9.此処彼処 here and there

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9.此処彼処 here and there

 殆どの人狼が出払った郷。  月が中天に登った広場で、白銅の銀鼠は考え込んでいた。 「……残っているのは、子狼、若狼、老いたもの。あとは少数の人狼……」  一時的ではあるが、それらとこの森を任されたのだが、戦いに出た人狼どもは携帯できる食い物―――干し果実や燻し肉など根こそぎ持って行ってしまった。  つまり、今喰らう物が無い。  皆が戻るまで、どれほどの夜を費やすか知れないが、いずれにしろ異常としか言えない狂騒状態だったのだ。持って行った食い物は返って来ないだろうし、とりあえず次の夜に喰らう物もないのが問題なのだ。帰るまで待つなど論外。  人狼であれば十日程飲み食いせずとも死にはしないが、子狼や若狼は違う。日々滋養を摂り、身体を作らねばならない。とりあえず次の夜に喰らう物もないのが問題なのだ。帰るまで待つなど論外。  ゆえに狩りや採取をせねばならないことは分かっている。だが、どの者にさせるのか。それが白銅の銀鼠を悩ませていた。  イプシロンとその番、シグマが七匹、そして子育て中の雌と孕んだ雌。残っている人狼はそれのみ。いずれも戦えぬとの判断された者どもであり、戦えぬものは、狩りに向かないとされている。  イプシロンやシグマが狩りに出ることなど無い。慣れぬものを森に放っても結果はついて来ぬだろう。  十八匹残っている雌どもの中には狩りが得意なものもいるだろうが、番から離れて不安定になっている雌を森に放つのは躊躇(ためら)われた。特に孕んだ雌は気が荒くなりがちで、獣に察知されやすいため狩りには向かわせられぬ。  六匹いる老いたものは、もう人狼ではない。いつ失われるか分からないので帰ってこないかも知れず、森を経巡らせるなど無理だ。  若狼は二十一匹いるが、力も能力も知恵もまだまだで、みなの食を任せられるものではない。  やはり自らが狩りと採取に行くしかないかと考え、はたして自ら一匹で賄えるものだろうか、と悩む。 「何を思い悩んでいるのです」  さきほどから傍らに佇んでいる愛しい番が、心配そうに問うてきた。  その美しい紫の瞳を見返すだけで、白銅の銀鼠の身にも心にも力が漲る。思わず眉根を開き、薄い笑みと共に答えた。 「うむ。食い物をどうするかと思ってな」  賢い番なら、良き知恵を授けてくれぬだろうかと言葉を向ければ、菫の白蜜は自信ありげに笑んだ。 「それなら私にお任せください」 「そなたがすべて賄うというのか。それはいくらなんでも」  ほっそりとしているが、彼の番が見かけによらず動けるし力も強いことは知っている。しかしすべてを任せるなど。 「いいえ、私一匹では不可能でしょう。若狼を使うんです」  十五を過ぎ、成獣となるまでの間は若狼と呼ばれ、さまざまな階位の仕事を手伝ったり、五、六匹で小さな群れを作り、狩りに興じたりして成獣となる準備をしている。まだ自在に狼の形はとれぬし、身体能力も知恵も人狼には及ばない。  なにより若狼を危険にさらすわけにはいかない。白銅の銀鼠は、郷を守ることを任されたのだ。若狼も子狼と同じく、白銅の銀鼠が守るべき郷の未来である。 「使う、とは?」  ゆえに番へ向ける目は不安を宿した。まさか賢い我が番に限って、分かっていないなど……  その視線を受け止め、菫の白蜜はにっこり笑う。 「採取であれば、シグマはみな何が危険か、この季節に採るべきものがどれかを知っています。若狼とシグマで採取し、老いたものどもから解体や加工を学べば良いかと。老いて身体や鼻は利かずとも、知恵は持っていますから」 「……なるほど」  まなこが開く思いがした。  確かにシグマなら知恵を持っているし、教え導くのに向いている。若狼だけで採取をした中に、毒のある実や茸が混ざっていたならと思えば、任せきれないと考えたが、それなら若狼に学ばせることもできる。  さらに老いたものどもは普段から解体や残った食い物の加工を行っているから、若狼どもに教えてやれるだろう。  なぜ気づかなかったかと不思議になるくらい最適な方法だ。  さすがは我が番だと、無自覚な賞賛を目に宿しつつ、白銅の銀鼠は言う。 「ならば我は、狩りをする若狼を率いればよいのだな」 「いえ、あなたはなるべく郷にいた方が良いのでは?」  人狼の郷を襲うものなど居るまいと思うが、現に今、我が郷の人狼が他郷を襲いに行っているのだ。絶対に何も起こらぬなど言えるものではない。  みなを従える立場である白銅の銀鼠は、そうした緊急の状況下で即時に判断せねばならない。戦えぬものが集まっている広場にいるべき。  そう続ける菫の白蜜の声に、なるほどと頷く。 「ですから狩りは私が」 「そなたが?」 「ええ。