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8.陥穽 pitfall
アルファの館にカイ筆頭がやって来た。命じられた務め、黄金の郷を調べた報告のためだ。
正面中央にアルファ、ベータ筆頭がその横に控え、反対側にはミュウ筆頭たるオメガがいる。その少し前に二席と三席が身を低くして佇み、ベータ四席はアルファの後ろで控えていた。本来そこはミュウの立ち位置なのだが、この四席は常にこうしている。
周りには各階位の筆頭が集まっている。ルウ筆頭は早く報告しろとばかりに苛立った匂いを漏らしているが、シグマ筆頭は半ば目を閉じて泰然とした様子だ。
帰ってまっすぐ来たのか、カイ筆頭の毛には艶が無くぼさぼさと乱れていた。酷く疲れている、あるいは弱っているように見える。ベータ三席が水の器を差し出すと、カイ筆頭はニヘラと笑って、嬉しそうにごくごくと飲んだ。
まるで乾ききっているかのように。
満月を過ぎたとはいえ、成獣なら1週間飲まず食わずでも疲れなど感じないはずである。しかしカイ筆頭の匂いは薄く、歩く姿も弱々しい。だらしなくぺたりと座り込む様子は疲労困憊しているように見える。
アルファの前であるのにとオメガは苦々しげだが、くちを真一文字に閉じて何も言わずにいる。先に叱責された為だろう。
水を飲み終え、ほうと息を吐いたカイ筆頭に、ベータ筆頭が声をかけた。
「して、どうであった」
「まあ~、森のあっちこっちでぇ~、発情しまくってました~」
「そうであろうな。……して?」
この季節、そうなることは見えていた。だがカイ筆頭に命じたのは、ガンマの森が流されたという噂の真偽だった。発情の季節とほぼ同時期に行われる成人の儀。この冬十八歳になる若狼がガンマの森へ向かうかどうか、カイ筆頭はそれを確認することでガンマの森の状態が知れると言い、二席と共に黄金の森で潜んでいたのだ。
「……たぶん、やってねえんじゃねえかなぁ~、と思いますぅ」
「はっきりせぬと?」
「はぁ……うちの森とぉ違って~人狼少ないんでぇ、成人するっちゅう若狼がぁ、いなかったってぇだけ、かぁもしんねぇですぅ」
「ふむ」
この年成人する若狼がいないなど我が森では考えられないが、他郷も同じとは限らない。
我が森は人狼が多いうえ、アルファの指示により幼狼や子狼を守ることを第一としているゆえに、人狼は増える一方なのだが、そもそも成獣が少なければ子狼が生まれることも少なくなるだろう。
人狼は本来孕みにくく、幼狼も子狼も失われやすい。成人の儀を迎えるまで生き延びる若狼は減ってしまう。ゆえに成獣が少ないらしい黄金の森では、冬のたびに成人の儀が行われない可能性もあるのだ。
カイ筆頭はポリポリと頭の毛をかきながら続けた。
「二席、あっちに置いてきたんでぇ」
「む。そうなのか」
「はぁ。継続して様子見ぃしておこ~かなぁ~とねぇ……」
「……何を見る?」
「まぁじでガンマの森やられてんのかぁ、そうじゃぁねえのか、てぇのがハッキリしてねぇんでぇ」
「ふむ」
「オレもぉ、すこぉし休んだらぁ、二席と交代しようかなぁっとねぇ」
ベータ筆頭はアルファへ視線を向けた。アルファが鷹揚に頷く。
「それで良い。して……どれほどの期間必要か?」
「若狼の数とかぁ、年とかもぉ、調べてるんで~、もうちょい、すかねぇ」
「うむ、ご苦労であった。戻って休むが良い」
「はぁい」
ニヘラと笑ったカイ筆頭が退出すると、ルウ筆頭が苛立ちを隠さず言った。
「あれは信用できるのか? ひどく弱っているようではないか」
「なんであんなに弱ってんだ? そんなトシじゃないだろ?」
頷きながらカッパ筆頭も言う。
精霊の言祝ぎを受けた人狼の活力は衰えず、ひと族で言う四十代半ばの見た目のまま、七十を過ぎる頃まで若々しく頑健に過ごす。もちろん個体差はあるが、カイ筆頭より十五以上年上のルウ筆頭とカッパ筆頭はいまだ活力漲り、ひと族の四十歳より若く見える。
