8.陥穽 pitfall

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 冬の森にあるのは、葉を落とした樹影と雪のみ。樹間に茂っていた下生えはすっかり雪に埋もれ、枝から落ちた雪塊や獣の足跡だけが白い大地に見えるけれど、樹々や草花が失われているわけではない。  雪に埋もれたその下で、密かに根を張り芽を育んで春を待っているのだ。  そんな春の兆しを、人狼は鋭い感覚で感じ取る。  精霊の恵み深い森を言祝ぎつつ肥えた獣を狩りながら子狼を育み、精霊たちが歌い踊る季節を、春を待つ。  冬はそんな季節なのだが、黄金の森より戻って報告のためアルファの館に訪れた探り(カイ)たち、その筆頭が言ったのだ。  春の兆しを感じ取れなかった、と。 「それは、まことか」 「いやあ、雪の匂いしかしなかったかなぁ……みてーな」 「つまり、精霊の恵みが無い、と?」  慎重に驚きや戸惑いの匂いと気配を抑えつつ問うベータ筆頭に、カイ筆頭はニヘラと笑って返す。 「まあ〜薄れてるってぇだけぇ、かもしんねぇっすけどもぉ」 「二席よ。おまえもそう思うか?」 「ん。薄かった」  ベータ筆頭の問いに、コクンと頷きつつカイ二席が答えたことで、集まった筆頭どもは僅かに気配を揺るがせた。  森に春の兆しが無いなど、とんでもない事態だ。  つまり…… 「……精霊がいない森は滅ぶという」 「森を救わないといけないんじゃない?」  シグマ筆頭がぼそりと呟き、隣でタウ筆頭が心配そうに言った。 「……やはりガンマの森は流された、と見るべきか」  そこにアルファがざらついた呟きを漏らすと、筆頭どもは気配を抑え、両手を胸に当てて目線を下げる。ベータ筆頭が横目で窺えば、アルファは濃茶の瞳を満足そうに細めて続けた。 「ゆえに精霊が弱まっている、のだろう」  ルゥ筆頭が呟く。 「……精霊のおわす森に戻さねば」 「ああ、それこそ我ら人狼の務めだ」 「かの森のアルファが成し得ぬと言うなら、我らが変わって成せばよい」 「我がアルファは偉大であり、我が森のガンマは優秀」 「無能なガンマやアルファに森を任せるよりは」 「そうだ、そうすべきではないか」  筆頭どもがくちぐちに声を漏らすなか、アルファはベータ筆頭に視線を向け、頷いた。 「では、アルファ」 「うむ」  ベータ筆頭が明るい緑の目に真剣な色を乗せ問うと、アルファは低くざらついた声を漏らして筆頭どもを見渡し、威圧を放つ。  その場にいたすべての人狼が目を伏せた。 「あの森を、我が精霊の森とする」  集う人狼たちからは期待と歓びの匂いが漏れる。好戦的な匂いもある。  若い人狼どもはこのような機会にとても憧れていた。偉大なアルファが決定したことに従うのは当然のこととはいえ、それだけではない期待に匂いを抑えきれずにいるのだ。 「……ベータ」 「は!」 「備えにいかほどの時を要するか」 「は! 四晩ほどかと」 「……なんとき要するかと尋ねたのだ。一晩もかからぬだろう」 「ですが我がアルファ、月は欠けております」  あと夜三つで新月になるのだ。  人狼としての力が最も衰える時期に、他郷で戦う懸念を向けるベータ筆頭に、アルファはふふんと鼻で笑った。 「それは向こうも同じこと」  確かに戦う相手が人狼であれば、月齢による条件は同じである。 「ですが……」 「彼奴(きゃつ)等には言祝ぎが無いのだ。精霊の言祝ぎある我らが有利であろうよ」  ざらついた声は感情を見せていない。匂いにも好戦的なものはなく落ち着いている。だが、すぐにも動くという意思は明らかだった。  ベータ筆頭は目線を下げ、従う意思を見せる。 