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赤茶けて乾いた山肌を横目に登ってくると、いきなり緑溢れる平地になる。
途上では緑の匂いなど感じられないのに、足を踏み入れたなら木々や草花、水の匂いも感じとれるのだ。我が森のような濃密な匂いではないが、山肌との落差は意味が分からない。
その時点で目を見張っていた白銅の銀鼠は、最も高い位置ににょっきりと伸びる黒い岩から溢れ出る清らかな水を見て呆然と呟いた。
「これは……。なぜだ? ……山の頂上で?」
「不思議ですが、美しいですよね」
この黒い岩を『祠』と呼んでいるらしいのだが、溢れた水は周囲の窪みに溜まり、泉になっているのだ。驚くのも当然なのだが……私は思わず笑んでしまった。
目を見開いてきょろきょろ辺りを見回し、鼻を蠢かせている我が番があまりに可愛らしくて、そのまま抱きしめて鼻を擦りつけたくなる。
「そーだよ! 我らの山が山羊族に与えてくれたんだ! すごいだろ!」
けれど余計なものがいる。クィーナだ。
二匹だけの時間を過ごしたかったので、はっきり言って邪魔だが仕方ない。
私たちはクィーナの合図を待たずに頂の祠に来ようとしたのだが、微かに緑の匂いはするものの、はっきりと方向を掴めず、ここに至ることができなかった。
しかし、うるさ過ぎるほどに犬笛を吹きまくっていたクィーナと落ちあって叱りつけてから進むと、すんなりと至ることができた。
どうやらここは、クィーナと共に来る必要があるようなのだ。
「一度は頂で時を待ってもらおうか、と思ったんですが。私たちだけで来られないようですし、なにより落ち着かないでしょう?」
「うむ。できれば長居したくはないな」
「……ここには精霊が少ないですからね、我々には居心地悪い。山のものは光の眷属ですから、平気なのでしょうが」
「そうか。山は光が支配する地であったな」
周りを見回しながら小さく頷いている番は、しっかりと神話を覚えているようだ。
仕草、表情、漂う匂い、すべてが愛しく感じられ、思わず鼻を擦りつけようとしたとき、「あ~~? まずいかも~」と、無粋な声が聞こえた。
クィーナだ。
空を見上げたかと思えば鼻を蠢かせ、草を千切って飛ばし……と、おかしな行動をしながら、何やら難しい顔をしている。若干の苛立ちと共に「なんです?」睨みつける。
「えっ、ちょっとやめてよ! ん~~雲が……、んーと、そうだよやっぱ!」
「だから、なんのことです」
「えっ、だってあんたら行くんだろこれから!」
クィーナは、必死の様相で黄金の森方向を指した。
「あっちの森にさ! だったらマズいって」
「黄金の森へ……何がまずいんです」
「てかあ! ん~~、うん、雨が降るよ!」
「雨が降る?」
クィーナはコクコクと頷く。
「たぶん明後日の夜……いや、明々後日の朝かな……ううん、雨じゃない。まだ寒いし霙か、……いや雹が降るかも」
「そんな先のことが分かると?」
何を言い出すのか。信用できるはずもないではないか。
疑いを隠さぬ眼差しと、謀る気かと軽く威圧を向けると、クィーナは慌てて両手を振った。
「あっ、ホントだって! 雲とか風とか、なんか重いとか軽いとか、そーいうの色々で! 分かるの! 雨が降るなあとか、雷来そうだなあとか!」
「天候が? 嘘にしても信憑性が無さすぎますね」
人狼もある程度の予測は立てることがある。森の様子や風の匂いの変化で判断するが、せいぜい翌日のことが分かる程度だ。二日後や三日後まで予測など、できる筈もない。
「うん、おいら目が良いからな! こっから見てるとだいたい分かるんだ!」
ずいぶん自慢げに言っているが、口から出まかせにもほどがある。
「それでは、黄金の森が流されるのも分かっていたと?」
「え? いや、流されるとか知らねーけど、いっぱい降るし風も強いし、川が氾濫するかもなーとか思ってたよ」
「……カワガハンラン?」
訝し気な匂いを漂わせている白銅の銀鼠が、低い声を漏らした。
「ああ、ひと族の言葉では、水の道が暴れることを、そう言うのですよ」
「なるほど。菫の白蜜は本当に賢いのだな」
私を信頼しきって鈍銀の瞳を細める番。
ああ、愛しさで溢れそうだ。
「てか! さっきからさあ!」
「なんです?」
「もーなにやってんの? バッカみたいなんだけど!」
「番と共に在るのです。当然のことでしょう」
「ツガイってなに? ベタベタしてバカみたいだよ!」
番を知らない?