だが、たとえば『商人』……ひと族と番い、郷を出た人狼は、番と共に老いていく。ゆえに精霊の言祝ぎを失ったのだ、もう人狼とは言えないと口さがない声も聞こえる。つまり言祝ぎを失った人狼は衰え、老いるのだ。
とはいえ病んだのだろうと見たゆえに、この場でカイ筆頭にそう言うものはおらず、同情的な目が多かった。カイ筆頭が言祝ぎを失うような何かをやったのだろうかと訝しむものはいたが、少なくともこの場では口にも匂いにも出さなかった。
ベータ筆頭が声を張る。
「問題あるまい。カイ筆頭は命じた通りの調べを遂行している」
「しかし」
「つうか二席は若いし、優秀って聞くぜぇ? 大丈夫なんじゃねえの?」
ルウ筆頭を遮るように呑気な口調で言ったのはデルタ筆頭。タウ筆頭も頷いた。
「うん、二席はいい人狼だよ。喋るのは下手だけど動きは良いし鼻も利く。なにより干し果実とか上手に作るし、お茶もおいしく作るんだ」
「そういう問題なのか?」
「大切な事さ! 喰うものを上手に作れるってことは、精霊と仲いいってことなんだから!」
「そうなんか!」
「そうだよ! 精霊と仲良くないと、うまく醗酵しないし、肉を燻したってすぐ腐るんだから」
「へぇ~さすがタウ。詳しいな」
「あんたも少しは考えなデルタ!」
筆頭たちの雑談が始まり、ルウ筆頭も毒気を抜かれたように苦笑している。
そんな中、シグマ筆頭だけは、一度もくちを開くことなく、最初と変わらぬ表情で佇んでいた。
◆ ◇ ◆
黄金の森へ舞い戻ったカイ筆頭は、二席と共に森の外れへと移動し、茶と干し果実などを与えて報告を聞いた。
「へぇ~、ずいぶん頑張ったなぁ~。偉いぞぉ」
「ん」
誇らしげに笑む二席をたっぷりと労ってから、郷へ戻り報告するよう命じる。
「オレに言った通りにぃ、言えばいいからなぁ」
「ん。行く」
張り切って走り去る二席の気配が森から遠のいた頃、筆頭は気配を消したまま黄金のアルファの元へ向かった。
棲まいの中で気配を顕わしたカイ筆頭は、あたかも突然現れたかのようだったが、黄金のアルファは鷹揚な笑みを向ける。
「よう参った」
「やぁ~っぱり気づいてたぁんスねぇ?」
「言うまでもない。我が森のことはすべて知れる」
カイ筆頭はうんうんと頷き、「さぁすがぁ~」と、間延びした言い方ながら心からの賞賛を向けた。
「あの若いのは、かなり無理をしていたようだ」
「はぁい、できる子なぁんスよぉ。ちゃぁ~んと労いましたぁ」
「務めに忠実であるは理解するが危うい。この場は知らぬふりをしたが」
「そぉうっすねぇ。のちのち、言っときまぁす」
「……して? 我が親族が何か」
「はぁ。山のものッてぇのは天候が分かるらしいってぇんで」
「なんと。まことか」
「そうみたいなんでぇ」
カイ筆頭は山のものの言う『寒の戻り』について説明した。黄金のアルファにとっては春が来るたびに起こることであり、それ自体は珍しくもない。だがその時期まで言い当てるのかと僅かに驚きを見せる。
そしてカイ筆頭が続けた内容に、笑みを深めた。
「我が親族は、なかなかに姑息である」
「なんでぇ、『良きように計らって下さい。お任せします』だそうですぅ」
黄金のアルファは満足げに頷いた。
◆ ◇ ◆
探り筆頭が一度黄金の森に戻り、交代で探り二席が戻ってきたは、カイ筆頭が郷を出てから夜八つが過ぎた夜だった。
ひと族が馬車を使ったなら黄金の森と我が森を行き来するに月三巡り、ひと族風に言えばひと月半ほどかかる。森を突っ切って走るとはいえ、これはカイたちの身体能力がかなり高いことを示していた。
カイ二席は筆頭のいない間に調べたことを報告するためアルファの館へ参上したが、なぜかそこにシグマ七席を伴ってきた。
その場には各階位の筆頭が集まっていて物々しい雰囲気だ。シグマ七席は部屋の隅で控えようとしたが、カイ二席が手を握って放さなかったため共にアルファの前へ進んで、居心地悪そうに無言を貫いている。