「であればシグマのみならずルウにも報せを運ばせ、急がせましょう。ただ……残るものを選ばねばなりません」 「要らぬことだ」  何を言うかと言わんばかりの冷めた視線を受け、ベータ筆頭は明るい緑の瞳を惑わせつつ続けた。 「みな行きたがるでしょうが、郷の備えも疎かには」 「行きたがるものは()けばよい」 「それでは郷に残るのが老いたものと若狼だけになりましょう。いかにアルファがおわすとしても」  それを聞いたアルファは思考に落ちたか、目を閉じる。  しばし経って瞼を上げ、濃茶の瞳を横に向けると、目線を下げているオメガを見てフッと笑んだ。 「ベータよ。俺は行くぞ」 「……なんと仰せか?」  本来、アルファとオメガは森から出ない。自らを言祝いだ精霊から離れることで、アルファとしての力を失うからだ。 「(せん)に成獣となった漆黒のルウを呼べ」  オメガがハッとして顔を輝かせ、ルウ筆頭がくちを開こうとして止める中、アルファは続けた。 「あれと若いの数匹を先陣とする」  ルウ筆頭が抗議の声を上げようと開きかけたくちを、アルファの眼光に抑えられて噤む。ルウ筆頭はルウを配下として従えるが、あくまで『ルウを従えるよう』アルファに命じられているゆえである。  アルファが決めた事に、ルウ筆頭は抗えない。人狼は序列に従う生き物なのだ。 「我が森の精霊と共に()くよう伝えよ。カイ二匹に案内させるのだ」 「はっ」  目線を下げたベータ筆頭の応えに満足げに頷くアルファの腹には、オメガが顔を輝かせるだけの目論見があった。  この際、オメガの望みを叶えてやろう。そう考えたのだ。  アルファにとって何にも変え難く愛しいオメガは、このところ(ふさ)ぐことが多く、それはアルファにとっても気鬱(きうつ)なことだった。   『精霊が認めなければ、アルファたることはできないけれど……あの子の望みを叶えてやりたい』  自ら次代のアルファだと公言して憚らない漆黒の若狼は、人狼の常識を知らぬとみなから侮られていた。最初に産んだ子である若狼が(そし)られていることが、オメガの心持ちを鬱々とさせているのは明らかだった。  その若狼は成獣となり、黄金の森を我がものとする意思を見せている。  この森の精霊が言祝いだ人狼が森を掌握したならば、我が森と同じ精霊が居つくだろう。実質、アルファの治める森が広がることになる。それは歓迎すべきことだが、現状でも隅々までアルファの目が及んでいるとは言えない。  ゆえに漆黒の人狼に、治めさせようと考えたのである。  望みが叶った漆黒の人狼は満足し、(そし)るものはいなくなる。愛しいオメガも喜ぶだろう。 「郷には我がオメガ、ベータ四席、イプシロンとシグマを残す」 「我がアルファ!」  オメガが慌てたように声を上げる。 「俺は行きます!」 「おまえは子狼と郷を守れ」 「いいえ共に行きます! けしておそばを離れません!」  キッと睨みつけるようなまなざしを視線を合わせたアルファは、苦笑まじりに腕を伸ばして、大柄なオメガの腰を抱き寄せる。 「聞き分けてはくれぬか?」 「いいえ! こればかりは!」 「これ、近くで怒鳴るでない」  ハッとして口を抑え恥じ入るオメガを愛しげに見つめると、ゆるゆると首を振る。  腹を痛めた漆黒の人狼が、かの森を治めるのなら、その姿を見逃すまいと必死になる姿が愛しさをそそり、アルファはクッと笑った。 「仕方ないか。……可愛い奴め」 「では!」 「あの森は、漆黒の森と名を変えるやもしれぬな」 「はい! きっとそうなります!」  パッと顔を上げたオメガの頬を愛し気に撫で、アルファが頷く。