8.陥穽 pitfall

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「……終わる」  ガンマはそう呟いて、自らに薄く笑んだ。  精霊の想いを行き渡らせるべきアルファが精霊を顧みず、まるでひと族のように己の想いのみに忠実に動いた。  結果あのアルファ、そして従う人狼すべてが、……精霊に嫌われたのだ。  荒れる、とは思っていた。意に添わぬ人狼など、精霊が受け容れるわけがない。  アルファが暴発しようとも、巻き込まれるのはせいぜいオメガとベータくらい……と、見て放置したのだが。  人狼どもの殆どが、共に行ってしまった。  みな精霊に、嫌われてしまった。  あのアルファは、遅かれ早かれこうなるのが見えていた。  精霊に嫌われ始めていたからだ。  けれど……こうまで『きらい』が増えるなど、思っていなかった。  冬を数十超えるほど前に一度、あのアルファは今と近い状態になり、自ら先頭に立って他郷を併呑せんとした。  そのときガンマは、全身全霊を使って留めた。  結果、あのアルファは郷を出ることをしなかったが、下位を使って他郷を治めることとした。  ガンマは『精霊に厭われてはアルファたり得ない』と教え、郷を元に戻すよう忠告した。しかし聞き入れず、郷が広くなったなどと喜んでいた。……そんなわけがないというのに。  その、欲に塗れた行為自体を嫌った精霊は、そのときすでに()()を『きらい』になっていた。  終わりは見えていたのだ。  早く代替わりさせるべき。そう分かっていた。  けれど―――疲れ果て、放置、した。  そして()()は、また、やった。  この郷は、終わる。  精霊は無邪気な存在。  楽しいのが好き、それだけの存在。  善悪など関係無く、『すき』と『きらい』だけがある。  『すき』が多いと、楽しい。  楽しくないのは『きらい』。  それが精霊。  精霊は、あのアルファを『きらい』だった。そして今『だいきらい』になった。  ―――『だいきらい』は、いらない  神話にある通り、人狼は精霊に好かれているからこそ成り立つ。  ゆえに簡単に精霊の影響を受けるのだ。  良い影響を受けていれば互いに幸せ。けれど精霊に『悪戯(いたずら)』される……悪い影響を受けると、”おかしく”なる。  実のところ精霊たちが“気に入り”過ぎて"かまい過ぎ"たために人狼が"おかしく"なることは頻繁にあり、精霊は惑う人狼たちを見て楽しげにしている。特に子狼は"かまい甲斐"があるのか、標的になりやすい。  それはたいてい鼻で笑える程度の"悪戯"だけれど、中には手ひどい"悪戯"もある。  そう、精霊の気分によっては、生き死ににかかわるような"悪戯"に夢中になることも、あるのだ。……今回のように。  ほ、と小さく息を吐いたガンマは、倒れ伏していることに気づいた。  足に力を籠め、よろよろと立ち上がる。 「ガンマ、大丈夫ですか」  シグマ筆頭の声がした。  うん。大丈夫だ。棲まいまでくらい、行ける。 「運びます。無理せず」  すぐそばで身体を支えているのが、シグマ筆頭の手だと分かった。  ()()は邪魔にならないが、今は要らない。  けれど首を振るのもおっくうだった。  ガンマはその手を軽く叩く。支えていた手が引かれ、また声がした。 「おひとりで行かれますか」  小さく頷くと、シグマ筆頭の気配が離れる。  ふと、()()シグマの気配を感じた。  何か言いたげだ。  けれど何も言おうとしない。  シグマどもに視線すら向けず、ガンマは足を前に出した。  一歩一歩、確かめるように、ガンマの森への道を辿る。  肩に、背に、疲労が重くのしかかっていた。  残り僅かな力を使い、届かせようとした声も、”おかしく”なった人狼どもの耳には届かなかった。  分かっていた。  『お願い』など、精霊の『だいきらい』に敵う筈もない。  それでも『お願い』した。  『きらい』が勝っている精霊に『お願い』など、なんの意味も無いと、分かってはいたけれど。  そう、ガンマは長くそうしてきた。  