とはいえカイ二席がシグマ七席を慕っているのは知られているので、多くは『またか』と言いたげに苦笑している。ベータ三席やルウ筆頭が苦々しげな顔をしていたが、アルファが許したのでどの人狼もくちを開かず、そのまま報告がなされることとなった。
小柄な人狼はシグマ七席の手をしっかり握ったまま、澄んだ緑の目でまっすぐアルファを見つめている。
「して、新たに分かったことはあるか」
いつも通りベータ筆頭がアルファに代わり問いを向けると、コクンと頷いて答える。
「子狼、少ない」
「それは筆頭も言っていたな」
ベータ筆頭の言葉に、カイ二席はまたコクンと頷く。この人狼が言葉少ないのは、みな知るところだ。オメガですら不敬とは言わなかった。
「年、四十くらいまで、十二匹。おれ、人狼、数えた」
「それは確かに少ないが……」
ベータ筆頭が声を漏らした瞬間、その場の空気がざわっと動いた。筆頭どもが疑いから無言で威圧を放ったのだ。
しかしカイ二席は怯むことなく、まっすぐにアルファを見つめている。
アルファがざらついた声を出した。
「なぜ、分かった」
「ルウの筆頭とシグマの筆頭、成人の儀、同じ冬に越えた仲間、二匹だけ、とか言ってた。おれ、聞いた」
「……ほう」
アルファが声を漏らす。ベータ筆頭も思わず目を見張っていた。
筆頭たる人狼の会話が分かるほど近づいたのか、という驚きゆえである。
声だけなら、耳の鋭いものであればかなり離れていても聞こえるだろう。しかし会話の内容が分かる距離となると、それなりに近づかねばならない。当然相手に気取られる可能性が高くなる。ましてルウの筆頭を務める人狼が、気配に鈍いはずもないのだ。
しかしカイ二席はそれを成し、気付かれること無く探索しえたと言う。
「おれ、気を付けて、いっぱい聞いた。トシ、言った人狼、覚えて、数えた」
「……たいしたものだな」
思わずルウ筆頭が呟き、他の筆頭どもも頷いた。
ただでさえ狩りも難しい季節なのだ。
気温は成人の儀の辺りが最も低いが、それを越えるころから森には多くの雪が降り積もる。今は最も雪深い季節であり、雪の上には足跡が残るし、樹上を渡り歩けば不自然な落雪で存在を気づかれてしまう。
「ふうむ。では他は、若狼と老いたものか? 黄金の郷に人狼は何匹いるのだ」
「それは、まだ」
調べようとしたが難しかったらしく、カイ二席は悔しそうに下を向いた。
「でも、調べる。戻って、筆頭と、一緒に」
「ふむ。では継続するように」
そこにアルファのざらついた声が響いた。
「カイ二席よ。期待しておるぞ」
「ん」
言葉少なに報告を終え、カイ二席がシグマ七席を伴って退出すると、ルウ筆頭が声を上げた。
「見事なものだ」
ルウも狩りの際、気配を抑えて潜みつつ獲物に近寄る。ゆえに難しさが分かるのだろう、その声はどこかしみじみとしていた。
雪深い森での狩りが難しいのは、人狼ならみな知っていることだ。雪のせいだけではない。多くの獣はこの時期に子を産むので、子を守るために用心深くなっているし、隠しておいた餌を奪われまいと必死になっていて、うっかり足跡など残したらすぐ逃げられる。
まして人狼は、獣どもよりさらに鋭い鼻と耳と目を持ち、気配を感じ取るのだ。気取られずに近づくのは、比較のしようも無いほど難しい。
にもかかわらずカイ二席は、ルウの筆頭たる人狼が話す内容を聞き取れるほど近くまで接近し、気付かれなかった。
「我が森の探りは安泰だな」
「まったくだ」
その場にいた筆頭どもは頷いたり唸ったりと、カイ二席の成した仕事の凄みを共有していた。
するとシグマ筆頭が、静かな声を出す。
「カイ筆頭も、讃えるべきではないですかな」
「……確かに」
「そうだな。自らの衰えを感じて、後進を育てたんだろ」
「しかも、ああも見事に育てあげるとは」
「すごいね、本当に」
「筆頭の鑑だよ」
「我らの範とするべきでしょう」
「倣わねばなぁ」
筆頭どもはくちぐちにカイ筆頭を讃えるのを聞きつつ、アルファとベータ筆頭は密かに、苦笑気味の視線を交わしていた。
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