8.陥穽 pitfall

6/7
31人が本棚に入れています
本棚に追加
/80ページ
 森がざわついていた。  人狼どもが興奮しているからだ。  採取(タウ)や雌どもの拵えた燻し肉や干し果実を争うように求め、背負い袋に詰め込むもの。  森に散らばっている子狼どもの首根っこを掴み、広場へ運ぶもの。  衝動を抑えきれずに森を走り回り、樹に登っては飛び降りを繰り返すもの。  獣たちは息をひそめ、森の上位者である人狼が落ち着くのを待っている。  そんな中。  濃い紫のローブを纏ったまま、その合間から覗く真っ白な毛を乱し、おぼつかない足取りで走りつつ。  精霊師(ガンマ)が叫んでいた。 「なにをしている!」  聴覚に優れた人狼でなければ届かないほど細い声しか出ないガンマが、声の限りに叫んでいた。  しかしその叫びを聞く人狼はいない。  ”森を出ない筈のアルファが先導し他郷を我が森とする”と広がるほどに、みな高揚したのだ。  他郷を蹂躙するなど、異例というにもあり得ないこと。  群れが治める森の中で、それぞれの働きを全うするのが人狼であり、常なら郷から離れることは無い。 「孕んだ雌はアルファの館へ入れ!」 「子育て中の雌もだ! 共に行くことは許されぬ!」   にもかかわらず、人狼どもは何故か疑問を感じることなく、アルファと共に行くのだと興奮している。 「ベータ! 子狼は集めたか!」 「は! 恐れながら今しばらく」 「まだかかるか!」 「我が森は広うございます。見落としがあってはならぬゆえ確認しております」 「うむ! ならばよし! 子狼を守るは肝要である! 急げよ!」 「はっ」  ベータ筆頭が下位のベータへ指示を飛ばしつつ走り去る中、高揚するアルファの覇気は、人狼どもにも影響を及ぼしていた。  ベータは筆頭の指示に従っているが、他の階位の筆頭は指示すら出さず、抑えきれぬ高揚に遠吠えし、今にも走り出さんと地を蹴っている。  各々が想いのまま森をうろついてタウや雌どもの用意した燻し肉や干し果実を携え、抑えきれず走り出したものは、森を駆け巡って子狼を見つけると襟首を甘噛みしてアルファの館へ運ぶ。孕んだ番が共に行きたいと叫んでいれば、怒鳴りつけ押さえつけてアルファの館へと連れて行き押し込める。  常より粗暴な狩り(ルウ)は言うに及ばず、いつも呑気な(デルタ)大工(カッパ)も、めったに狩りに出ない織り(フィー)採取(タウ)細工師(クシイ)も、そして森とアルファを守るためにある守り(ミュウ)も、みな同じように気炎を上げつつ、狩り(ルウ)探り(カイ)など遠出に慣れたものに尋ね、必要な準備を進めているのだ。  老いたものどもは集められた子狼とアルファの館の中の、最も広いアルファの部屋に入った。  番と共に行きたいと泣き叫ぶ雌どもは、アルファの唸りで涙ながらに諦め、館に押し込められた。  他に残ることを命ぜられたのは癒し(イプシロン)語り部(シグマ)だが、イプシロンは番と共に建屋に引きこもり、シグマどもは雌どもが飛び出さぬよう扉の前に立ちはだかっている。  森林(ラムダ)はこの場には居ない。常に一匹で森を経巡(へめぐ)っているラムダは、群れと行動を共にしないのだ。  そしてラムダと同様、群れと共に動くことのない精霊師(ガンマ)。  祭礼以外ガンマの森から出て来ない。  出たとしてもほとんど動かない。  声を出してもようよう聞こえる程度の囁き声だけ。  そのガンマが、声を限りに叫んでいる。 「精霊の想いを聴け!」  しかし細く高いガンマの叫びは響かない。  さほど大きな声にはならないけれど、それだけではない。  意気上がった人狼どもは耳を傾けようとしないのだ。 「行くぞ! 行くぞ!」 「我が偉大なアルファと共に!」 「我が森はあまねく広がる!」 「我らの郷、我らの精霊を広めるのだ!」  