今も、そうせずにいられなかった。  人狼どもには精魂尽き果てるほど「精霊の想いを聴け」と訴えた。  ……けれど、声は届かなかった。 「…………哀れ」  ガンマは自らを嗤うようにくちもとを歪める。  ……(いにしえ)から続く精霊との繋がりが。  もっとも古くから在った郷が、絶たれる。  ガンマは、疲れ果てていた。  あの森で癒されたなら、まだ少しは永らえるだろう。  その一念で、進む。  森を行くとき、いつもならガンマを好む精霊たちが纏わりついてくる。  けれど今は気配すら感じなかった。  『きらい』ではない、『すき』。  そして『だいすき』ではない。  精霊にとって、ガンマはそんな存在でしかない。  だから待っていた。  精霊の『だいすき』を。  アルファが代わっても、オメガが現れても、何代にも渡ってガンマの望みは果たされなかった。  望みの叶う夜を待って、待って、待って―――  ガンマは疲れ果てていた。今にも消え去りそうなほどに。  精霊の代弁者であるガンマにできるのは、あくまで代弁、そして『お願い』だけ。  郷の人狼どもが馬鹿なことを言っていたが、精霊に言うことを聞かせるなど、できるわけがない。  それでもガンマは精霊に、何度も何度も『お願い』してきた。  幾度も幾度も、数え切れぬほどの冬を越えて、この森を、郷を、永らえたい、その一心で。  望みが叶う、そのときを待ち焦がれながら。 「…………、望みなど……」  精霊に伝えても。  人狼どもがなかなか辿り着けないとするガンマの森だが、ガンマ一人で進むなら、さほど遠い道のりではない。  けれど例えばシグマ筆頭が付いて来たなら道のりが遠くなる。ゆえに今は要らなかった。  ガンマの森。  そこは精霊に満たされている。  ガンマは呼吸を深くして、生気を取り込んだ。  一歩一歩進んで洞穴に近寄れば、入り口を覆っていた蔦が自ずと分かれ、ガンマを迎え入れる。  ―――おかえり  ―――おかえり 「ありがとう」  ここに在る精霊は、ガンマのことがかなり好きだ。  だからここなら楽に息ができる……癒される。  倒れるように寝床へもぐりこみ、ガンマはようやく細い息を吐いた。  ―――おやすみ  ―――おやすみ  そもそも今のアルファは最初から、さほど好かれていなかった。精霊が『すき』なのはオメガであり、その番であるがゆえに、あの人狼がアルファとなったに過ぎない。  けれどあのアルファと共に在るうち、オメガが歪んでしまった。そうなれば、精霊があの番を『だいきらい』になることなど、分かり切っていた。  泣き叫びたいほどの心持ち。  けれどそうする力など残っていない。 「……もう少し……」  永らえなければ。  声にならない言葉の形にくちを動かす。  また幾度の冬を待たなければ、ならないのか。  そんな考えと共に、ガンマの意識は闇に落ちた。   ◆   ◇   ◆  私は広場に立ち、森を眺めていた。  子狼たちが外に出たいと騒いでいる。  重なるのは老いたものどもが宥め叱咤する声。  シグマ筆頭はガンマの森から戻らない。  他のシグマはそれぞれの棲まいか、シグマの建屋に行った。  館に押し込められた雌どもが、すっかりおとなしくなったからだ。  そして、白銅の銀鼠が館から出て来て、ほうと息を吐く。  ずっと雌どもに言い聞かせていたからか、少し疲れた匂いがするが、私を見て嬉し気に鈍色の瞳を細めた。 「……なんとか、落ち着きましたか」  声をかけると小さく頷く、その仕草がなんとも愛らしい。 「なに、みなが戻るまでの間のことだ。雌どもも、ようやく呑み込んで……」 「……戻るのでしょうか」 「なに?」  怪訝そうな目をする我が番に、私はにっこりと笑いかける。 「戻ってこないかも知れません。みんな」  そうして広場の周りに広がる森を見渡す。  むろんすべてを見通すなどできないが……森は閑散として、生き物の気配がしなかった。
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