9.此処彼処 here and there

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 農茶の人狼は緑の瞳にギラリと淀んだ光を宿らせ、相対する金色の人狼にまっすぐ飛びかかり、恫喝と共に腕を揮う。 「思い知れ!!」  まずは力の差を思い知らせるための小手調べ。鋭い爪が金色の毛を削ぎ、相手の頬に朱の一筋が走る……筈だったが、爪は空を切った。避けられた、と知った瞬時に足の爪を立て、前進の勢いを上昇に変換する。  飛び上がった高さは人狼三匹分ほど。そのまま頭上から頭を蹴り落とす。  言祝ぎ無き人狼ではついて来れるわけもない動き、の筈だったが、金色の人狼は彼より素早かった。振り落とした足はまたも空を切り、そのとき気配は彼の頭上に在ったのだ。 「なっ」  気づいて反応しようと、するより先に相手の足は彼の口吻を蹴り落とす。そのまま地面に叩き落されたが、なんとか四肢で着地し、すぐに地を蹴って飛び上がる。しかし黄金の人狼は、さらに高く飛んでいた。 「我がアルファ!」  オメガが声を上げた。  身体を丸めて素早く落下し、四肢で着地して落ちて来る相手に爪を振るおうと……したが、相手の気配を捉えられない。  周りにあまたある気配に紛れたか、あまりに気配が薄いと嘲笑いたくなった。だがそれを抑え、金の人狼の気配のみに意識を向ける。  先ほど舐めた口をきいたを圧倒せねばならない。完膚なきまでにぶち倒し、精霊と共に在るのがどちらなのかを思い知らせねば。我が郷の精霊こそが正しいのだと、加護が強いのだと、この場のすべてに知らしめるのだ。  しかしその想いは空回(からまわ)る。金の人狼の気配が見つからないのだ。いかに弱く薄かろうが全く気配を感じず匂いもしないなどありえない。若干混乱して、気配だけでなく視覚も使うことを思いつき周りを見回し……ゾクッと背筋に走った悪寒に、思わず人狼二体分ほど左に飛び退く。その場所を風が通ったが、避けたはずの場所では牙が待ち構え、彼の喉笛に迫っていた。  再び地を蹴り、後方へ飛び退いた。ヒヤリと背筋が凍えたまま、汗が滲む。  なんとか避けた。だが牙は、正確に喉笛を狙ってきていた。避ける場所が分かったとでもいうのか。馬鹿な。なぜ。  ———まさか予見していたとでも。  思考する間も、思わずその場を飛び退いていた。  間髪入れずに襲い来る気配に本能で反応したのだ。しかし背筋を冷やす悪寒は止まず、汗も止まらない。  ———いかん。集中だ。  思考も悪寒も振り捨て、また飛び退いたが今度は足りなかった。迫りくる爪が鼻先を裂き、血飛沫が飛んだ。 「遅い」  妙に響く声が間近で聞こえ、ゾクッと毛が逆立った次の瞬間、声を返す間もなく逆に振るわれた腕に横っ面を張られた。  人狼二体ほど離れた樹木に叩きつけられたものの、なんとか樹皮に爪を立てて幹に留まり、してやられたことにギリギリと牙を噛みしめる。  今度こそ気配を見失うまいと金色の人狼に意識を集中する。しかしそこに―――  叩きつけるような覇気を、浴びせかけられた。  悪寒が全身を包む。汗が止まらない。手足も胴も、髭まで震えている。  農茶の人狼は、必死に己を鼓舞した。  萎縮している場合ではない、圧倒せねばならぬのだ。俺が、深き森のアルファが、ごときに劣るわけがない。  ―――こいつは精霊の言祝ぎを失った無能な、元アルファに過ぎないのだ! 「ふん」  金色の人狼は、睨みつける農茶の人狼を、鼻で笑う。  まるで未熟な若狼を見る成獣のような、慈愛すら浮かんだ目で―――憐れんでいるかのような笑みで……。 「やめろ!」  カアッと燃え上がった怒りが混乱を上塗りし、吠えるような怒号が喉を震わせた。忌々しいあの笑いをやめさせる、その一心で金色の人狼のふざけた笑みを睨みつける。 「おまえごときに……!」  吠えるような怒号と共に幹を蹴り、まっすぐ飛びかかるとみせかけて宙で巧みに体勢を動かし、軌道は曲線を描いた。  ———俺は勝利する。コイツを屠る。そうだ、そうせねばならぬ。  斜め上方から爪を振りぬく。金の人狼の鼻先が裂けると確信した瞬間、爪は空を切り、逆に相手の爪が目の上を裂いた。眼前を飛ぶ血液が線を描く。  信じられぬ想いで見ていた血の線を裂くように、再び爪が襲い来る。 「くっ」  眼球を狙って振るわれた爪をなんとか避け、さらに二体分後ろに飛びのいた。  