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しばらく前からベータ筆頭は憂いていた。
敬愛する我がアルファについて。
単なる憂いで終われば良い、自身の考え過ぎでしかない……と願わなかったことはない。
だがベータの筆頭である自らは、郷を円滑に治める勤めを負う。やらねばならぬことに手を抜く訳にはいかない。我がアルファが次代に責を譲るなら、次代を支える人狼が育っていなければならぬ。
ベータ筆頭はアルファが自ら選ぶ。その他、階位の筆頭も同様である。その選択肢を増やし、じだいのアルファが心着なく精霊の求めに応えられるよう、準備をしておくのだ。
有能なルウを抜擢し、カイを保護し、ラムダやガンマと繋ぎをつけ……若いシグマを焚き付けた。
ガンマより次代を選べと勧告された我がアルファは、しかし請がうことなく、たちの悪い冗談だと笑い飛ばして、それをベータ筆頭に話した。
しかし精霊第一であるガンマが好悪によりものを言うわけもなく、冗談であの重い口を開くわけもない。精霊が『我がアルファはその責に非ず』と判断し、ガンマに告げるよう指示した。それゆえにガンマはくちを開いたのだ。
憂いは憂いで終わらなかった。この上それを無視するのは悪手でしかない。
いずれにしろ、遅かれ早かれ我がアルファはその責を外されるのだ。すでに決まっていることを笑い飛ばして無にすることはできない。
ベータ筆頭は唯一アルファに殉ずる階位である。それを知るのはベータ筆頭のみであり、伝えない限りアルファですらそうとは知らぬ。そしてベータ筆頭は我がアルファにそれを伝える必要を感じていなかった。
アルファを補佐し、郷を導く。その役目に必要な事とは思わなかったからだ。
ともあれこの身は、アルファが精霊の加護を失えば同時に役目を失い、郷のために働くことが叶わなくなる。ゆえに今のうちできることをせねばと動いていたのだが、そうこうするうち、いやな噂が耳に入ってきた。
「精霊は見ているのだな……」
噂のひとつひとつは取るに足りない戯言のようなものばかり。
みな笑い話に興じているのみ、に見える。
だがそれをつなぎ合わせ全体像を見ようとすれば、別の意味が隠れているのが見えて来る。
そして自らを賢いと自負するものほど、まんまと踊らされる。
真実ただの戯言であるなら問題は無い。勝手に踊る者がいようとそのものの責だ。しかし不穏な意志が、そのような動きを目して働いているとしたら。
どこの誰が、そのような意思を持つか。
噂の根源は先の他郷における捜索としか思えない。そもそもアルファの意志でもなく、後付けで進言を命としたに過ぎなかった。ゆえに知る者の数は限られる。
人狼は自らの働き以外に興味がなく、異例ともいえる行動を吹聴するはずもない。ゆえにいちいち黙秘を強いるなどしないのだが、噂は広がっている。
誰が何処に行ったといった情報は巧みに秘されているが、事情を知る者の中でこのような動きをする資質のある者、と考えれば……おのずと絞られる。
実のところ、どの人狼かなど考えるまでもなかった。
◆ ◇ ◆
ありえぬと笑い飛ばせる与太話の域を出ない、単なる暇つぶしの話のタネ。
デルタが作業しながら陽気にしゃべり倒すのだから、真実味など無いに等しい。だから、みな罪の意識なくそれをくちにし、話は広がり続ける。
ほぼ望み通りの状況で、噂が広がっていた。
だがある程度広がれば、事情を知るものがどこに疑いを持つか。
そうなれば問い質すものがいるであろうことは織り込み済みだった。
「ここにいたのか」
「ベータ筆頭」
かつてカイが蹲っていた、水の道に添う河原で声をかけられ、私はにっこりと応じる。
やはり予想通り、物申すべく来たのはこの人狼だった。
「このところ、あちこちに顔を出しているようではないか」
「ええ、ひと里より戻ってから資料の整理に追われ、その後黄金の郷へ向かいましたから。私は郷のことをもっと学ばねばなりません」
