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発情の季節、月一巡りにも足りないほどの間だったけれど、番と片時も離れずにいた。とても幸せで満たされていた。
「今からでも遅くはありません、愛しいあなた。黄金の森で待っていてくれませんか」
「いいや、それはできない、菫の白蜜」
目を細め、とても優しい匂いを漂わせながら、白銅の銀鼠は言った。
「わがままで済まんな」
「いいえっ、……いいえ、そんな……」
かつて以前通りの生活を強いたのは私だ。
けれど、その頃の自分を殴り倒したい気分だった。……番があの雌と共に眠るのだと思うだけで、身の奥にどす黒い澱が積もっていくようなのだ。
「そなたの想いは分かっている。ゆえにあの巣にはゆかぬ」
「え……それでは、どこで眠るのです」
「森で寝る。番探しの旅では、たいていそうしていたのだ。慣れたものよ」
美しい鈍銀の瞳はまっすぐに私に向けられ、一度決めた事を違えるつもりがないと物語っている。
「あなたひとりで、雨風凌げぬ森で……? そんな」
「雨風など、なんのこともない。木のひとつも無い草原で寝たこともあるのだ」
「けれどあなたばかりにそんな暮らしを強いるなど、私にはできません」
「森には人狼が眠るに心地よい場所が多くあるのだよ、菫の白蜜。むしろ屋根など無い方が、そなたの気配や匂いをより感じられるだろう」
「けれど……ああ、それなら私も共に、そうです共に森で……」
「いいや、それはダメだ」
白銅の銀鼠は、フッと笑って私を抱きしめた。力が入って強張っていた背が、腕が、足が、たったそれだけで解れていく。愛しい匂いに包み込まれる幸せに、ホウと息を吐いた。なんという安心感だろう。
ここしばらく、私はこの腕に抱かれて寛ぎ、ぐっすりと眠っていた。力強い腕や胸板の暖かさは、心の底から私を温め全身が緩んでいく。
自分がいままで、こんなにも強張った心と体だったのかと思い知らされつつ、今は違うのだと幸福に酔いしれていた。
「菫の白蜜よ。そなたは思う通りに動かねばならぬ。それには今まで通りであることが必要なのだろう?」
「いやです。私は……」
離しがたいのだ。ずっと共にありたいのだ。片時も離れたくないのだ。
「我も同じ想いよ」
「だったら」
「真に行きたいと思うなら共に往こう。だがそなたは逃れることを選ばなかったのだろう」
山裾で、私はすべてを打ち明けた。
人狼の生き方に悖る企みのすべてを。
「すでに従うと決めたのだ、菫の白蜜。逃げずに足を踏ん張り、勝ち取ると決めたそなたを誇りに思う」
「白銅の銀鼠……」
「むしろそなたの心持ちが嬉しくて、我はいまだに浮かれているのだぞ」
すべてを話したら番は苦しむのではないかと思っていた。いや……忌避を感じ共に在ることを躊躇うのではないかと……怖れていたのかもしれない。だからすべてを伝えることをせず、私一匹だけで考え動いていた。
けれどあの時、この人狼に隠すことなど何もないと思った。何夜かを共に過ごし、私のすべてを受け入れてくれると感じたのだ。そして白銅の銀鼠は、懊悩が杞憂だったと私に知らしめた。考えも行動もすべて受け入れ、背中を押してくれた。
匂いや姿だけでも信じられないほど愛しいのに、その心根はあくまで優しく、小賢しい私を懐深く包み込んでくれる。本当に素晴らしい人狼。
知れば知るほどさらに愛しくなり、共に在るべきという気持ちが強まっている。
「あの巣には戻らぬ。アルファの求めに従って働き、森で寝起きする。そなたの気配、匂い、それが感じ取れるだけで、我が心は温かく、身に力が漲るのだ」
「ええ! 私も、私も同じです!」
「暫し離れようとも、お互いを感じ取れるなら我らは大丈夫。そうであろう?」
「……そうですね。その通りです」
白銅の銀鼠は正しい。
私たちは今までよりさらに強い結びつきを得た。これこそが番なのだと、身も心も打ち震えるほどの歓びを感じている。だから―――白銅の銀鼠と離れるのは、とても辛い。けれど……それは愛しい番も同じこと。
そう分かっていながら、こうすると私が決めた。白銅の銀鼠は、優しく笑んで私の行動に従うと言ってくれた。
「……わがままを言いました。私がしっかりしなければ、いけないのに」
「なんの。信じているぞ? 我が半身よ」
共に私の棲まいまで来た我が最愛は、少し寂し気に微笑み、森へと駆けて行った。
寝床しかない棲まいの中は寒々しく、すぐ巣から出て追いかけたい心持ちを必死に抑える。