実は得意なんですよ」 「若狼どもを従えて森に入ると?」 「はい」  きらめくような笑みの菫の白蜜を見返し、白銅の銀鼠は思わず笑ってしまう。  なにより信じる番の言葉は、あっさりと彼に納得を齎した。 「分かった。手間をかける」 「いいえ、狩りは好きなので楽しみです」  さっそく若狼を集め、採取にあたるものと狩りに向かうものを分け、指示を与えた。  しかし彼らを率いて森に入るのがシグマだと聞いて、若狼どもはあからさまに不満げな顔をした。 「俺たちだけで大丈夫です!」 「わたし、ちゃんと()って良いのと悪いの分かります!」  若狼は未だ人狼ではないため、上位に従うという意識が薄い。  素直に従わぬ若狼に、白銅の銀鼠は仕方なく威嚇を向けた。 「シグマの教えに従うのだ。良いな」  アルファやルウに及ばぬとはいえ人狼の覇気を向けられた若狼どもは、耳を寝かせ尾を垂らして、従う意思を見せた。しぶしぶな様子ではあったが、今のところはそれで良しとした。     ◆   ◇   ◆ 「ねえ、私たちの方が上手に狩れるよね」 「成人してなくても、()()よりは俺らの方がましだって」 「ほんと、あいつ何様?」  若狼たちはひどく不満だった。  自分たちの方が勝っているのに、役に立たない語り部(シグマ)に率いられるなど考えられない、とくちぐちにぼやいている。  今現在、郷の最上位であるベータより命じられたため従っているけれど、若狼たちは走りながら、わざと聞こえるように文句を言っていた。 「俺は絶対ルウになるんだ。シグマ程度が偉そうに」 「しかもあのシグマ、序列が低いんだろ」 「なんであんなのに従わないといけないの」 「ああ、みんな同じこと思ってるよな」  白に近い茶の毛を持つ若狼も、くちに出しこそしなかったが同じ想いを腹に抱いていた。そして他に聞こえぬよう、低く呟く。 「私の番になら、いつだって従うのに。きっとみんな文句なんて言わない」  はぁ、と切ない溜息を洩らしながら、緑の目を眇めて先を走る人狼を見る。淡い蜜色の毛をなびかせて走るシグマは、確かに足が速かった。  けれどシグマだ。子狼に語り聞かせる以外能の無い、役立たずのシグマだ。  白茶の若狼が不満なのはそれだけでは無い。  番と慕う漆黒の人狼は、共に行くことを許してくれなかった。  まだ成人前だから、郷の外に出すわけにいかないと言われて。 「でも、だって」  新たな郷のアルファとオメガになるのだと言ったのに、どうして置いていく?  アルファとオメガが離れるなんてありえない。我が偉大なアルファだって、水の道向こうへ向かうにオメガを連れていった。私だって番と共に在るべきなのに―――  腹に溜まる鬱憤は、みなよりさらに降り積もっていた。  そうして進むこと暫し。空が白けてきた森の中で、突然シグマが足を止める合図をした。ルウに狩りを習ったとき、教えられた合図だ。  若狼たちはバラバラに足を止める。 「……群れがいます。鹿ですね」  若狼たちには鹿の気配など感じられなかったが、下ばえの草に身をひそめる。 「鹿なんているか?」 「ええ、いますよ」 「はっ! テキトー言いやがって」  クスリと笑うシグマに、日ごろから絶対ルウになると言っている若狼が鋭い目を向けた。 「まあいいや。今回は従ってやるよ。失敗したら次は俺が指示するからな」 「それでもいいですが……」  苦笑を向けられ、若狼は鼻で笑い返す。 「十二匹の群れです。みんな、やれますか?」  にこやかに柔らかい声で問われ、「当たり前だ!」と声を上げた若狼に続くように、それまでの鬱憤を晴らそうとみながくちを開きかけた時、シグマは素早く片手を上げる。シュッと風を切る音は聞こえたが、その動きは目に留まらぬほど早かった。 「気配を抑えて」  若狼たちはハッとしてくちを閉ざす。そうだ、狩りの最中だったのだと思い出し、シグマごときに言われてしまったことに(ほぞ)を噛む思いで気配を抑える。  すると淡い蜜色のシグマがにっこりと笑いかけてきて、六匹の若狼は思わず息を呑んだ。  その紫の瞳には金の粒が散り、笑んでいるのに妙な迫力があったのだ。  気圧されてしまったことに悔しそうにしながらも、しぶしぶ従うことを受け入れる。 「では……あなたとあなた、二匹で向こうに回り込んで、逃げる鹿を抑えてください。可能なら狩っても構いませんし、私たちと同じ鹿を抑えてもいい。任せます。あなたとあなたはは樹の上に。残りは私とまっすぐ行きます」  紫の瞳を細めてみなを見回しつつ、淡い蜜色のシグマは笑みと共に指示を出す。  樹上待機を指示された二匹は、身が軽く木登りが得意で、気配を上手に抑える。回り込むよう指示された二匹は素早さには欠けるが力が強いものと身体が大きいもので、二匹とも次の冬に成人の儀を迎える年長だった。この中では最も狩りの経験がある。  そして共に行くよう指示された二匹は足が速く、爪も牙も鋭いことが自慢の二匹。