7.我が意のままに at will

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7.我が意のままに at will

 ◆ベータ(ミュウ)◆  発情の季節が来た。 「この冬は共に過ごさぬ。おまえは子を養い務めを果たせ」  子を成した雌にそう告げれば、ひどく渋られた。 「なぜ? 前の冬は共に過ごしたのに」 「ベータ筆頭がそのように慮ったのだ。おまえが子を孕んでいた故、な。しかしベータで番の無いは我のみ。この冬は言祝ぎを受けた新たな成獣を迎え入れる準備をせねばならぬ」 「……たしかに我らは番ではない、けど……薬を使えばこの冬も子作りはできるよ?」  道理を説いても雌は言い張る。 「幼狼(おさなご)を増やすは我がアルファの示すところでしょ」 「ひと冬過ごしただけの子狼を放置して、犬のように盛ると言うか?」 「私たちは子ができやすいのよ。一度の発情で孕んだのだから」  人狼は孕みにくい。生涯で雌が孕むのは多くても三度というが、この雌は一度で孕んだので、同輩から羨まれたと言っていた。  だが、子が季節外れ(はぐれ)であったことをチクチク言われたと零してもいた。 「だからもっと子を増やさないと。今度はきちんとした季節に」 「我らは発情していないではないか」  薬を使っただけ、発情などしていない。あくまで歪なことなのだ。  呆れた素振りを隠すことなく、深い溜息を吐いた。 「番であっても子が巣立つまでは発情せぬというに、馬鹿なことを。なにより薬を手に入れようがない。イプシロンもすでに発情している」 「もう! どうして先に頼んでおかなかったの!」  こうまで聞き分けの無い人狼であっただろうかと戸惑いつつ、諭すように告げる。 「番なしだけではない。子がいて発情せぬ番も老いたものも、みなこの時期は必死に働くものだ。なぜ従わぬ」 「今度こそ、あたしは季節外れ(はぐれ)じゃなく孕むの!」 「我らは発情せず、薬で無理矢理子作りした。人狼の(ことわり)にそぐわぬことだがアルファの命ゆえ従った。この冬は命じられていない」 「だって!」  また、ため息が出た。 「なぜ聞き分けぬ」 「だってあなたの匂いが……!」 「匂い?」 「そうよ! 薬で子作りしたときよりもっと良い匂いなの!」  確かに雌の匂いもいつもと違うが、むしろ臭い、嫌な匂いだ。さきほどから意識して鼻を塞いでいるがそれでも臭く、不快が増すばかり。  雌は巣の出口を塞ぐように立って声を高めた。 「ねえ私たち本当の番になったの! だから子作りしましょ!」 「そこをどけ。それとも巣を壊されたいか」  忍耐も限界を迎えていた。どかぬと言うなら巣をぶち壊してでも、早くここから離れたい。  雌に威嚇を向けると、ビクッと身を震わせ、へなへなと崩れ落ちた。鼻を近づけたくなくて足で雌を押し退け、巣を出る。  しかしすぐに雌も巣を出て来た。追って来ようというのか。  激しく苛立ち、振り向かぬまま威嚇を向けつつ吠えた。 「来るな! おまえは子を養い務めを果たせ!」  はっきりと拒絶の意志を匂いに乗せ、威嚇を解かぬまま森を駆ける。  臭い匂いはもう追って来ようとしなかった。それでも嫌悪感が抜けず、毛にまだ残る臭さを振り払おうと爪を立てて木を登り、飛び降りて、匂い草の茂みで転げ回る。  分かってはいるのだ。  前の冬、子作りを命じられるまで番なしであった雌だ。番なしがどれほど辛いか、この身にもそれは分かる。現状もアルファの命により薬を使って子作りした故。あの雌に罪咎(つみとが)は無い。  それに自らも確かに、あのとき期待を抱いたのだ。  子作りすることで、いずれ真の番となれるなら、どんなに良いかと。子が産まれ、雌に対して優しい心持ちも抱いた。  あの雌も同じ心持ちを抱かぬわけがない。分かっては、いる。  しかし真の番と出会って以降、嫌悪感は日々増すばかりだった。雌を憐れとも思い、何とか抑えてはいたが、あの臭い匂いは耐え難かった。  ようやく臭い匂いが薄まって、僅かだが愛しい番の匂いを感じ取れた。もっと嗅ぎたいと鼻を利かせる。  ああ、なんと香しい、心安らぐ匂いなのだろう。  今どこにいるかも、はっきりと分かる。この方向は……シグマの建屋か。おそらく真摯に働いているのだ。  さきほどまで荒んでいた心が、穏やかに落ち着いていく。  若狼が戻る準備をするなど、単なる言い訳。ただ臭い雌から離れたかっただけだ。  そして叶うなら……我が番と共に。  我が番と共に在れる日は、いつ来るのだろう。一夜でも早くそうありたい。その為なら何でもする。  番は美しく香しいだけでなく賢い。  その番が同じ想いを果たすため働くと、信じて待ってくれと言った。……とても辛そうに。  それは人狼の(ことわり)に反することなのかもしれぬ。そう過ったが、たとえそうであろうと番に従うと決めている。  