9.此処彼処 here and there

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 アルファと呼ばれる人狼は憤っている。 「…………なぜだ! なにゆえこうなるのだ!」  カイ筆頭、そして共に先行した若い人狼どもの匂いは上流に向けて進んでいた。彼らと落ちあい森の様子を確認したうえで、最終的に作戦を詰めて攻め込む予定ではあった。  だが対岸に奴らの森が見えたとき、彼は今すぐここを渡ると決めた。そうせねばならぬと、彼の(うち)なる声が呼び掛けて来るからだ。  衝動に逆らわず水の道を渡ったが、辿り着いたのはだいぶ下流の対岸だった。かなり流されてしまったのだ。ここからあやつらの森に行くには、水の道沿いを上流に向かってまた進まねばならない。  だが、さらに彼を憤らせているのは、多くの人狼がもっと下流まで流されていたことだった。  獣程度ならば成獣単体で容易(たやす)く狩れるが、相手が人狼となれば話は別である。  人狼の本領は連携にある。  気配を殺して獲物を包囲し、虚をついて一気に攻めるといった集団戦を得意とする。  相手も人狼である以上、同様の戦法をとるのは必然。しかも奴らには地の利がある。だからこそ圧倒的な物量で攻める。そう決めた。  相手が精霊の言祝ぎを失い弱っていようが、侮って目的を達せぬなどあってはならぬとの決意と共に。  ゆえに多くの人狼を率いて来た。万全を期し、全力で当たるのだと、万が一の遺漏も許さぬと、その意思を(うけが)い従う人狼どもだからこそ、率いてきたのだ。  だというのに。 「なにをしておるのだ!」  有無を言わせぬほどの多勢(たぜい)で一気に攻め込むつもりであったゆえに、流されたものどもをこの場で待たねばならないことが、彼をひどく苛立たせていた。 「なぜに流される! それでも我が森の人狼か! 鍛錬が足りぬ!」  髭を震わせ、ざらついた声で吠える彼は、今にも怒りで焼き切れそうだった。  少しでも早く奴らを襲い、少しでも早くかの森を我が物とせねばならない。それゆえいち早く水の道を渡ったというのに、流されてこの場にいないなど不甲斐ないにもほどがあるというもの。  ―――一刻も早く、かの森を攻め立てねば。明らかにそうすべき。  ―――だというのになぜ!  ―――ここで待たねばならぬのか!  その考えは、彼をさらに苛立たせるばかり。  そして彼をアルファと慕う人狼にも、苛立ちは伝播(でんぱ)する。 「アルファの望みに(たが)うとは許せん! 流されたものども皆、厳しく鍛え直さねば!」  ミュウ筆頭であるオメガが、すぐそばで歯嚙みしながら唸った。  それにベータ筆頭が、ルウたちが、呼応する。 「然り! その際はこの身も共に!」 「我らは違う! アルファの望みに適う!」 「俺たちはアルファの心のままに動きます!」  しかし近しい人狼の吠えるような声も、彼には届かない。  彼の耳に響くのは―――身の裡から呼びかける声だけだ。 「「「―――迅速に攻める」」」 「「「―――僅かでも早く」」」 「「「―――今すぐに」」」 「「「―――蹂躙する」」」 「「「―――(ほふ)る」」」 「「「―――屠り尽くす」」」  何故に声がするか。  何処からくる声か。  何者の呼び掛けか。  ―――そんな疑問は浮かばない。  人狼相手に『屠る』などすれば同族殺しになる。同族殺しは精霊の加護を失う。それが人狼の常識だが、彼はそれに気づくことなく、ただひたすら焦燥を積もらせていく。  少しでも早く攻め込み、森を蹂躙して奴らを屠るのだと。そうせねばならぬのだと。  ただただ、その想いに囚われ、農茶の瞳は淀んでいるにもかかわらずギラギラと欲に眩んだ光を纏った。  似た光を若い緑の目に宿したベータ筆頭が、唸るように声を出す。 「我がアルファよ」  ギラリと淀む若葉色の瞳が彼の視界に映り、彼は歯を噛みしめたまま農茶の目を向ける。 「まずは上流へ向かいませんか。森の(きわ)まで進み、その時までに間に合わないものなど捨て置いて、我らのみで攻め込むのも良いかと」  ―――ふむ。 「猶予を示し、それでも来ないものなど不要。その意思を示されてはいかがでしょう」  なぜかベータ筆頭の声が耳に届き……思った。  ―――さすれば……すぐに攻め込めよう。  そう心に思えば、カチリと音がしたかのように焦燥を煽る声が低まった。そして彼の脳は考えることを始める。  郷を出た人狼は六十匹を越えていたが、この場にいるのは彼の番たるミュウ筆頭、ベータが筆頭と二席と三席の三匹、ルウ筆頭と、ルウが二席から十席までの八匹。  さらに十匹ほどが水を滴らせながら駆け寄ってくる気配がする。 「ふむ」  いち早くここに集うのは、いずれも戦闘力の高いものどもばかり。精霊の言祝ぎを失った人狼など、容易に蹴散らせよう。  その考えに至った彼は、ニヤリと牙をむいて笑った。 「さすがはベータ筆頭。我が想いは通じていると見える」  アルファと呼ばれていた人狼が呟けば、ベータ筆頭はパッと顔を輝かせ、感激を隠さぬ声を出す。 