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空が明るくなって月が薄れ、樹々の狭間から木漏れ日が零れ落ちるころ。
狂おしいほどの渇望も、月と共に薄れていった。
「そなたはなんと香しいのだ。この毛はなんと美しいのだ」
私の頭の毛をするりと撫で囁く、我が番。
嬉しい匂いを漂わせつつ私を抱きしめ、鼻を擦りつけてくれる。
先ほどまでの、熱に浮かされたような狂乱と興奮が嘘のよう。
目の前の愛しい存在に心が奪われてはいるけれど、頭は驚くほどスッキリしていた。
それだけではない。体には力が漲り、嗅覚も聴覚も格段に鮮明になっている。それは驚きよりも歓びを私に与えた。
しみじみと実感する。運命と番えた私たちは、間違いなく互いを高め合ったのだ。
以前よりさらに優し気な暖かい気配。きっと私の気配も変わっている。
より鋭敏になった嗅覚は、より香しい番の匂いを感じさせる。
聴覚は低い声の豊かな響きを、より明確にする。
毛艶はますます輝いて、体躯も力強さを増している。
身の裡に活力が湧いて来る。これが番うということ。
「菫色の瞳も輝きが深くなって、より美しい。この匂いも……」
「あなたも。とても、とても、素敵です。ああ、もっとあなたを匂わせて」
思わず鼻を擦りつける。番も同じように私の匂いを纏おうと鼻を、身体を擦りつけて来る。
深く輝く鈍銀の瞳を細め、嬉しそうに鼻を擦りつけて来る番に、私は喜びに包まれる。
番がとても嬉しそうなのだ。
このようにいつも嬉しそうに笑っていて欲しい。
いちいち惚れ惚れとしながら、私はより深い光を湛えた鈍銀の瞳を覗き込む。
やはり私たちは、もっと触れ合わねばならないのだ。
「戻りたくない。あの雌のいる巣に、もう戻りたくない」
けれど切ない声音でそう言ったとき、鈍銀の瞳は輝きを曇らせた。
「もう耐えられぬ。菫の白蜜、我はそなたと共にいたい」
悲し気な匂いが漂い、私は狼狽えながら言った。
「私も、ずっと共に……ああ、ずっとすぐそばに在りたい」
こんな顔をさせたくない。先ほどまでのように喜びに包まれた匂いを嗅ぎたい。いつも嬉しそうな笑顔を見せて欲しい。それこそが我が望み。その為に行動を重ねて来た……けれど企みは未だ途上。
「ならば、そうしようではないか」
では、私は告げるのか? 待てと? 耐えろと?
愛しい番が悲しい匂いを纏っているのに、そのまま耐え続けろと、そう告げるのか?
今すぐ笑って欲しいのに、そんなことが許容できるのか?
「もう離れることなどできぬ」
声を励ます白銅の銀鼠から、先ほどまでの歓び溢れた匂いではない、悲し気な匂い。
ああ、今すぐこの悲しい匂いを止めたいのに。
「私も……そうしたい。離れたくなど……」
「ではそうしよう」
思わず真意をこぼした私に、番は嬉しそうに笑む。
「菫の白蜜。共に……往こう」
浮き立つような匂いが漂い、私も嬉しくなる。が、すぐにそれは消え、不安げなものに変わる。
鈍銀の瞳には、窺うような色が乗る。
ああ、そんな眼にならないで。
それに私だって行かせたくなどない。
考えないようにしてはいたけれど、番があの雌と共にいるのだと思えば、胸の奥にどす黒い澱が積もっていくのだ。
「郷など、群れなど、どうなっても良いではないか。そなたさえいればいいのだ」
「そうですね……」
切なる願いを乞う番の望みを叶えてあげたい。それは私の望みでもあるのだ。
いつもこのように嬉しそうに笑んでいて欲しい。
どうすればいいのか―――。
『言うが良い。望みを』
金色の人狼の、深く響くような声が脳裏に浮かぶ。
そうだ、その方法があった。
「ねえ、白銅の銀鼠?」
番の望みを叶える方法が、私にはあるではないか。
この可愛い人狼を森から離してしまえば良いのだ。
「私と共に、水の道を越えませんか?」
「菫の白蜜……それは、共に往くということか……?」
私はフフッと笑んで、愛しい番の頬を両手で包み、美しい鈍銀の瞳を覗き込む。
「向こうに山があるのは知っていますね?」
「知っている。この郷に来るとき、そこを越えてきたのだ」
「あそこに私は、少し用があるのです。……一緒に行きませんか?」
「山へ?」
「そう。他の人狼がけして来ることのない場所です」
「おお……そこで我らは共に暮らすのか」
「いいえ。暮らすのは別の場所……ですが」
「どこであろうと行こう。そなたと共に在れるなら」
疑うことなく歓びもあらわに、我が番は鼻を擦りつけて来る。
ああ、愛しい愛しい人狼。
もう二度と、悲しい色をその瞳に上せるものか。
◆ ◇ ◆
森には発情の交歓を続ける人狼たちの遠吠えがあちこちで響いている。今ならどの人狼が何をしようと構うものはいない。
番と共に一度巣に戻り、カイにもらった干し果実や燻し肉を布袋に詰めて、私たちは再び森を駆けた。