そもそも、このような形で番と出会うなど、それこそ(ことわり)に反しているではないか。精霊が我らを嫌いないがしろにすると言うなら、理を説かれても知ったことではない。  ああ、番とこの季節を過ごせたなら、どれほど心躍るか。  いや、逆に心は幸福に凪いで落ち着くのだろうか。  駆ける足は、おのずと―――あそこへ向いていた。   ◆   ◇   ◆  発情の季節。  月が一巡りするほど続くそれは、番の無かった私にとって『面倒』でしかなかった。  なにしろ殆どの人狼が仕事をしない、どころか何処にいるか分からないのだ。  あちこちで合わせた遠吠えが響く森は、いつもと全く違う様相になり、匂いも違う。異様な雰囲気になっていて、気楽に経巡ることも躊躇われる。  若狼たちが成人の儀を終え戻る頃には何事も無かったように通常の森に戻るのだが、それまでの間は獣も虫も鳥も、番しか見えない人狼の逆鱗に触れまいとするかのように(なり)を潜めてしまう。  ひと里へ出る前、成獣となってから一度だけこの季節を迎えたのだが、そのときは『新たな成獣が戻るので、その準備に追われる季節』だと教えられた。  シグマの階位を得た人狼に番のある者はおらず、みなが通常通りだったのもあるが、実際、郷の人狼どもが全く使えなくなり、いつも通りに働くことが叶わぬほど慌ただしく過ごした覚えがあるのみ。  だから私は知らなかったのだ。  発情がどんなものか。  ゆえに油断していた。  いつも通りを装えると、(みずか)らを過信していた。  鼻は我が番が何処にいるかはっきりと知らしめ、抑えていなければ足は勝手にそちらへ走ろうとする。  叶うなら愛しい番の息遣いまでも聴きたい。そう想うばかりで、それ以外は雑音としか思えない。  鼻、耳、足も腕も、すべてがただ唯一を求める。  早くそばへと逸る心が、何より強く私を支配する。  そばへ行きたい。  逢いたい。  考えるのはそれだけ。  やるせない衝動。  熱を持つ身体。  けれど私は番がいることを秘している。  素知らぬ顔でシグマとしての務めを果たさなければ。  いつも通りに、と考えても衝動は収まらない。必死に抑えてはいるが、おそらく私からは発情の匂いが漏れている。  番持ちがいないうえシグマはみな鈍いのか、私の匂いが変わったことに気づくものはいないけれど……指先が震えて書き改めも進まず、声をかけられてもその意味を(とら)えるのに酷く集中力を必要とする。  必死で押さえ続け、体にも心にも負荷をかけ続けるからだろう、私はひどく汗をかいており、抑えきれぬ吐息が漏れてしまった。 「……はあ……」  いや、体が熱くなっているから汗が出るのか?  分からない。どうしたらいい?  ああ、この衝動! どうしたら押さえられる?  分からない、けれどどうにかしなければ……! 「……くっ」 「どうしたのだ、七席」  シグマ三席が声をかけて来た。 「……ぁ、……」  けれどまともに答えるのも困難だ。なんとか声を返そうとしたが、吐息のようなものが漏れたのみ。 「熱でもあるのか」 「は……ぃ、……か、ぁ、らだ、……が」  必死に言葉を紡ぐと、三席は唸るように呟いて眉をひそめた。 「病を得たか」  すると他の上位もくちぐちに声をかけてくれる。 「ならば癒し(イプシロン)の所へ行くべき」 「いいや、あやつらも番がある」 「そうだ、この季節は使い物にならぬ」  とはいえシグマには薬を造る術がない。人狼は滅多に病に侵されないゆえに、薬を常備することもない。  薬効のある草や実、ときに毒草なども合わせて煎じるのはイプシロンにのみ与えられる加護による業なのだ。 「ひとまず体を休めろ」 「建屋の中では休まるまい」 「仕事はせずともよい、外に出て丸くなるがよい」  シグマの仕事を学ぼうとしていたせいか、このところ上位のシグマは私に対して優しい。いや、どうすべきか迷っているのか。 「しかし病なら、我らにうつるのでは」 「なんと、流行り病であれば由々しき事だ!」 「そうだ我らは準備せねばならぬ」 「新たな言祝ぎを受けた人狼を迎えるに、他の階位はあてにならぬゆえ」 「まったく、困ったものだが」 「然り。我らまで動けなくなるのは避けねば」 「その通り。ここにいてはならぬ」  結局、棲まいで寝ていろと建屋から追い出された。  私はろくに口も利けぬまま、よろよろと建屋を後にするが、これは僥倖。  そうだ。  仕事をせずとも良いのなら、……もう  抑えなくとも良いのだ。  ……と思った瞬間。  私の足は、番の元へと駆けはじめていた。  我が番がいるところ。  ……私には分かる。  匂いが……ああ、声も聞こえる。  私を呼んでいる。  あの雌と共には居らず一匹で  ―――あそこに
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