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月が昇ってから菫の白蜜と共に森に入った若狼どもが、広場に戻って来た。
「今日の獲物だよ、しょぼいけど!」
「あいつのせいだよ、シグマの!」
「そうそう、遠くまで行くなとか理屈ばっかでさ」
「ぜんぜんだよな、まあシグマだし?」
「なあ、ベータ! もっと森の奥まで行っていいだろ?」
「俺たちだけで、ちゃんと狩りできる! シグマなんていらないよ!」
くちぐちに文句を言いながら獲物を布袋から出す若狼どもに、白銅の銀鼠は眉を寄せる。
「其方らだけ、なのか……?」
———なぜ、菫の白蜜がいない?
「狩りを率いていたのは……シグマではないのか」
「そうだけど、でも、だってシグマだよ?」
「なんであんなのが偉そうなの?」
「こーんなの狩りじゃないよ!」
彼らが袋から出し積み上げているものを見れば、お世辞にも良い獲物とは言えない。それでも郷に残る子狼や若狼、子育て中の雌が喰らうには十分足りる量だった。賢い我が番の行動に意味が無いなどありえない。この結果には理由があるのだ。
白銅の銀鼠は数夜前に相談を受けたことを思い出す。
そうだ、若狼どもを守るため、近場で狩りを済ませたいと……であればなぜ、共にいない? どこでなにをしている?
「菫の白蜜はどうした」
まさか……恐るべき何者か、いや黄金の郷の人狼が襲ってきたのなら……若狼を守ろうと森に残ったのでは? 菫の白蜜がいかに優秀といえど、多数の人狼と一匹で戦ったなら―――今頃ひどく傷ついているのではないか。
「知らねえよっ!」
「どうでもいい、あんなやつ!」
「早く獲物持って広場行けって、そんだけ言ってさ!」
「偉そうにさ!」
一瞬動転したが、ハッと気づいて加護を働かせる。
ベータと呼ばれてはいるが真の階位は守りである白銅の銀鼠は、その加護により、自らを言祝ぐ精霊が棲まう森の異変を感じ取る。具体的に分からなくとも、不穏を感じ取ることができるのだ。
この広場近くの森に他郷の人狼はいなかった。若狼たちからも、菫の白蜜以外の人狼の匂いはしない。そう確認してホッと安堵の息を吐く。
黄金の森の人狼が攻め入って、菫の白蜜一匹が戦っているのではと気が逸ったが、どうやら違う。
「シグマのくせに!」
「序列低いくせに偉そうなんだよ!」
菫の白蜜が危機に瀕しているのでなければ、こやつらに知らしめねばならない。
「若狼が、人狼の序列をくちにするか!」
ビクゥッと身を強張らせた若狼どもはくちを噤み、耳を寝かせて頭を深く下げる。無意識に若狼どもを威圧してしまったようだ。
だがこれが当然なのだ。上位を悪しざまに言うなど、人狼としてありえぬ。
……おそらく彼らにとって取るに足らぬシグマが上位とされるのが腹立たしいのだ。面と向かえば勝てぬと分かっているからこそ、本人のいないところで口さがなくなっている。つまり単なる愚痴。さらに上位へ怨嗟を吹き込み、相手が窮地に陥れば胸がすく。
そういうことだろう。
珍しいことではないし、弱いものほどこうなりやすい。ずっと侮られて生きて来た白銅の銀鼠は、そのことを良く知っている。
どうやらここまで要らぬ気づかいをしていたようだ、と白銅の銀鼠は息を吐く。
郷にほとんど成獣がいないのは不安であろうと考え、若狼には過重な働きをさせている負い目もあり、優しくし接するよう心掛けていたが。
「いまだ人狼でない若狼ごときが、程を知らぬようだな」
正しい人狼としてどうあるべきか、こ奴らが知らないということは、教えなかった人狼の側に責がある。いまだ若狼は守られ育まれるものどもなのだ。
「人狼であるシグマを愚弄するなど、従うべき人狼を悪しざまに言うなど、其方らには許されない。己を知り、学んで程を知れ。老いたものやシグマがその範となろう」
しかし広場に駆け入ったとき、若狼たちは怯えの匂いを纏っていた。恐ろしい目に遭ったかと心配したが、血の匂いもしないし、どこか痛めている様子もない。だとすれば……
「それにしても……そうも悪しざまに言うシグマに、なにゆえ怯えておるのだ?」
するとビクビクと肩を震わせつつ、一匹の若狼が、白銅の銀鼠に目を向け言った。
「おっ、怯えてなんか……っ」
「我を侮るか!」
また声を張れば、同時に覇気も漏れたらしい。若狼どもは、またもビクゥッと身を縮める。
「この我が、怯えの匂いに気付かぬと思うたか。虚勢もたいがいにすることだ。それとも狼たる其方らが獣ごときに怯えたとでも言うか」
若狼たちがしゅんと耳を寝かせ頭を垂れる。やはり菫の白蜜に怯えていたのだ。
まさか愚かにも菫の白蜜に挑んだのか? こ奴らが束になって挑んだところで相手にもなるまいが、あるいは威圧でもされたのか。
いずれにしても身の程と正しい在り方を学ぶべきだ。
そこに老いたものが近寄ってきて、白銅の銀鼠に取り成す声をかけ、若狼どもに「早く解体せねば」と声を励ます。
思わず出そうになった舌打ちを抑え、早く処理するよう言い渡す。若狼どもは老いたものに宥められながら解体の作業を始めた。
ホッと息をついた白銅の銀鼠は、菫の白蜜の匂いが近づいているのに気づき、再び安堵の息を吐く。無事に戻ってくるようだ。まだ遠いが……。
意識を向ければ、小さな気配がいくつも共に在るようだった。
獣ではない、狼の気配。しかし弱く小さい……まさか幼狼か?
