7.我が意のままに at will

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 声に目を向けると、そこにいたのは異様な生き物だった。  けして頑丈に見えない山羊に似た体躯。その首が伸びるあたりに、ひと形の腰から上が伸びている。平べったい鼻を挟んだ眼は離れていて瞳孔が横長。  興奮しているのか、汗臭いようなクセの強い匂いをまき散らし、目を見開いている。  この匂いには覚えがある。片耳が欠けた山のもの、クィーナだ。 「な! おいら来たよ!」  周囲に他の生き物の気配はない。鼻を(うごめ)かせたが、かなり離れた位置に山のものらしき匂いがするのみ。一匹で来たようだと確認し、私の意識は愛しい番に戻る。  訝しげに鼻を蠢かせた白銅の銀鼠は眉を寄せ、警戒の匂いを漂わせている。山のものの匂いはクセがあり、けして良い匂いではない。不快な思いをさせてしまったかと、私はクィーナに憤りを覚えた。  なにより睦みあう人狼に近寄り声をかけてくるなど自殺行為でしかない。  発情期の人狼は本能に支配され、番以外の存在を許さない。たとえ近寄るものが人狼であっても、番との時を邪魔するなら放置などしない。一撃喰らわせ、そのまま二匹で喰らい尽くしてしまうだろう。  なのにクィーナから怯えの匂いはしなかった。 「あんた見たら来いって言ったから! な!」  むしろ『さあ褒めろ』と言わんばかりに四肢を踏ん張り胸を張っている。  私は苛立ちしか覚えないし、白銅の銀鼠が警戒するのも、攻撃姿勢を取るのも当然のこと。 「ちょ、なんだよ! いう通りにしたのに怒るなよっ!」  しかし二、三歩後ずさったクィーナから、怯えの匂いはしなかった。人狼の脅威を教えたつもりだったが、記憶する力が無いのか、それともルウがいないから侮っているのか。 「なあ、言う通りにしたぞ! ご褒美は!?」  いずれにしろ不快な存在であるのは間違いない。 「私に従うもの、なんですが……どうしますか?」 「したがう? なあ、なに言ってんだ?」 「喰らってもおいしくはなさそうですが……」 「えっ? おい、なんだよっ! 喰わないでよっ!!」  焦ったように声の調子が変わり、僅かに怯えが匂ってくる。 「なあ? あんた言ったろ? 見つけたら来いって、来たらご褒美って、な? 来たからおいしいのくれよ」 「……ずいぶん愚かに見えるが」 「ええ、愚かなんですが……」  私の鼻をぺろりと舐める白銅の銀鼠は、鈍銀の瞳を細めている。  甘く濡れたような香しい匂いのままだが、当然不快を感じているのだ。 「え! おいらのこと愚かって言った!? おいら頂の祠の……」 「黙って」  軽く威圧すると、山羊に似た歪な生き物は即座にくちを閉じた。  そして思い出したように怯えの匂いが強まる。 「なるほど」  笑みに細まった鈍銀の瞳が私を覗き込む。そこには疑いない賞賛に似た色がある。 「従うというより怯えているのだな」 「ええ。愚かなので、この方が良いかと」  窺うように見ると、白銅の銀鼠は僅かに眉を寄せて鼻を蠢かせた。 「……コレが、そなたの役に立つか」 「使いようです」 「賢いそなたのことだ。深い考えがあるのだろうが……」  苦笑する我が番はクィーナの有用性について懐疑的なようだ。  だがクィーナについては使い方がほぼ決まっている。 「種を蒔いているのですよ。どう芽吹くかによって使いようも変わってきます」 「……なるほど。他にもいろいろと考えているのだろうな」 「王都にも種を蒔きました」 「ひと族か。……まこと、そなたは計り知れぬ。誇らしいな」  鈍銀の瞳が礼賛の色を浮かべ、それは匂いにも表されていた。白銅の銀鼠が単純に私を信じてくれる。心が浮き立っていく。  アルファもシグマ筆頭も私の報告に関心を寄せなかった。むしろ、ひと族を手の内に置くなど余計なこと、と言わんばかりだった。けれど番は働きを認めてくれる。 「何の役に立つかは分かりませんが、王都にはふたつほど」 「たいしたものだ」  ふんふんと頷きながら呟く我が番。なんと可愛いのか。どれだけ私を喜ばせるのか。  愛しさに胸が潰れそうな感覚。同時に胸に迫ったのは憂い。 