雄も雌も高揚し遠吠えする、そのくちからは涎が滴り、その目は爛々としている。 「正気を! 取り戻せ!」 「みな準備は良いか! 月が昇る頃に出るぞ!」 「共に行けるこの歓びを与えて下さり感謝します!」  アルファにも、ガンマの叫びは届かない。そばに侍るオメガにも、もちろん届かない。 「そなたも子育て中であろうに」 「この身は雄です! 我がアルファは子育て中の“雌”と仰せに……」 「しょうがないやつめ」  ククッと喉奥で笑うアルファが、オメガと鼻先を擦り合わせる。オメガも嬉し気に目を細め、鼻を擦りつけている。  気付けば周囲の人狼どもそれぞれも、番と睦まじそうに鼻を擦り合わせていた。 「…………」  他のシグマと同じようにアルファの館の扉の前に陣取りながら、私は冷めた目でそれを見ていた。  常なら微笑ましいと感じる光景だが、みな一斉にそうしているのは、私の目におぞましく映る。  おそらくアルファの高揚した感情が、人狼どもに伝播しているのだ。今更ながら尋常ではないと感じさせられる。 「行くぞ! みな続け!」  やがて月は上り、アルファが気勢を上げて狼の姿となって先陣を切る。  先に進んだカイ筆頭や漆黒の人狼どもの匂いを追い駆けてゆくアルファは舌をだらりと出し、閉まり切らぬ口吻からは唾液が滴り落ちている。そのアルファに添うように走るオメガもまた同様。狼どももアルファと同じように興奮して後を追う。  その様はまさに狂乱だった。群れの統率も何もなく、筆頭も下位も関係なしに我先にと駆けゆく様は、アルファの勢いに流されているようにしか見えない。  アルファの館から、残された雌どもの悲痛な声が漏れ聞こえてくる。  番と離れ難いのに、アルファに行くことを禁じられ、押し込められた雌どもは哀れだ。 「我らは郷を安んぜねばならぬ。落ち着け。みなが戻るまで、我らで郷を守るのだ」  白銅の銀鼠の低く響く声が、館の中から聞こえてくる。  雌どもは徐々に落ち着いてきたようだ。番の気配が離れていくのを感じて諦めたか、すすり泣く声は漏れて来るものの叫ぶものはいなくなっていた。  幸福とは番と共に在ることだと、私は知った。けれど雌どもを哀れとは思わない。あのアルファにあてられてしまう程度である自らを省みればよい。いうなれば自業自得だ。  ただ私は、我が番がこの狂乱に巻き込まれていないことに安堵していた。 「あ……ガンマが」  ふと広場に目をやると、ガンマが地に倒れていた。 「ガンマ!」  シグマ筆頭が駆け寄り、細く小さなガンマを抱き起す。  みなは聴こうとしなかったけれど、力の限り必死に叫んでいたのだ。力尽きたのだろう。  雌どもは白銅の銀鼠に諭され落ち着いたようだと見て、私もそばに駆け寄り、筆頭を助けてガンマを抱き上げる。 「どうしますか筆頭。イプシロンの館へ運びましょうか」 「いや、ガンマの森へ運ぶ」 「私が運びましょうか」  シグマの中で私が最も体が大きく力も強い。そして筆頭は老いてきている。ガンマを抱いて森の奥まで行くのは難しいだろうと言ってはみたものの、筆頭は首を振り、シグマどもに振り返って「荷車を」と言った。  シグマのうち三匹が荷車を取りに駆けていく。  やはり、ガンマの森へ入れるのはガンマ自身とシグマ筆頭のみなのだ。私が入った時も行きは大丈夫だったのに、なぜか帰りはひどく恐ろしかった。あの状態で軽いとはいえ人狼を抱いて進むのは厳しい。 「…………」  すると精霊師(ガンマ)が細い声で呟いた。  あまりに細く弱々しいそれは、シグマたちの耳には届かなかったようで、筆頭すらも気づいていない。  見下ろせば、白い毛におおわれた隙間から、笑みのような形のくちもとだけが見えた。  けれど私には聞こえていた。  囁くようなガンマの声が、何を言ったか。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!