まさか山のものは番を持たないのか。
まあ、だとしても、どうでも良い。
「そろそろ行きますか」
「ああ、そなたに従おう」
「えっ、もう行くの? じゃあ何のために来たんだよっ!?」
「ここを見せてあげたかったんですよ」
「はあ!?」
クィーナは「すんごく頑張って追い出したのに!」だのと騒いでいたが、私たちは構わず足を踏み出した。
来るときはなかなか入れなかったのに、降りていこうとすればすぐに周りは赤茶けた岩肌になった。そしてやはり、緑の匂いが遠ざかる。
それだけではない。あれだけ騒いでいたクィーナの声も聞こえなくなった。たった今通った道を戻っても、やはり赤茶けた岩肌しか無い。
「山のものも、彼らなりの能力を持っているのでしょうか」
「光は人狼を真似て、ひと族を作ったと言うが……山のものも何かを真似たのだろうか」
「ですが、ひと族に能力など無いですよ。もしかしたら、クィーナが特別なだけかもしれません」
「ふむ。まあよい、我らが共に在ること以外、どうでも良い」
「ふふっ、そうですね」
鼻を擦り合わせ、私たちは軽快に山を降りて行った。
◆ ◇ ◆
訳の分からなかった最初の道行きとは違い、今回はずいぶん早く水の道を渡れた。
正面に向かい、番と共に黄金の郷へ進むと、あの時の若いシグマが立っていた。
「我がアルファが、あなたを招いている。付いて来てください」
「招いて? 先ぶれなど出していませんが」
「この森のことで、アルファに分からぬことなど無いです」
心の準備をしてきたのだろう、若いシグマは微笑みを湛え、丁重な仕草で私に対した。今回は迂闊な言葉を漏らすことなく、匂いにも感情を出さずに、先導するように進む。
以前通ったときとは違う道のりを通り、若いシグマはひとつの棲まいへと私たちを導いた。
この森の人狼は、我が森の人狼のものよりも小ぶりな棲まいに棲んでいるようだが、今目の前にあるのはずいぶんと大きい。この森の巣三つ分ほどありそうな広さで、屋根も高い。
「どうぞ。アルファがお待ちです」
あの時覚えた、黄金のアルファの匂いが濃く漂っている。どうやらこれがアルファの棲まいのようだ。強い雄の匂いに気圧されたか、僅かに身体を固くした白銅の銀鼠に笑いかけ、ぎゅっと手を握った。
「大丈夫です。行きましょう」
「……うむ」
繋げた葉が垂れ下がる入り口を抜ける。
中は常の棲まいより深く掘り下げてあり、大柄な白銅の銀鼠であっても、悠々と立っていられた。中心には大きく切った炉が見える。
その向こうに、強い気配を持つ、黄金のアルファがいた。
「よく来た」
豊かな響きを帯びた低い声。優しい口調ではあるが、白銅の銀鼠は毛を逆立て、唸るのを必死に抑えている。
覇気も威圧も無い、むしろ友好的な匂いすらするのに、やはり黄金のアルファの気配は強大だ。
何度か見えて少しは慣れた私でも、やはり気圧されてしまう。
「紫のアルファよ。久しいな」
ハッとして、白銅の銀鼠が私を見る。私は苦笑しつつ首を振った。
「黄金のアルファよ。私はアルファにはならないと言いました」
「ふうむ。しかし何と呼ぶ?」
呼び名は番のみに許す。たとえ真に偉大なアルファであろうと『菫の白蜜』とは呼ばせられない。そうなると私を顕わすのはこれだけだ。
「……シグマ、と」
黄金のアルファはフフッと低く喉を震わせるように笑った。