オメガは嬉しそうに顔を紅潮させ、見つめてくる。  そのまま鼻を擦り合わせそうな二匹に、いつものことと意に介さずにベータ筆頭が問う。 「我がアルファ、では」 「万が一があるかもしれぬ。と言いたいのだろう、ベータよ」  ニヤリと笑みを向け、アルファは続ける。 「だとしても問題あるまい」 「アルファよ……」  低く唸るように呟くアルファに、ベータ筆頭がため息混じりに苦笑を返した。  次いで筆頭どもを見渡す姿に、期待を乗せた多くの視線が集まる。 「残るものは、ベータ四席、イプシロン、シグマ……のみで良かろう。行きたい者はすべて行かせる」  アルファは人狼どもを見渡して声を張った。 「我が郷の精霊に報いる働きをせよ!」 「「「「はっ!」」」  その場の人狼が声を合わせて応え、すぐに部屋を出ると森へ散っていった。  残ったのはアルファの他にオメガ、ベータは筆頭から四席の四匹、そしてシグマ筆頭のみ。 「病んでいるものは、おらぬな」 「はっ、今はおりませぬ」 「孕んだ雌は置いていく」 「はっ」 「若狼どもと老いたものを広場に集めよ。我らが戻るまで、そやつらと残った人狼が(ここ)で子狼どもを守ればよい。シグマどもは報せに走れ」 「かしこまりました」  シグマ筆頭が部屋を出ると、面白そうに明るい緑に瞳を細めたベータ筆頭が言った。 「ですがアルファ」 「なんだ」 「残るものはおらぬでしょう」 「で、あろうな」  人狼は精霊に言祝がれ、森を守る。多くの人狼が知る中で、守る森を広げ郷を大きくしたアルファはいなかった。しかし我がアルファはそれを成し遂げたのだ。  『我が郷を広げた快挙』  アルファが起って冬五つを数えた時にあった戦いである。  水の道向こうにあった人狼の郷は精霊に嫌われ、森の恵みは少なくて、人狼どもも疲弊していた。我がアルファは精鋭と共に水の道を越え、無能なアルファを打ちのめして追放したのだ。  我が郷の精霊はその郷の人狼の多くに言祝ぎを与え、水の道向こうの森は我が郷となった。同じ精霊に言祝がれ、この郷の階位を得た人狼どもは、今も穏やかに暮らしている。  老いたものや年嵩が誇らしげに語るそれに、若い人狼どもは憧れを抱いた。いつかそのような戦いに参じたいと願っていたものたちは多かったのだ。郷に残りたいと言う人狼はいないだろう。 「行け、ベータども。シグマだけでは手に負えまい」 「は!」 「四席は残れ」 「……」  無言で頷くベータ四席は、アルファの気配と匂いを纏っている。それはアルファを守るべく『守り』(ミュウ)が持つ加護であり、ベータどもは四席が実質ミュウであることを知っている。 「我が最愛。子狼どもを集めよ。老いたものどもに世話をさせるのだ。郷を離れるは月一巡りもかからぬであろうが、備えるに越したことはない」 「かしこまりました!」  溌剌と答えたオメガ―――ミュウ筆頭が部屋を出てゆくと、アルファは背後に立つ人狼に声をかけた。 「我がオメガの意とは言え、苦労を掛ける」 「……いえ」  銀灰の毛の大柄な人狼は、鈍銀(にぶぎん)の瞳を伏せる。  形としてはベータ四席としているが、実のところ、この人狼は守り(ミュウ)二席なのだ。  冬四つ前、この人狼が郷に訪れた際に雌を宛がって留まるよう命じたのだが、何の因果かオメガである筆頭に劣らぬ守り(ミュウ)の加護を受けた。アルファにとっては想定外の収穫であったが、オメガは難色を示した。 『あれは郷にとって良からぬもの。そう感じます』  ミュウの持つ加護により感じ取ったと主張していたが、自らの筆頭としての立場が脅かされかねないことを(いと)うたのではないかと、アルファは考えている。  