だが即座にギラリと鈍い光を纏った牙が眼前に迫る。  避けようと首を引き爪を振るうも軽々と避けられ、逆に飛びかかって来る勢いを躱そうと飛び退いて四肢で着地したとき、片耳の先を齧り取られていた。羞恥に血流が全身を駆け巡る。  耳が欠けるなど、人狼にとって尾が切り取られる次に恥。  ―――どういうことだ。なぜコイツが自分より速い。自分より高く飛ぶのだ。言祝ぎ無き人狼など敵ではないはず……  二体分ほど離れて、金色の人狼は先ほどと変わらぬ舐めた笑みで佇んでいた。  全身がカァっと赤熱し、無様にも息を荒げている自分に歯嚙みする。と、同時に全身が……震えているのに気づいた。  ―――なんだ?   急に(もや)が晴れたように頭がハッキリしてきた。  強大で荘厳な気配を纏った、黄金の人狼……(まご)うことなきアルファを眼前に認め…… 「…………なぜ……?」  漏れた声は、愕然とした響きを纏う。  ―――なぜ、この強大なアルファへ挑もうなどと考えたか。  人狼は通常、争わない。  敵う相手か否か、闘わずとも力量の差が図れるからだ。  稀に闘うことがあるとしても、力の差を見せつけて終わる。同族を傷つけて喜ぶ(やから)はいない。  そして今、農茶の人狼は眼前の人狼―――強大な加護を持つアルファ―――に己は敵わないと知った。  ―――では……なぜ自分はここに。なにをしている?  いや、はっきりと覚えている。  うるさいほどに煽り立てていたのだ、声が。  そうせよと命じたのだ。〝声〟が―――迅速に攻めろと、蹂躙し(ほふ)り尽くせと、彼はその声に従うだったのだ。  〝声〟に従うべきだった。何の疑問も抱かなかった。  だから自ら郷の人狼どもを従え、水の道を二つ越えてこの郷に攻め入った。この森を蹂躙し、アルファを名乗る無能な金毛の人狼を屠らねば、と。……待て。  ―――屠る?  馬鹿な。  自ら同族殺しに堕ちようとしていたと? なぜそんなことを考え……いやそれ以前に  ―――我が郷の精霊から離れるなど、自ら他郷へ乗り込むなど……アルファたる人狼がすべきことでは…………! 「哀れ」  深く響く声が聞こえた次の瞬間、あえて爪を立てずに振るわれた腕に、地面へ叩きつけられた。横倒しに倒れた農茶の人狼の首を、ドスンと落ちた足が踏みつける。  明らかに勝敗の決した瞬間だった。 「……アルファッ!」  愛しい番の叫びが耳を打ち、ハッとして周囲の気配に意識を向ける。  番たるミュウ筆頭は息も絶え絶えに、それでも必死にもがいていた。  腹心たるベータ筆頭は、大柄な人狼に打倒されたまま脱力していた。  気づけば皆……気配が弱い。もっと強大で堂々とした人狼どもであったはずであるのに……。 「おぉ……おおぉ……」  嘆くような唸りは、ベータ筆頭のもの。  ルウ筆頭の、ベータたち、ルウたち、自分に従ってきた人狼どもの悲鳴が、疑問と絶望の呻きが、ようやく彼の耳に届き、農茶の人狼は自らの(あやま)ちを悟る。  ―――オメガよ、俺を踏む足に噛みつこうというのか? 可愛い奴め。     だが届くまい。もうよい、おとなしくせよ。     良いのだ、オメガよ。 「哀れである。だが……報いは受けねばならぬ」  見下ろしてくる黄金の人狼が、低く響く声で告げた。  精霊に言祝がれ加護を与えられた人狼だけが持つ、全身が輝くような佇まい。それが黄金の人狼にはあった。なぜこれに今まで気づかなかった……? 嫌でも明らかな差を自覚せざるを得ない、これに、なぜ気付かない?  これがアルファ、そう思った農茶の人狼は、しかし自分こそアルファと顧み、無意識に呻くような声が漏れる。 「なぜだ……」  ようやく敗北を認めた農茶の人狼は、けれどいつからか、自身が滂沱の涙を流し続けていることに、気づいてはいなかった。   ◆   ◇   ◆ 「匂いもせぬ」 「どこへ行ったのだ」  シグマ三席と五席、そして六席は慌てふためいて森を駆け巡っていた。  数匹の子狼が館を抜け出し、いずこへか走り去ってしまったのだ。急いで保護し、連れ戻さねばならない。  雌どもが急に「開けて」「今すぐ」と騒ぎ始めたのは、月が昇る少し前のことだった。扉を何度も激しく叩いたり壁にぶち当たる音が聞こえてきたのだ。  その場にいたのは三席と五席と六席の三匹だった。