『戻りたくない。あの雌のいる巣に、もう戻りたくない』  どれほど辛かったのか、私は思い及びが足りなかった。  自分も辛いと思っていたけれど、考えてみれば分かることだ。単なる番なしとして暮らすより、番でもない雌のいる巣で暮らす方が辛いに決まっているのに……苦しみを増すばかりの要望に、厭わず従ってくれた。そんな惨いことを強いたのに、こんなに私を信じてくれる。  それだけではない。この美しい人狼は、精霊より受けた階位を偽ることを強要されている。あろうことか、そのせいで郷の人狼どもに蔑まれているのだ。 「ああ、白銅の銀鼠……」  この人狼が心穏やかに暮らせるよう、尽力すると決めたではないか。楽しそうに笑えるよう、そのために動いて来たつもりだった。なのに私は、さらなる苦しみを味あわせてしまっていた。なぜそこに思い及ばなかったのだ。  このままでいいのか?―――いや、私は番の想いに応えなければ。  今一度、自らにそう誓いつつ、番に顔を近づけ、鼻を軽く擦りつける。 「クィーナ」 「な、なに?」 「良く来ました。けれどご褒美は後です」 「うん、分かったよ」  チラリと目を向けると、愚かな山のものは怯えの匂いを漂わせたまま、その場で軽く足踏みしていた。この動作に何か意味があるのかと過ったが、今は良いと放置する。  山肌を自在に駆ける蹄は硬そうだが、下草がびっしりと生えているこの場では微かな音がするだけだ。さほど耳障りでもない。  愛しい番に目を戻し、鼻を擦りつけながら言った。 「この人狼を頂に連れて行きます」 「い、今? 当番いるけど、……喰わない?」 「どうします?」  私は白銅の銀鼠に甘えるように尋ねる。我ながら甘い声になった。 「あまり旨そうではないですが、喰らってみます?」 「そなたと共に喰らうなら、なんでも旨かろう」 「あっ、あのっ! 冬は果実も無いし、みんなサボりたがる、んだ! おいら追い出すから、当番変わるから、だからっ! 当番喰わないで!」  言い募る声は必死な様子だ。愚か者なりに同族を守ろうとしているのか。 「追い出すことであなたが疑われ、山を出ることになりませんか?」 「ならない! おいらちゃんとやるよ! 今だってあんたが来たら来るって約束したから来たろっ!」 「騒がない」  そう言って目線を向けると、クィーナは動きを止めてくちを閉じた。 「では当番を追い出して。これから頂に行きますか?」 「夜まで待って! 大丈夫! おいら、ちゃんと追い出すよ!」 「では待ちましょう。用意ができたら……そうですね」  私は布袋から、王都で手に入れた犬笛を取り出した。ひと族には聞こえない音が鳴るものだ。山のものも耳が悪いから聞こえないだろう。 「クィーナ、用意ができたら吹いて。すぐに行きます」  犬笛を渡し、早く行けと軽く手を振ったが、愚か者は動かない。 「どうしました? 早くなさい」 「あのっ、……おいしいの、は?」  控えめな問いを寄越すクィーナから、不安げな匂いが怯えより濃く漂った。  私は横目で見やりながら、軽く威圧を向ける。 「準備ができたら笛を吹いて。いいですね?」  ひゅつ、と息を呑むような音が聞こえ、そのまま土を踏む蹄の音が遠ざかっていった。  蹄の四つ足の音は、やがて崖を駆け上がっていく。私は愛しい鈍銀の瞳を覗き込んだ。 「白銅の銀鼠」  そうだ。  愛しい番に隠すことなど何一つ無い。  すべてを詳らかにし、悩みも苦しみも共に味わうのだ。  それこそが我が番に対する誠実。 「……お話ししておくことがあります」  美しい目を細め、我が番は鼻を擦りつけて来る。 「なんなりと言うが良い。どのように苛烈な望みであろうと、そなたに従う」 「いいえ、白銅の銀鼠。私はあなたに苦しい思いをさせたくない」  眉寄せて告げると、白銅の銀鼠は嬉しそうに笑みを深め、私を抱きしめる。 「笑っていて欲しいんです。今のように」 「……菫の白蜜」 「私の望みは、それだけです」  抱きしめる腕に力が籠り、愛しい番の芳香が濃く香る。 「それは難儀な望みだな」  声には嬉しさと笑いの気配が乗っていた。
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