9.此処彼処 here and there

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「カイ! どこにいる!」  アルファに呼ばれ、カイ二席はすぐに走って前に立つ。  琥珀の瞳でアルファの濃茶の瞳をまっすぐ見返し、続く声を待ちながら、ふと不思議に思った。  すぐ前に立ってるのに、まったく気圧されていない。  郷でまみえた時、髭の震えを抑えきれぬほど圧倒的だったのに、今はベータ筆頭と変わらない程度の圧しか感じてない。どういうことだろう。 「どういうことだ!」 「え」 「なぜあちらなのだ!」  アルファは山沿いの薄い森を指した。そっちには筆頭と人狼数匹の匂いが続いてる。あれは、おれとシグマとルウが黄金の郷へ向かったときも通った道のり。  おれが筆頭に導かれた、道。  「なぜカイ筆頭どもの匂いが、あちらへ向かっている」 「え……」  それは、一番いい道を、筆頭が選んだから。 『いいかぁ? 潜り込むときはぁ、気ぃ付かれなぁいようにぃ。だぁから考えねえとダメだぁよ~、どぉこを通ればいかなぁとか~、なぁ?』  そう筆頭が言ってた。  おれは、筆頭の言ったこと、ちゃんと覚えてる。  だから答えた。 「いちばん、いい、道。だから」 「何を言っている! ここを渡れば、もう奴らの郷なのだろう!」  アルファが指したのは、流れの早い水の道だ。向こう岸もこっち岸も、水の流れに削られたみたいに少し崖になってる。  けど、その向こう側が黄金の森なのは、間違いない。 「うん」  だから頷いた。  けど、どっちも崖になってるから飛び込むしかないし、向こう岸にとりつくのも大変だ。  それに流れ速いし途中に突き出た石も無いから、めっちゃ泳がないとだし、そうなるとめっちゃ水音するだろうし、それじゃあすぐ気づかれる。  筆頭に習ったこと、ちゃんと伝えようと思った。 「けど、気付かれる、よ?」 「気づかれようが問題あるまい!」 「え」  ―――なに、言ってるの?  意味が分かんなくて、なんていえばいいか分かんない。  筆頭とは落ち合う場所と合図も決めてる。気付かれないように合流できるよう事前に打ち合わせしたのだ。それは筆頭からベータ筆頭に伝えるって聞いてたし、だから二席はアルファと共に先頭近くで走っていた。筆頭たちの匂いを間違えずに追い、きちんと合流を果たさなきゃ、だから。 「ええい、まどろっこしい! みな良いな、ここを渡るぞ!!」 「え。でも……」  カイ二席の声は、おおおおお、と吠える人狼どもにかき消された。  ていうか、匂いを追って行かないと、筆頭たちと合流できないじゃないか。  それに…… 「さくせん、は」  カイ二席は必死の思いで、もう一度問いを向けた。  ―――先行した筆頭たちから森の様子を聞いて、作戦立てるんじゃないの?  けれど声は届かない。アルファには対岸の森しか見えないようで……いや、アルファだけじゃない。  みんな同じだ。いつも冷静なベータ筆頭ですらアルファに呼応して両腕を上げ、天を向いて吠えてる。  ―――やっぱり、おかしい。  どいつもこいつも、人狼たちはみな目の色がおかしい。アルファの目も……いつもよりくすんで見えるのに、なんかギラギラして……人狼に追われて死を覚悟しつつ立ち向かうときの獣みたいな。  ―――人狼じゃないみたいな。 「この森は我らがものである! 精霊に見放された人狼など、蹴散らしてくれるぞ!」 「は?」  そんなの……と続いた声はまた、おおおおお、と呼号して吠える声にかき消される。  ―――精霊に……とか、そんなの知らない。     筆頭は言わなかった。おれもそんなこと一回も言ってない。  そう言いたかったのだけれど。 「行くぞ! かの森はすぐそこだ!」  またも、おおおおお、と吠え声が重なる。山裾の樹々が震えるほどのものすごい音量で、それだけでも見つかっちゃうの決定なのに、アルファが先頭に立って流れに飛び込んだ。  ばしゃーん、と大きな水音がして、流れに逆らい泳いでいくんだけど……バシャバシャめっちゃ音立てて。  うわあ、ぜったい見つかるよ、これ。 「我がアルファ! 俺も共に!」  続いてオメガが飛び込む。身体デカイから水音もでっかい。泳ぎ、うまくないみたいで、バシャバシャすんごい音をたてて渡ってくけど、ゼンゼン進んでない。 「この身も! アルファ!」 「我も行く!」  ベータ筆頭が飛び込み、ルウたちやベータたちも次々飛び込んだ。 「おお!」 「行くぞ!」 「俺も!」 「私も!」  みんな大騒ぎしながら続いて飛び込んで、渡ってく。  けど、……アルファはだいぶ泳ぎ進めてるけど、ずいぶん下流まで行っちゃってる。  ていうかみんな、だいぶ流されてる。  ―――そうだよな。     こんだけ流れ早くて、つかまるトコも無いんだし。 「えぇぇ~」    ちょ、先に行ったやつの上に乗っかったら、そいつが沈むじゃん。  他にもあちこちで泳ぐ足で蹴ったり蹴られたりして、そんで怒って声上げたり、あああ、なんで流されながら乱闘してんの。  めっちゃ騒がしいじゃん。泳ぐ音だけじゃないじゃん。  これ、絶対気付かれるって。  ていうか作戦とかは? 