「では、紫のシグマ。此度はなに用か」
「せんだってお伝えした、私の望みを叶えたく」
「ふうむ」
淡い青の目が光り、我が番を見据える。
「それが、番であるか」
「はっ。我こそがこの美しい人狼の番。よしなに」
白銅の銀鼠は、僅かに枯れた声を振り絞るように告げ、両手を胸に当てて目線を下げる。かつて一時的に動けず息もできなかった私より、よほど胆力があると感心した。
黄金のアルファは息だけで笑い、私を見据える。
「そなたの望みは、番の平安、であったか」
「はい。この人狼の不遇を、少しでも和らげたいと」
「良いだろう。好きなだけこの森に留まるが良い」
「ありがたく。願わくば、空いた巣の一つを我が番に与えていただけますか」
「よい、我が言に偽りは無い。そなたの望みを叶えよう」
ホッとした。
この郷であれば、あの雌と暮らすこともなく、不当に蔑まれることもない。我が森にいるより、よほど安らかに過ごせるだろう。
共に在ろうと言ってくれたけれど、私はまだあの郷でやることがある。
「感謝します。私は一度戻りますが……」
しかし、白銅の銀鼠が私の肩を強く掴んで引いたため、言葉は途切れた。
「恐れながら」
我が番は目線を上げ、黄金のアルファをまっすぐに見据えている。
「この身には不要であります」
「ふん?」
我が番は少し枯れた声を励ますように続けている。つい先程まで気圧されて身体を固くし、呼吸すら細くなっていたのに、黄金のアルファを堂々と見返している。
「如何に苦しくとも、我は共に在る道を選ぶ所存。ありがたき心遣いなれど、不要です」
「なにを言うのです! しばらくの間です、此処で安らかに過ごして、あなたの場所を私が作りますから」
鈍銀の美しい瞳が、私を見て細まった。
ひたすら優しい光に射抜かれ、私の喉は声を出すことを惑う。
「そなたのみに苦汁を負わせるなど、我が望みにはない」
「それでは、あなたが苦しいばかりではないですか!」
「いいや、我が番よ。そなたと共に在れないこと、それこそが苦しみなのだ」
「……そんな……それでは……」
「共に戻ろうではないか。離れて在ることほど辛いことはないのだ。そなたの思いやりは理解した。それは嬉しいが、我が望みはそこにない」
クックッと愉快そうな笑いが巣の奥から響いて来る。
見れば実に楽しげに、黄金のアルファは片を揺らして笑っていた。
「なるほど、真に番である。紫のシグマ、我が親族よ」
「……なんでしょう、黄金のアルファ」
「諦めるのだな。オメガとはそういうものよ。理屈など通らぬ」
「……はい?」
「それこそが、そなたのオメガであろう?」
満足げに細めた眼差しが、白銅の銀鼠をまっすぐ見ていた。
瞬時、カッと頭に血が上り、畏敬の姿勢は崩れた。
「いいえ!」
我が番にそのような目を向けるな。オメガだの言うな。これは私のもの、私だけの人狼だ。
「そういうわけではない! これは我が番であり」
「ああ、よいよい、聞かずともわかる」
「ですから! もう見ないで下さい!」
黄金のアルファの視線を遮ろうと白銅の銀鼠をかばうように前に出ると、黄金のアルファはさらに愉快そうに、ハッハッハと声をあげて笑った。
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