筆頭はガンマの森から戻らず、二席と四席は若狼と採取に向かい、七席は若狼を連れて狩りに向かった。  雌どもの気配はいかにも異常だった。決して扉を開けるわけにはいかぬと考えたが、扉向こうの勢いは激しく、鍵をかけているのに今にも扉を破られそうだった。そこで三匹の中で一番力持ちの六席が重しとなる樹や石などを探しに行った。  残った二匹は必死に扉を抑えていたが、そのうち気づいた。止まぬ雌どもの激しい訴えの合間に、子狼の声が聞こえるのだ。 「ごはん」 「クゥンクゥン」 「お願い」 「ごはん」  荒ぶる雌どもの声と比すれば微かな声音だったが、子狼と接することの多い二匹の耳には、その声がどの子狼のものか分かり、戸惑う。  若狼たちとシグマが持ってきた食い物は、昨夜の月が沈み陽が昇った頃に、きちんと始末して中に運んだ。中にいる雌どもと子狼たちには十分足りる量だったはず。 「おい、子狼が腹を空かせているのではないか?」 「どういうことだ? きちんと喰わせているのだろうな?」  しかし雌どもは変わらず「開けて」「すぐ開けて」「行かないと」と叫ぶのみで答えは返らない。  三席と五席は、ひとまず自分たちに分配された食い物を与えることにした。  成獣である彼らは喰わずとも問題ない。シグマはみな、子狼が欲したとき与えるため、自分の分を食わずに貯めていた。万が一にも子狼を飢えさせるわけにはいかないと考えていたのだ。 「いいか、おまえたち。今食い物を渡す。扉の近くに来るのだ」  何度か声をかけ、扉近くに子狼の気配が来たと確認して鍵を開ける。食い物を扉近くにいる子狼に渡そうと少しだけ扉を開いて、雌が出ないように二匹は全身で扉を抑えたが、隙間から未だ狼の形の子狼が数匹飛び出してしまった。  しかし雌どもがこぞって扉を開こうと隙間から腕を伸ばしシグマに爪を向けたので、すぐに追うことはできなかった。二匹は鼻面や腕を少し抉られたが、そんなことより雌どもの勢いが激化していたので必死に扉を抑えねばならなかったのだ。ようやく扉を閉じて鍵をかけたが、それでも開けろと騒ぎ続ける雌どもの勢いは増すばかりで、しばらくして六席が重しとなる大樹の幹を持ってくるまで扉を抑え続けていた。  重しを扉の前に積んで六席に事情を説明したが、その間も扉は内側から大きく撓み、今にも破られそうだったので六席は再び重しを探しに行き、持ち帰った大石を扉前に積んで扉を破られることはなさそうだと確認してから、三匹は子狼を探しに森へ向かったのだった。  しかし抜け出してから時が経っていたし、子狼どもはいつも広場で遊んでいたので、そこら中に匂いがある。さほど鼻の利かぬ三匹には、子狼の匂いを追うことができなかった。  広場周りの森を駆けて探していたのだが、そこでシグマ七席の気配を感じた。 「これは!」  成獣の気配は子狼よりはるかに強く、彼らにも感じられたので、七席へ向かって駆けた。  七席は鼻も利くし走るのも早い。あれに子狼を探させればよい。  そして近くまで駆ければ子狼の匂いも感じ取れ、三匹はホッとした。 「いたか、よかった!」 「七席!」 「よう見つけてくれた!」  子狼たちが沢になっているところで小魚を捕ろうとしていたと聞き、三匹は察した。  どうやら広場から細い水の道沿いに森へ入ったらしい。水の匂いに紛れ、気付かなかったのだ。 「…………なぜ、子狼だけで森にいたのか、分からないのですが」    三匹はくちぐちに説明する。 「急に雌どもが騒ぎだして」 「月が昇る前くらいのことだ」 「そなたが森へ入ったころである」 「そんなに長く……。それよりこの子たちは腹を空かせていたようなんですが」  自分らの持っていた食い物を与えようとしたとき、飛び出してしまったことを伝える。 「しかしすぐに扉を閉じるしかなかった」 「果たして中にいる子狼どもは喰らえたであろうか」 「致し方ない。我らだけでは雌どもを抑えることもかなわぬのだから」 「……そうだったんですね」  七席は労うように上位たちを見渡し、にっこりと笑う。 「ともかく見つけられてよかったです。私だけでこの子たちを連れ帰ることができず困っていたのですよ」 「うむ、皆で連れ帰ろう」  シグマ四匹は子狼どもを抱き上げ、広場へ向かった。  ベータ四席が、その匂いを待ち焦がれていることも知らずに。
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