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カイに『アルファに報告などはじめてのことで、分からないから付いて来てくれ』と可愛く上目遣いになってお願いされた。
嫌だと言っても拝み倒すカイに強引に腕を掴んで連れ出され、しぶしぶアルファの館へ行ったにもかかわらず、私はただ立っているだけだったし、カイの報告は堂々としたものだった。
「はあ。私がいる必要なんて無かったじゃないですか」
アルファの館から戻る道すがら、私は釈然としない気分で文句を言っていた。
「ん~ん。いないと、だめ」
「何を言ってるんでしょう。みな感心していましたよ」
「シグマ、いた、から」
筆頭たちからは賞賛をうかがわせる匂いが漏れていた。いまさらカイの優秀さに気付いて、あえて抑えずに感じさせたのだ。今ごろさぞかしカイを褒め称えていることだろう。
「私がいなくても問題なかったでしょう?」
「ん~ん。いた、から」
「はあ。もういいですけど、妙に疲れました」
ベータ三席やルウ筆頭が威圧を飛ばしてくるのが煩わしかった。
若狼だった頃から私のことが気に入らないのは知っているし、いまさら気にしていないけれど、企みを知られたくない私としては極力目立つことはしたくなかった。ゆえに余計な気配や匂いを漏らさぬよう気を張っていたのだ。
ただ立っているだけだったが、すぐそばにルウ筆頭がいるのだから、必死になる必要があった。
「疲れた? なら、お茶!」
「茶、ですか?」
「ん。行く前に作ったの、飲んじゃお」
話しながら私の棲まいまでやって来ると、カイはいつも通り、勝手に切った炉で湯を沸かし、茶の用意を始めた。
元々ここには茶どころか鍋も椀もないのだが、先ほど私を引っ張っていくために寄った時、持参したものをちゃっかり置いていったのだ。
「早く、飲んじゃわないと」
「え、茶って置いておくとダメなんですか?」
「作ってすぐ、が、いちばん、おいしい」
「そうなんですか。長く保つと思っていました」
「もつ、けど、まずくなる」
などと言いながら手際よく茶を入れ、椀を手渡された。
一口すすって、思わずうなずく。言われてみれば確かに、いつもの茶より香りが薄い。
「本当ですね。いつもの方がおいしい」
「ん。シグマに、すぐ、飲ませる」
「え。いつもは作ってすぐの茶を入れてたんですか」
「ん」
「そうなんですね。ありがとうございます」
誇らしげに胸を張るカイの緑の目がキラキラしている。やはり可愛い、と思い頭の毛をわしわしと撫でた。
幼い頃からこのように慕ってくれるカイのことを、可愛いと思うのは致し方ないだろう。たとえ冬ひとつ年上であろうと、可愛いものは可愛い。
「あ、そういえば……」
クィーナに言うことを聞かせるための干し果実が、もう無いことを思い出した。
「カイ、干し果実を全部食べてしまったので、もっと欲しいです。また黄金の森へ行くなら、多めに置いて行ってもらえますか」
「ん。あした、あげる」
「明日ですか? 今日あなたの棲まいに取りに行っても……」
「これから、シグマと、寝る、から、あした」
そう言って私の棲まいに入り込んだカイは、狼になってさっさと寝床の草に潜り込んでしまう。
「茶、飲んだら、シグマも」
「はいはい」
苦笑してしまいながら急いで香りの薄い茶を飲み干し、私も狼に変化して寝床に潜り込む。
カイ筆頭が戻ってからカイが来た日程を考えれば、とても急いだと分かる。駆け通しで疲れているカイを、私のふさふさの尾で巻くようにして労わりながら、共に眠るのだった。
◆ ◇ ◆
「アルファよ。先の進言について、どうお考えですか」
館にやって来た漆黒の人狼が、オメガと鼻先を触れ合わせていたアルファに声をかけた。
アルファは目も向けなかったが、やんわりとアルファから離れたオメガが漆黒の人狼の前に立つ。
「若きルウよ。いきなりやってきてそれは、偉大な我がアルファに対して失礼ではないか」
咎める声は険しいが、口元にも目元にも笑みの気配がある。オメガは自ら産んだ漆黒の人狼が、ハッとして両手を胸で交差して顎を引くのを見て、満足げに頷いた。
「失礼しました。ですが時機というものがあります。新たなアルファとしてあの森を治めるため、考えたのです
「ほう」
アルファがざらついた声を漏らせば、オメガは漆黒の人狼に向くアルファの視線を妨げぬ位置に引いた。
「何を考えた」
「春になれば恵みが増えます」
「ふむ」
「かの郷の精霊が力を取り戻し、ガンマの森が復活するかも……しれません」
漆黒の人狼は、焦っていた。
噂が聞こえてくるのだ。