―――そうだ、どんな人狼にも我が最愛を侮らせない。むしろ畏敬の念を持って崇めるようにしてみせよう。白銅の銀鼠が最も楽しく過ごせる場を、かの手に渡すのだ。
いっときも早くそうしてあげたい。そして共に在りたいと心が逸るが、ここまで慎重にやってきたのだ。逸って不手際を犯しては元も子もない。
私は心胆に力を籠め、奥歯を噛みしめる。牙が唇を破ったが、こんな傷はすぐに治る。番と血肉を分け合ったからか、身の裡に漲る力は強くなっていた。
◆ ◇ ◆
今必要なのは情報を整理することだが、冷静になり切れていない私には、感情的にならずに状況を見る目を持ち、黄金の森について話せる相手が必要だ。
しかし本能が『カイには我が番を知られてはならない』と告げている。
ゆえに私は、カイ筆頭の棲まいへ向った。
「お~やぁ、ちょうどいいときに来たなぁ~」
戻って来たばかりというので、どこに行っていたのか問えば、なんと探りたちは、アルファの命で黄金の郷について調べに出ていたのだと言う。
「アルファに報告する前にぃ~、おまえと話しとこうと思ってたんだぁ。ちょうど良かったよぉ~」
ヘラりと笑い、巣の中へと私を招き入れると、干し果実をふるまわれる。カイが作るものより少し硬く、日持ちはしそうだ。まあ、カイが作った方がおいしいけれど。
「黄金のアルファと会いましたか?」
「まさかぁ~。オレは郷のカイとして調べたんだっつーの。ちゃーんと気配も匂いも消してな? つうかよぉ、アイツ誤魔化して行動とか、マァジ無理だから」
砂灰色のひとつ年上の人狼は、とても優秀な探りなのだという。ゆえに森や木々の合間に潜んで調べるという『探りとしてまっとうな』調査をしてきたらしい。
「まあ~、あの郷は古き良き人狼の森ってーか? 人狼も多過ぎず少な過ぎずって感じだぁし? うちの郷と較べりゃあ森は小さいしぃ、賑やかじゃぁねぇしぃ、建屋なんかもねえけどぉ」
片手を上げヒラヒラさせながら、カイ筆頭は背を丸め俯き加減に干し果実を口に放り込んで言葉を切る。風が動いた。
これは、確か音封じ。
「でもぉ、ま、いい森だよぉ、あそこは。アルファのせいかねえ」
つまり、うちの森はあまり良くないと? アルファもあまり良くないと言いたいのか?
真意がつかめず見つめていると、カイ筆頭は顔を上げ、妙に光る緑の目が私を捉えた。
「で? どうしたいんだよぉ、おまえはさぁ?」
「私が、したいこと、ですか?」
「オレはぁ、おまえの望みってぇの、叶える助けをしろってさぁ、言われてんだよぉ~」
「はい」
黄金のアルファにそう言われていた時、私もその場にいたから知っている。
「だからぁ……言えよ。何がしてぇのか分んねぇとな? オレも何したらいいか、わっかんねぇ~の」
◆ ◇ ◆
若狼どもが儀式の森に向かってから十二の夜が過ぎた。月が一巡りする二夜前。
新たな成獣が、ガンマの森から戻って来た。
燃え盛る発情に思考も何も奪われていた人狼どもも、その頃には落ち着いている。
若狼であったそれ迄とは匂いや気配も変わり、圧倒的に強い力が全身に漲った若き人狼どもは、語り部筆頭と精霊師に導かれ、集まった人狼どもの間を進み、広場に入って来る。
成人の儀を越えると同時、おのずと自らの階位を知って群れの一員であると実感した彼らは、誇らしげに表情を輝かせていた。
それを見守る人狼どもは、微笑ましい心持ちで彼らを迎え入れる。みな通った儀式であり、彼らの心情がよく分かるのだ。
「新たなる我が同胞」
アルファがざらついた声を響かせる。
「精霊の言祝ぎを受けしものども。森と精霊にその身を捧げよ」
言い終えると、アルファは天を向き、喉を震わせた。
Wow-wow-wow-fow-ow-ow
遠吠えが森に響き渡る。
言祝ぎの遠吠え。独特のリズムを持って人狼どもの髭を震わせるそれは、アルファが新たな人狼に向けるものである。若き人狼どもは、誇らしげに耳を立て、鼻面を上げて遠吠えで唱和する。
私もかつて、広場でこの遠吠えを聞いた。
みなが誇らしげに喉を震わせていたその時、私は誇らしさより不条理とやりきれなさを感じて、天を仰いではいたが喉を震わせることができずに呆然としていた。
―――精霊よ、アルファよ、なぜ私が語り部なのだ? 走るのが早く、鼻も耳も鋭い、狩りも木登りも得意なこの私が、なぜ?
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