違和感はないだろうが、ひと族の言葉に慣れないものが読んでも正しい意味は掴めないだろう。
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