かの郷のガンマがいかに無能だとしても、人狼だけでなく精霊にとってガンマの森は重要な場所。水の道が暴れ、大風が吹いたことで潰れたのならば、精霊も復旧させようと働くのではないか。
おそらく春が来て夏を過ごせば精霊が力を取り戻し、復活する。
そのとき無能なガンマは廃され、新たなガンマが生まれるかもしれない。
……などと。
「ガンマの森が復活すれば、おそらくアルファも力を取り戻してしまう。その前に、かの森のアルファを潰してしまいたい。……と考えています」
「ほう」
ニヤリと笑うアルファに、漆黒の人狼は真剣な目を向けた。
実のところ、腹の中でもう一つのことを考えているので、それを気取らせぬよう、必死に匂いを抑えている。
その考えは、アルファに対して不敬だとオメガが怒るかも知れないことなので悟られたくはなかった。
すなわち―――
ガンマがアルファに従わず精霊に従うのは、アルファより先にガンマが在るからだろうと、漆黒の若きルウは考えているのだ。
我がアルファが起つとき、あのガンマが言祝いだのだと、老いたものから聞いている。
いったい何歳なのか、どの人狼も知らないが、確かにあのガンマはアルファより長く在る。ゆえにあのガンマは父たるアルファに従わぬのだ。
ということは。
ガンマより先にアルファが起ち、アルファが言祝いでガンマを決めたなら、精霊よりアルファに従うのではないか……と誰かが言っていたのが正しいいのだ。
自分が新たな森を支配するなら、ガンマもアルファに従わせたい。それには新たなガンマが起つ時、すでに自らがアルファになっている必要がある。
であれば急がねば間に合わない。
「……いまだガンマの森が害されたと言う確かな情報は無い」
アルファはチラリと向けた目を動かさずに、低く言った。
「ですが、成人の儀が行われなかったのでしょう? ガンマの森があったなら、そんなことありえないです!」
「アルファよ。入念な調査を必要とするのは、この子……いえ、この若き人狼が失われぬよう、用心しているのでしょう?」
オメガが心配そうにくちを挟むと、アルファは笑み崩れて愛しそうにオメガを見つめた。
「我が番。確かに」
「我がアルファ、あなたは一度、他郷を併合しています。そのやりようを教えてやることはできませんか」
「ふむ……」
目の前に膝をつき、縋るように見上げて来るオメガの頭の毛を愛しげに撫でながら、アルファは唸り、小さく頷いた。
「そうよな。この場のみであれば、話しても良かろう」
オメガと漆黒の人狼は目を輝かせ、アルファの語る話に聞き入るのだった。
◆ ◇ ◆
「やはり、ガンマの森は使えないようなんだ」
漆黒の人狼は農茶の瞳を細めて告げた。
薄茶の若狼は、新緑の瞳を瞬かせる。ガンマの森が機能しないなど、考えられない。
「そんなこと、あるの?」
「あってはならぬことだが、そうだったらしい」
「それは、とっても大変なこと、だよね?」
首をかしげる仕草に笑みを深めた漆黒の人狼が、そっと鼻先を触れさせると、薄茶の若狼は恥じらうように目を伏せ、鼻先を逸らせた。
「その通り。お前は本当に可愛いな」
「あんたは……すっごくカッコイイよっ」
また鼻先を触れ合わせようとすると、薄茶の若狼は慌てたように飛び退く。
「もう、やめてよっ」
「私はしたいのだ。もう一度」
「やだよっ! 恥ずかしいっ!」
赤らんで駆けていく若狼を、楽し気に笑う人狼が追う。
二匹の狼が、森の樹々を縫うように駆けまわる。
やがて白に近い茶の毛の若狼は、青みがかった漆黒の人狼に組み伏せられ、鼻先を擦りつけられて、キャッキャと声を上げた。
「もうっ! 恥ずかしいんだからやめてって!」
「良いだろう? おまえと共に新たな森を治める、そう決めたのだから」
「それは……ついて行くって、言ったけどさ。私はまだ成獣じゃないし……」
「ああ、そうだな。済まない、だが」
漆黒の人狼は苦笑まじりに鼻先を薄茶の毛に埋めた。
「待ちきれぬのはこちらだけ、では寂しいじゃないか」
「もうっ、ずるいんだから!」
「なにがずるい?」
「そんな言い方したら、私が意地悪してるみたい!」
「そんなことはないぞ? いまだ成獣でないおまえに、この高ぶりが分からぬのも当然だからな」
「なら、やめてって!」
薄茶の若狼がもがけば、漆黒の人狼は、苦笑のまま組み伏せた前足を避ける。
飛び跳ねるように樹間を駆ける若狼に追いすがるように、漆黒の人狼も後を追って駆け、やがて二匹は再度、縺れ合うように草の茂みで転がった。
辺りに人狼の気配が無いのをいいことに、同じようにじゃれあいを続ける二匹を、気配を消した農茶の人狼が見つめていた。
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