そのうち一匹は、さきほど次は自分が指示すると言った若狼だった。 「ああ……それと」  ただの役立たず(シグマ)ではないのかも。若狼のうち何匹かはそう思ったが、それでも反発を抑えきれぬようで、悔し気だ。  それに気づいているのかいないのか、シグマはにっこりと言った。 「忘れないで。小鹿は狩らない。いいですね?」  分かっていると頷くものだけではない。あっ、と声を出しかけたものがいた。シグマに苦笑され、恥じるように唇を噛む。 「精霊は幼生が大好きです。私たちは精霊の望みを違えてはいけません。合図は分かりますね?」  みなくちを閉ざしたまま頷く。シグマが何を言っているかはハッキリと聞こえるけれど、その声はとても密やかなのが不思議だった。  しばらく進むと、若狼どもにも鹿の群れの気配が感じられた。それでも何匹いるかまでは分からない。さらに忍び寄ると、確かに鹿の群れは十二匹だと分かった。さきほど文句を言った若狼が、悔しそうにしている。 「私が合図したら、樹の上と同時に襲います。では行って」  樹上待機を指示された二匹が動く。回り込むよう指示された二匹も、鹿に気付かれぬよう遠回りで森に分け入った。  しばしそのまま息をひそめていると、シグマは残る二匹に待機を命じ、あっという間に走って姿を消した。気づけば樹に登っていて、そこにいる一匹に指示を出してすぐに降り、別の樹に登っていく。 「あなたは」  いきなり潜めた声をかけられ、白茶の若狼は驚いて声を上げそうになったが、何とか抑える。 「この樹ではなく、あそこの樹のあの枝の上で身を潜めてください」  まったく気配を感じなかった。悔しそうに唇を噛みつつ、頷いて了解を示した。 「あの、角が三股の牡鹿、見えますね? あれを狙います。合図と同時に飛び降りて。いいですね?」  それだけ言うと、頷くのも待たずにその場から去る。またもシグマの気配を感じられないことに、白茶の若狼は唇を噛んだ。  なんともいえず腹が立っていた。あっちには樹を移るように言ってないのに、なんで……と怒鳴り返したかったが、それを抑え込み、気配を殺して指示された樹へと移る。  自分の役目をきちんとやらなければ。その想いだけが白茶の若狼を抑えていた。  シグマが元の二匹の元へ戻ってしばらく。  合図が来た。  シグマと二匹は真直ぐに群れへと突き入り、樹上の二匹も同時に飛び降りる。  狼に気づいた鹿の群れは、逃れようとバラバラに跳ねたり走ったりする。  白茶の若狼が角が三股の牡鹿を追えば、素早く前に回り込んだシグマの爪が前足の付け根を(えぐ)る。そのまま地面を蹴って後ろに回り、今度は後足に噛みついた。  動きの鈍った牡鹿を囲み、若狼たちはそれぞれ爪を振るい、牙を立てる。回り込んでいた二匹もいつしかそこにいて、同じ鹿を襲っていたが、シグマは若狼たちから離れて様子を見ていた。まるで狩りを習ったときのルウのように。  やがて牡鹿はぴくぴくと足を痙攣させつつ倒れ込み、狩りは終わった。  歓声を上げる若狼どもをよそに、シグマは躊躇なく喉笛を噛み千切り、肋骨を折って鋭い爪で心臓を抜き出した。これで血が抜け、はらわたは新鮮なまま残る。ルウに習ったことだった。  若狼たちは、認めるしかなかった。  このシグマは、走るのが早いだけではなく、狩りもうまい。指示は的確だったし、身のこなしは鋭く、若狼の誰よりも鼻が利き、気配を察知するのも早かった。  悔しいけれど確かに、ただの役立たず(シグマ)ではないのだなと悟るしかなかったのだった。   ◆   ◇   ◆  ―――おかしい。  カイ二席は琥珀の瞳を眇め、二つ目の水の道を渡ろうとする周囲を見た。  普通ではなかったからだ。  これから他郷に攻め入ろうというのに、渡りやすい場所を探すでもなく、ただまっすぐに次々飛び込んでいく。泳ぐことすらせず、先に行く人狼の背を蹴って渡るものもいる。あんなにバシャバシャ水音を立てて、気取られると思わないのか。  これから山裾の浅い森を通っていくが、それが黄金の森からさほど遠くない、水の道を隔てているだけの道のりと知らないのか。いや、知らなくても分かるだろう。  五十匹以上が気配も殺さず一斉に渡れば、多少離れていようが、どんな愚鈍な人狼でも異常に気づく。  アルファやルウたちが、その程度分からぬはずがないだろう。  ―――正気じゃ、ない。みんな。  そう思うしかない。  カイ二席は流れを見て渡りやすい場所を選び、水の道を渡りつつ思う。  黄金の森の人狼は、確かに数が少なかった。けれど愚鈍な人狼などいなかった。  カイ二席は彼らの声を聴くために、どれほど神経を使って潜んだか、アルファに語っていなかったことに、今更ながら気付き。  ―――もう遅いのかもしれない。  ぼんやりとそう考えたのだった。
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