郷出る前に、合流してどうのって言ってたよな?  ―――どうしよ。 「……うん」  考えたのは一瞬。  カイ二席は筆頭の匂いが残る道を辿ることにした。  バシャバシャ流されつつ乱闘してる連中より、筆頭が決めた道の方が結局早い気がした。  それにとにかく  ―――早く筆頭と合流したい。     おれ、もう無理だし。   ◆   ◇   ◆   『老いたもの』とは、身体も感覚も衰えて、人狼として働けなくなったものを指す。  衰える年ごろはさまざまだ。  百の冬を越えても頑健で、ひと族の四十代くらいに見えるのもいるし、大きな怪我を負ったり病を得たり毒を受けたりなどの理由で、三十にもならずに衰えるのもいる。また、番を失えば、殆どの人狼は衰える。  そうなっても、ひと族などと較べれば鼻は利くし耳も鋭く、体力も運動能力も高いのだが、精霊の恵みが薄れてしまえば人狼としては働けない。  人狼は精霊と共に在ってはじめて存在するものであり、それが感じられなければ意思の伝達にも情報共有にも支障をきたすのだ。  ゆえに老いたものは軽んじられがちだ。獣と同等に扱うやつすらいる。  言祝ぎが薄れるようななにかをしたから衰えるのだと考えるものがそうなるし、人狼が精霊に言祝がれて失われたなら、姿も匂いも気配も消え失せるので、当てにならないという扱いになる。  もし魂が失われて骸が残ったなら、それは言祝がれなかったもの、人狼ではなかったものとされるのだ。  子狼や若狼は人狼ではないので骸が残るけれど、それはガンマの森にて丁重に葬られる。どのように葬られるのかはガンマ以外知らないのだが、たとえば同族殺しをしたなら言祝ぎを失ってしまう。  そういうものは骸を晒す存在に成り下がった、精霊の意志に背いたのだと蔑まれ、虫や小動物の餌として森に打ち捨てられる。  ともかく、老いたものは序列から外れる。肉を喰らうのも最後になり、広場近くの棲まいを宛がわれて、そこから殆ど出てこない。肉の解体や残った肉の加工を手伝うために出てくるくらいで、そういうときに出て来なければ言祝がれたのだなと皆納得する。  いつ失われても不思議ではない、無いものとして扱われつつ諦観とともに息をしているのが、老いたものなのだ。 「子狼は雌どもが面倒を見る。そなたらは若狼の世話を頼む。できれば教え導いてやれ」  ゆえにこのとき、残ったベータに請われて、老いたものどもは奮起した。アルファたちが戻るまでの一時的なこととはいえ、郷の先を担う若狼たちを任されたのだ。  狼の姿で過ごす幼狼(おさなご)や子狼は、危ない真似だけせぬよう見ていればよい。走って逃げようが匂いも気配も簡単に見つかるし、成獣である雌から逃れることなどできない。  だがひと形を取る若狼は、自在に狼には成れぬけれど運動能力や知覚……嗅覚や聴覚も格段に伸びるし、知恵を身に着けはじめている。  なのに人狼ではない若狼に序列はないので、上位に従うという当然のことができない。ゆえにとても不安定な存在であり、この時期に無茶をして失われる若狼は少なくない。  老いたものが請われたのは、獣の解体、果実や草も含めた食い物の加工を教えること。そして巣の建て方や布の織り方、細工の方法など、それぞれの知りうる限りを教えることである。 「お任せあれ」 「この身の続く限り務めましょう」  衰えたとはいえ序列を知る人狼だった者どもは、この場の最上位であるベータ四席に無条件に従う歓びで身を震わせた。 「なんであんたたちが偉そうなのよっ!」 「衰えてんだから引っ込んでろよ!」  ゆえに若狼どもが傍若無人であろうとも、腹を立てることなく 「うむうむ」 「そう思うのも無理はない」 「今は非常時なのでねえ」 「堪えて従ってくれないかい」  などと言いつつ、丁寧に教えてやった。  そうして夜三つも過ぎれば、いちいち反発していた若狼たちから徐々に険が取れていき、素直に教えを受けたり、甘えたりするようになっていく。それは老いたものにとって大いなる歓びとなった。  失われるのを待つのみの役立たずが、少しでも精霊と郷の役に立てるのだ。 「さすがだな、菫の白蜜」  白銅の銀鼠は心からの感嘆を込めた笑みを、賢い番に向けた。 「あなたの采配ではありませんか」 「そなたのいう通りにしただけのこと」 「あなたが指示したからこそ、みなが従うのです」  雌どもは未だに落ち着かないが、老いたものどもと若狼どもが従ってくれたことで、少なくとも当座はしのげそうだと安堵の息を吐く。  アルファと共に郷を発った者どもは、もう黄金の郷に入ったのだろうか、などと考えている白銅の銀鼠は、愛しい番に賛嘆の色も衰えぬ目を向けたままだ。 「血の気の多かった若狼も、そなたの狩りの指示には素直に従うと聞いた。すべてそなたのおかげだ」  今にも鼻を擦りつけそうに顔を寄せた白銅の銀鼠から低く囁かれれば、菫の白蜜も頬を上気させて頷くしかない。 「あなたの役に立てて、嬉しい」  なんと可愛いことを言うのだ!  と抱きしめそうになる両腕を意思の力で抑えながら、白銅の銀鼠は嬉しそうに目を細めたのだった。
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