幼狼への語り聞かせのみならず、私はシグマとしての仕事を、上位に従い学んでいた。
その姿勢は殊勝と受けとる上位には、思いのほか受けが良い。
「ほう。武装は完璧と」
「なんのことでしょう。学ぶ姿勢は上位から認めていただいています」
「理論武装、など人狼はなかなか思いつかぬのだが。そなたはひと里に長くいたゆえか。姑息……」
「……私は思う所を信じて行動しているのみです」
「そうさな。この身が口にしたこと、忘れてはいない。だが真意を問うのもこの身の責」
言葉を切り、ベータ筆頭は若草色の瞳を面白そうに細める。
「真意、とは」
「なにが……と問うまでもないな。狙い通りということか?」
「なんのことです」
「この冬成人の儀を迎える若狼が、不穏な行動をとろうと画策している」
「……それは大変なことです。けれど、成人の儀を越え、精霊の言祝ぎを受ければその考えも変わるのでは?」
「他のことならそうも思えるが……番にかかわることでは正気を失うものもいる」
「ああ、そうなんですね」
少し考えながら、私は頷いた。
ベータ筆頭は推し量るような目を向けて来る。
「私は番なしなので、そのあたりは理解が及ばぬかもしれません」
「……それはまことか」
「なにがでしょう?」
「そなた、まことに番は無いか」
「ご存知でしょう」
「知っている、と思っていたが……違うのかもしれぬ」
「私の番をご存知なら、ぜひとも教えていただきたいです。諦めてはおりますが、番と共に過ごすことに憧れはありますので」
首をかしげて問えば、ベータ筆頭は溜息を吐いて苦笑した。
「まあよい。それより、かの若狼を焚きつけて何を狙う?」
肩眉を上げて向けられた問いに、私はにっこりと笑みを返す。
「どの若狼でしょうか?」
「あくまで知らぬと申すか」
「存じ上げていることならお伝えします」
以前と違い、私の心臓は平常通り。
金のアルファと相対したときを思えば、ベータ筆頭ごときに気圧され心乱されることも無い。
「……では問いを向けよう」
「なんなりと」
両手を交差して胸に添え、軽く頭を下げると、ベータ筆頭の声が降って来た。
「郷に良かれとの想いからと考えてよいか」
私は頭を挙げず、目を伏せたまま答える。
「私ごとき、目の前のことに対応するので手一杯です。郷にとってどうなるかなど、この手には余ること。ただひとつひとつ、良き結果を求めて動いているのみです」
「……度し難い」
ため息交じりの声が降り、私は顔を上げた。
「次代には、その働きが求められるやもしれぬ、ということか」
「そのような」
「次代たるが、かの若狼とみるか」
「私ごときにはあずかり知らぬことです」
若草色の瞳が、願いを伴う強い光を持って私を見つめている。
「ガンマの言を無視した我がアルファにこそ責があり、と言いたいか」
「ですから……」
「ああ、良い。言わずとも知れた」
呟くような声を漏らし、ベータ筆頭はククッと肩を揺らす。
「確かにな。精霊に悖るは、我がアルファである。違いない」
愉快そうに笑っているくせに、ベータ筆頭かうかがえたのはは諦念。
「もはやこれまで。邪魔したな」
その声は、走り去る背中越しに、私の耳に届いた。
◆ ◇ ◆
森に雪が降った。
季節が変わり、若狼はガンマの森に誘われる。
そして同時に、番を持つ人狼どもが発情する。
森のあちこちで情を交わす人狼の、まぐわいで高ぶり遠吠えを合わせる吠え声が響いく季節。
若狼や子狼は、寒さに備えて肥えた獣を狩り、はらわたを喰らうと、見よう見まねで皮を剥ぎ、毛皮を加工してみたりして過ごす。
発情の来ない人狼や番のいない人狼は、若狼が成獣となって戻る祝いのための準備をする。
私も先の冬まではそのように過ごす一匹だった。
初めての、番のある冬が来たのだ。
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