そうだ、これは幼狼。まだ気配は遠いが、間違いない。
「———ありえぬ」
低く呟いて、白銅の銀鼠はアルファの館へ足を向ける。雌どもが幼狼と共に過ごしているはずの部屋へまっすぐ向かったのは、どういうことかと問い質すためだった。幼いものを育むことは、彼らのアルファによって定められた掟である。白銅の銀鼠は、その為、守るために残ったのだ。
守りたる己の階位を遺憾なく発揮せんと意気込んでもいた。それを台無しにする気かと言う怒りが、身の裡より溢れ出でる。
だが扉前に来ると、そこには何故か鍵がかかり、重しすら置かれていた。まるで閉じ込めているようではないかと眉を寄せる。ここはシグマどもに見張らせていたはずだが、一匹もいないのはなぜか。
次々湧き上がる疑問、そして憤りと共に扉を開いた白銅の銀鼠は、いきなり何匹もの雌に飛びかかられて驚きつつ、一匹も出すまいと立ちはだかり、後ろ手に扉を閉じた。それでも雌どもは白銅の銀鼠を押し退けて扉を潜り抜けようと、爪を立て噛みついてくる。
極めて大柄で頑丈であるミュウの体躯を押し退けることができる雌はいなかったが、爪と牙で肌は傷付き血が流れた。
だが白銅の銀鼠は、痛みよりも驚愕に目を見開き、気付けば怒鳴っていた。
「どういうことか!」
しかし雌どもは意に介する様子もなく、大柄な体を押し退け部屋から出ようとするばかり。見れば雌どもはいずれも毛を振り乱し、流血しているものも多い。訳が分からなかった。
「みんな番の元へ行きたがってるの」
そんな中、いらえを返したのは一匹だけ。かつて白銅の銀鼠の子を成した雌だけだった。
「急にこうなったのよ」
白銅の銀鼠に向けた目は、ひどく冷めていた。
「行かなくちゃっていうか必死っていうか、おかしくなっちゃった。まあ番と離されたのだもの、当然なのかもね」
この雌も子育て中であったゆえ郷に残されていたのだが、白銅の銀鼠は今の今までそのことに気づいてもいなかった。鼻白む雌の顔をチラリと見返したが、視線は雌の上に留まらず、忙しなく室内をさまよう。
問題はそこではないからだ。
部屋のあちらこちらに子狼が、あろうことか幼狼も、倒れている。いずれも気配が弱く……いや中には全く気配が無いものもいる。失われてしまったのか。守り育むべき子狼が。幼いものを守りきると、ミュウたる己に誓ったというのに。
「なぜだ。幼狼をないがしろにするなど……」
「番より大切なものなんてないに決まってるじゃない」
「…………!」
何が起こっている。
確かに雌どもは番恋しさに不安定ではあった。けれど幼い狼の世話は、きちんとしていたはず。なぜ急に?