「はっ! この身はあなたのベータ筆頭なれば!」  ―――ならば、こいつらのみで、良いではないか。  つい先ほどまで、一匹でも多くの人狼を率い圧倒的多数で蹂躙するのだと考えていたことなど、今は脳裏には浮かびもしない。  なによりここにいるのは忠心強く体力も攻撃力も高いものばかりなのだ、という考えが彼の頭を占める。 「よかろう」  かつてアルファと呼ばれていた農茶の人狼は、淀んだ濃茶の瞳をギラリと光らせた。 「ここにいるもの、我について来れるものどものみで―――攻め込む!」  ざらついた声で吠えるように怒鳴ると、それを聞いた人狼どもが呼応して声を上げる。  だが実際のところ、みな腹の底から喉を鳴らしたくてうずうずしている。だが、これから攻め込む森で遠吠えするわけにはいかぬと耐えているのだ。それが、手に取るように分かる。  彼はなぜだか、ひどく愉快な気分になった。 「ククク……はは……はっはっは!」  いきなり吠えるような笑い声をあげた彼―――アルファと呼ばれる人狼は、意志を伝えるべく喉を伸ばし、天を向いて憚ることなく高らかに遠吠えした。  驚いたように彼を見る人狼たちは、次の瞬間、ギラリと目を輝かせて遠吠えに和唱する。  二十匹に及ぶ人狼の遠吠えは、森全体に、水の道に、すぐ近くの山にまでも響き渡る。  ついて来れぬものは置いていく。この森を蹂躙するのだ。  それはアルファと呼ばれる人狼の意志。  その意思は、遠吠えを耳にした人狼どもに伝わった。  彼が率いてきた人狼だけではない。  森に潜み、彼らを窺う人狼どもにも、伝わったのだ。   ◆   ◇   ◆  なんとか筆頭に追いついたカイ二席は、ひどく慌てて『みんなおかしい』と伝えた。  筆頭がうんうんと頷きつつ詳細を聞き出そうとするのに応えようと、彼は必死に答えた。  だが、ただでさえ言葉の足らぬ二席の言葉は、慌てたがゆえにさらに断片的になって、その場にいた若い人狼どもをいきり立たせてしまった。 「アルファは既に水の道を渡った!?」 「いや、あの。流されて……」  都合悪く、抑えようとする二席の声は、彼らに届かなかった。 「我らも急がねば!」 「いやぁ、だぁから~、いったんここで落ち合うって~ことになってるからさぁ」 「黙れ! 我がアルファの行動こそが正しいと分からないのか!」  いなすようなカイ筆頭に激しく怒鳴りつけたのは漆黒の人狼である。  しかしカイ筆頭は、いつも通りのニヤニヤ顔だ。 「つってもぉ、ここで作戦詰めるってぇ手筈でぇ」 「だから! アルファに先んじて我らが森に入り、奴らを牽制する!」 「いやぁ、牽制ってもぉ」 「後れを取るわけにはいかんのだ! なぜ分からない!!」  怒鳴り声と半笑いな声の不毛な会話が続こうとした、その時。  「Wow oh oh oh oh oh oh……ohh」  ひときわ響く遠吠えが聞こえ、  「「「Wow oh oh oh oh oh oh……ohh」」」  すぐに和唱する吠え声が何重にも響いた。それは森だけではなく、辺り一帯に響き渡る。 「は。 ……なんで」  信じられないと言わんばかりに呟いたのはカイ二席。彼にも遠吠えに込められた意思は伝わった。だが、意味が分からない。  それに反して、同様に遠吠えを耳にした若い人狼どもは、まるで雷にでも当たったようにビクビクと体を震わせ、みるみる目の色を変えていく。  ただいきり立っていた漆黒の人狼が、意思を込めて怒鳴り声をあげる。 「なんということだ! 我がアルファは攻め込まんとしている!」  あまりの声の大きさに思わず耳を抑えつつ、カイ二席は言ってみる。 「……いや。置いてくぞって……遠吠え、なんじゃ……」 「うるさい!」  耳を保護しつつ口ごもる二席は、またも怒鳴られた上に睨まれて、漆黒の人狼の目がおかしいことに気付いた。 「でも……あ」  さっきのアルファやみんなと同じ、くすんでいるのにギラギラした眼。出そうとした声が喉奥に引っ込む。  漆黒の人狼は二席の様子に気付くことなくギリリと牙を剥いて、今度はカイ筆頭を睨んだ。 「だから早く森に入ると言ったのだ! おまえが余計なことを!」  そのまま怒鳴りつけると、共にここまで来た同輩たちに農茶の瞳を向ける。 「おまえたち行くぞ! 後れを取ってはならん!!」 「え。ちょ」 「待ぁちなぁってぇ。手筈通りならぁ、ここで落ち合ってぇ作戦……」 「うるさい!」 「どぉこに、行くってぇ……」 「人狼の気配が固まっているところへ向かう!」 「おう!」 「みな行けえ!!」 「おおーい……」 「えぇぇ~……」  カイたちに見向きもせず、我先にと森へ駆け入ってしまった人狼共を、呆然と見送ったカイ二席は呟く。 「……どうなって、る?」 「あぁ~あ。落ち合ってからってぇ、言ってんのにぃ」  カイ二席が目を向けると、筆頭はニヤリと笑っていた。 「ありゃあ~」 「……筆頭?」 「思った以上にぃ、だぁ~めだぁねぇ」  その笑みは、いつになく満足そうだった。
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