私たちの動向を窺うものも掣肘するものもいない今のうちに、ここを離れる。私はそう決め、番は嬉しそうに頷いて従った。
カイ筆頭と通った道程を逆に辿れば、さほど苦労無く山の裾野に辿り着ける。私が道を示し番が追随する形で進み、私たちは二つめの水の道を渡った。
我が森から離れたのだ。
アルファの許しなく水の道を渡ることには、危惧があった。アルファを選んだ精霊の威に添わぬ人狼には、なにかしら報いがあるのではないか。
けれど、水の道から上がり身を震わせて水気を飛ばした私たちは、山裾に繋がる浅い森で持参した燻し肉を齧りながら落ち着くことができた。
「許しなく森を抜けたのに、なにもありませんね」
「そのようだな」
「やはりアルファの威光は衰えているのでしょうか。どう思いますか?」
「……我は番探しの旅で、数多のアルファと見えたが……」
「そうでしたね! あのアルファは、他と比べてどの程度なんです?」
単純に興味があった。
少なくとも黄金のアルファには劣っていると感じてはいるが。
「……そなたは賢いが、ときに言葉を選ばぬのだな」
「あれに言葉を選ぶ必要は無いかと」
あのアルファは、この美しい人狼を本来の階位ではなく別の階位と詐称させていたのだ。そのため不当に侮られていた番の悲しみを忘れることなど、できようはずもない
「……おそらくアルファという存在は、優劣で語るものではないのだ」
「どういうことです?」
「森ごとに精霊は異なる。同時にアルファも異なるのではないか」
「精霊が異なるのですか?」
「そのように感じていたが……」
ひと里と王都しか見ていない私は、黄金の郷以外の他郷を知らない。
白銅の銀鼠は、自ら足を運んで匂い感じたことを訥々と語る。
「うまく言えぬが……性質と言うか、気質というか、そういうものが違うように思う」
「それは私には知り得ぬことでした。素晴らしいです。ああ、あなたはなんと賢いのでしょう! もっと教えてください!」
「そなたに……賢いそなたに語れるようなものなど」
思わず『知りたがり』が出てしまい、目を輝かせて尋ねると、白銅の銀鼠は眉尻を下げた。
「そんなことないです、白銅の銀鼠。あなたが感じたこと、教えて?」
「……番探しの人狼が多くの郷を見るということは、多くの郷で受け入れられなかったということよ。誇れるものではないのだ」
「そんなもの、多くの郷に見る目が無かっただけではありませんか。あなたは素晴らしい人狼です」
我が番が取るに足りないもの、などと言うものが目の前にいたなら八つ裂きにしてくれる。
誰が何を言おうと番の素晴らしさは変わらないとはいえ、侮られるなど耐えられないし、侮る言動を見聞きするのも許しがたい。
「誤ったことであろうとアルファの命であれば従うことを肯ずる、あなたはとても人狼らしい方です。精霊に従う誠実な生き方を通しながら、番を求めて郷を離れることすら厭わない行動力もある」
それに私のような知恵と知識だけに偏ったものは、真に賢い人狼とは言えない。人狼として正しきを知り、それに基づき判断する、それこそが人狼の賢さであり、我が番にはそれが備わっている。
「そしてなにより、この私をこのように求めてくれて、しかも理不尽ともいえる願いを叶えて下さるのです。私は……あなたに甘えすぎているのです。それが苦しくてたまりません。逆にあなたは、なんと忍耐強いのかと感動に震えるばかりで……」
けれど白銅の銀鼠は苦しそうに眉根を寄せ、ゆるりと首を振る。
「そんなものではない、菫の白蜜。そう見えるのなら、それはすべてそなたがここに在ってくれたからこそ。そなたが在るからこそ間違いではなかったと思えるのよ。我は常に迷い、悩み、それを内に秘めて燻っていた」
「いいえ、白銅の銀鼠。愛しいあなた。迷いも悩みも誰にでもあることです。あなたは独り耐えて考え、解消のために行動なさった。あなたが行動してくださらなければ、私はあなたに会うことができなかった」
苦し気な様子に、私まで苦しくなってくる。
「お願いです、白銅の銀鼠。どうかご自身を誇って?」
「菫の白蜜……」
自然に身を寄せ合った私たちは、鼻を擦りつけ合い、互いを見つめる。
こうしているだけでぽかぽかと温かいものが身の裡を満たしてくる。いいや心の奥底までも温められているようだ。
他の何ものも要らない。二匹だけの世界……
ああ、精霊よ。請い願います。我が望みを叶えて。
白銅の銀鼠が心の裡に抱える重いものが、払拭されますように。
そして心の底から嬉しい思いで満たされ、笑ってくれますように―――
「あ~、なにしてんの?」
そこに頭の悪そうな声が、無遠慮に割り込んで来た。
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