肌がじっとりと汗ばむのを感じつつ、白銅の銀鼠は老いたものとシグマたちを呼び、幼狼と子狼を保護するよう命じねばと考える。手遅れがあるとしても、一匹でも多く救わねばならない。
なぜ、どうして、そんな疑問が巡る脳を、必死に押しとどめて善後策を考える。
疑問はきっと、おそらく、愛しい菫の白蜜が戻ったなら、すべてが明らかになるに違いないのだから、今考えるべきではない。
そう信じ、賢いシグマたる番が戻るのを心待ちにしつつ、それをおくびにも出さずに部屋を出て扉を閉じ、声を上げてシグマどもを呼ばわる。
開けとばかり扉に群がる番持ちの雌どもと一緒に閉じ込められ、冷めた目をしたままの雌が一匹いることになど、気付くこと無く。
◆ ◇ ◆
どのものより早く駆け入ってきたのは、鉄錆色の毛をした大柄な人狼だった。
それに続くは、やや小柄ながら動きの素早い鉄色の人狼。
「おお、なかなかいいな」
「あれは狩りだろうな」
「ん? あいつこの間来た奴じゃないか?」
「おお、本当だ」
「ずいぶん気配が弱まっている」
樹上に佇む人狼数匹が、地面をかけ行く狼どもを見下ろしながら話している。精霊の加護強く、強大なアルファに率いられた彼らは、声を出さずとも意思の疎通に困らない。
それを耳に挟んだ人狼が、黄金の毛を風にたなびかせつつ、あえて小声で呟いた。
「あれか……なお良し。是非とも我が郷に欲しい」
豊かな黄金の毛、冬の青空のように深く青い瞳を持つアルファは、含んだ笑みで彼らの森に侵入した人狼どもを物色しつつ機を待っていた。
目的はただひとつ。
寒の戻りが荒れ狂い周囲が見えなくなる前に、彼奴等の眼前でただの人狼一匹を圧倒してやらねばならぬ。侵入者どもがアルファと仰ぐ、ただの人狼ごとき造作も無いとばかり、黄金のアルファは鼻で笑う。
先の豪雨により水の道が暴れ、森は荒れた。
そして元々三十数匹いた人狼のうち半数が水と共に流され、戻らなかったのである。
それだけではない。老いたもの子狼を問わず多くの狼も失われ、この冬成獣となるはずだった若狼は一匹しか残らなかった。
それでも精霊は共に在る。
ガンマの導きにより、この冬一匹の若き人狼がアルファに傅く一匹となった。むろん、ガンマの森は精霊の加護により秘されている。他郷の人狼がいかに探ろうとも知れるわけもない。
しかしやはり現状はよろしくない。子狼や若狼すらも数少なくなっているのだから、冬をいくつ越えても人狼は増えそうにない。であれば森を保つに必要な人狼の数を満たすに、どうすれば良いか。
そのうち、金色のアルファが何処からか情報を得た。
この時期に、多くの人狼が侵入して来る。そ奴らのうち、見所あるものを我が郷に迎え入れる。それは郷にあまねく伝えられた。
侵入者どもは既に人狼では無く、狼と成り下がっている。寒の戻りで狼狽える狼どもを打ち倒し捕縛して、我が郷の精霊に問うのだ。
想いに適う人狼はいるか、と。
精霊が受け容れたなら、その人狼は同胞であり兄弟である。
「是非とも、優秀な同胞と出会いたいものだ」
目当ての狼が現れたのは、黄金のアルファが笑みと共に呟いてからすぐのことだった。金に輝くアルファは樹上に散らばる人狼どもへ、覇気により指示を下す。
雷に撃たれたようにビクッと身を震わせた人狼どもは、その場を満たした覇気に歓喜を覚えつつ一斉に樹上から飛び降りる。
周りも見えず、ただ郷の中心に向かって駆け抜けようとしていた狼どもは、黄金の郷の人狼に包囲される。倍以上の数で攻め込んできた狼どもには地の利無く、包囲されてしまえば狩られる獲物の立場となった。それに気づいて反撃を試みるものも当然のように多かった。しかし……
飛び降りた人狼に踏みつぶされキャインと鳴き声を上げるもの、包囲されたと知り立ち向かわんとするもの。だが多くはひと爪で薙ぎ倒され、蹴りひとつで蹲る。
狼どもは一方的に薙ぎ倒されるばかりで、そのことに狼狽え、さらに冷静さをかけば、狩りの獲物としても簡単すぎる相手である。
そんな中。
喧噪のさなか、黄金の人狼に立ちはだかられた農茶の狼が、ゆるりとひと形に変化した。
「失われし郷のアルファか」
農茶の狼は、今すぐ叩き潰さんとばかりの内なる衝動と戦いつつニヤリと笑んで言い放つ。
それに黄金のアルファは、「ふふっ」と含み笑いを返した。
「ただの狼ではないか。すでにアルファどころか人狼の加護を失った、哀れなものよ」
「なにっ! 我が精霊を愚弄するか!」
「精霊は我らと共に在る。そちらが勝手に、我が郷を侮ったのではないのか?」
ギリリと牙を鳴らして歯嚙みする農茶の狼は、唸りを挙げつつ、金の人狼に飛びかかった。
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