能力の高い人狼を手放すのは惜しい。ゆえに雌を宛がって留まらせ、筆頭に嫌われてはやりにくかろうと(おもんぱか)り、形としてベータ筆頭の下位に置くことにした。  この人狼が良からぬ評判を得て口さがない声を向けられているのも知っていたが、放置している。不満などあるわけがない。群れの人狼はすべて、アルファに従うのだ。  本来であればオメガが何を言おうと意に介する必要はない。けれどついついオメガの希望を容れてしまう。  とことんオメガに甘い自覚はある。だが、アルファが決めた事なのだ。この人狼が内心なにを想っていようと、従うのが当然である。 「暫しの間、そなたに郷を任せる。守り切れ」  声を向けると、背後に立つ銀灰の毛の人狼が声なく請がうのを感じる。  黄金の森のアルファも愚かではあるまい。我が郷がほぼ空となれば、攻め入ってくる可能性はある。それをうまく収めたなら、この人狼への良からぬ声もおさまるのではと、アルファは考える。  郷とアルファを守る階位であるミュウ二席であれば、何が起ころうと遺漏なく郷と子狼どもを守るであろう。 「おまえも備えがあろう。行って良いぞ」 「……は。失礼します」  纏っていたアルファの気配と匂いを解き、銀灰の人狼は部屋を出て行った。  館に一匹となったアルファは、決意を込めた目で宙を見据える。  アルファには、ベータ筆頭にもオメガにも知らせていないことがある。  ただひたすら、オメガの望む郷とするために動いているのだ。  探り(カイ)をないがしろにして掃除屋(プシイ)を使ったのもそのひとつ。今まで正しいとされた人狼の郷のやり方とは違うが、そうせねばここまで来れなかった。なぜならアルファは知っているのだ。  自らの加護が、さほど強くないということを。  ミュウの加護を得て郷を守ることに神経を尖らせるオメガを安定させるため、郷を広げた。アルファに抗う意思が垣間見えればプシイに掃除させた。  すべては愛しいオメガの喜ぶ顔を見るため。郷や精霊よりオメガが第一。  郷を広げたのみ、子狼を大切にするよう指示したのも、すべて苛立ちやすいオメガがいつも心安らかでいるため。  精霊と森を守るためではない時点で、人狼の郷を治めるやりようとして誤っていると、多くの人狼は思うだろう。  だが人狼は序列に従う生き物。アルファが決めたことなのだから、従うのが当然なのだ。  彼のオメガは雄の頑強な身体でありつつも孕みやすかった。そして自らの腹を痛めて産んだ五匹の子狼を愛しんで、心を込めて育み、失われることを怖れるようになった。  オメガのやりようは人狼の営みから外れている。郷を網羅するアルファの耳には、そういう声も聞こえてくる。  通常、親離れした子狼は、それぞれ小さな群れを作って過ごす。生死の狭間をすり抜けるように過ごす中で、親たる人狼を忘れるのが常だ。  けれどアルファは、オメガが子狼どもを愛しむさまが実に幸福そうで、見ているだけで満たされたがゆえに咎めず好きにさせた。  そして今、オメガは最初に産んだ漆黒の狼が番と共に新たな森を支配することを望んでいる。  漆黒の人狼があの森のアルファとなる。それは我が子がアルファと争うことなく望みを叶えることであり、実質、我が森が広がると言うこと。それこそがオメガの歓びとなるだろう。  他郷を従え、最も偉大なアルファとして君臨するならば、きっとアルファを誇り、そのオメガたる自らをも誇らしく思って、輝くような笑顔を見せてくれる。  アルファの望みは、彼のオメガの望みを叶えてやることなのだ。
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