9.此処彼処 here and there

7/11
前へ
/99ページ
次へ
 深き森より侵攻してきた人狼どもは、愕然と見つめていた。  ここまで彼らを導いた農茶の人狼が地べたに崩れ落ち、金色のアルファに踏みつけられ、声も上げずに涙する姿を。 「我が、……アルファ」  オメガは膝をつき、ささやかな声音で何度も何度も、彼の番に声をかけている。  しかし農茶の人狼は(いらえ)を返さず、目すら向けずに地に伏し、背を丸めて滂沱の涙を流すのみ。  ―――我が番が、オレの声を聞き逃すなどありえない。     たとえ針が落ちるほどの、ごく小さな囁きであっても、必ず目を向け微笑んでくれる、はず。  ―――なのに。  涙にそぼ濡れつつ、力尽きたような声で呼びかけ続けるオメガの声も聞こえないようだ。  それを感じ取る人狼どもは、信じられぬ想いで。絶望に打ちひしがれて。  彼らが従った人狼を見つめる。  ―――先ほどまでの荒ぶる気配、あの勢いは、あれはなんだったのか。  今や農茶の人狼に覇気など微塵も見えない。  それどころか気配も薄くなって、まるで老いたもののようだ。失われるのを待つのみの、人狼では無いもののよう。  反して、その前に佇む黄金のアルファは強大な覇気を纏っているにもかかわらず、まったく攻撃的ではなかった。  彼らに向けた眼差しには慈愛すら滲んで、力量だけでなく人狼としての在り方も、明らかに……彼らがアルファと信じた人狼に勝る。  この場にいるのは、いち早く奥深くまで攻め入ることができた者たちだけだ。特に強い身体と感覚と持つ、優れた人狼。  優れているがゆえに、相手との力量を正しく図れる。優れているがゆえに、人狼として正しく在ることを大切にするものばかりだった。  それゆえに、狂乱が消え失せると同時に悟った。  正しい人狼の感覚を取り戻し、力量の差が感じ取って、勝てるはずのない闘いに(いど)んでしまったのだと理解した。森に入った時点で(かな)わぬと悟って当然なほどの力量の差を。  彼らはこの強大な人狼の覇気を浴びた。にもかかわらず、打ち倒すなどと考えた。  なぜだ、なぜだと、ただ戸惑いは増すばかり。  そして彼らは自らの力の衰えも知る。  生来の身体能力に加え、鍛錬を怠らずに階位を手にしたものどもは、激しく混乱する。彼らに加護を与えた精霊を、感じ取れないのだ。  彼らの知る精霊とは違う精霊が、この森に棲まっている。この森の精霊は彼らにとって馴染みがなく、攻撃的ですらあって、森は落ち着かない気配に満ちている。それがさらに彼らの混乱と戸惑いを助長する。  呆然と力を落とし膝をつくもの、行き場のない怒りに唸るもの、泣き叫ぶものもいるが、己を打ち倒した黄金の郷の人狼どもが姿を消していることに気付いたものは、一匹もいない。  もうすぐ寒の戻りが来るこの時期、黄金の森では頑強な成獣が自らの毛皮と体温で幼きものと弱きものを包み込んで、寝床に潜り込む。幼きものは毛皮の中でぬくぬくと眠り、半ば夢の中で燻し肉や干し果実を喰らい、吹きすさぶ雪嵐が去るのを待つ。  寒の戻りがあるため、黄金の郷では細い枝を組み合わせて棲まいを造る。葺く葉も敢えて小さい葉を組み合わせる。隙間を風が通る造りにするためだ。  太い樹を使って柱を立て、大きな葉で葺いた棲まいは、雨風は凌げるだろうが雪と風の暴挙には弱い。しっかりと葺かれた屋根部分にはずっしりと雪が積もって棲まいを潰してしまうし、激しい行き嵐に叩かれ、太い柱が倒れれば棲むことなどできなくなる。  しかしこの造りであれば、激しい風は棲まいを吹き抜け、雪も風と共に抜けるていくため、棲まいが雪に潰されることも無い。  成獣は10の夜を越えるほど飲まず食わずでも生きていけるし、極寒の中でも眠れるのだ。棲まいは弱きものが雨を凌ぐためだけで良い。  黄金のアルファは、目の前で混乱する深き森の人狼どもを慈愛の籠った目で見やり、小さく息をつく。  本来ならもう少し早めに準備をするのだが、今回は攻め込むむものどもが来ると分かっていた為、ギリギリまで待って指示を出した。  彼らを哀れには思うが、すべてを救うことなど黄金のアルファにはできない。そのような行為は許されない。  彼にできるのは、ただ待つことのみ。  同胞(はらから)となる人狼が精霊によって選別される瞬間を、待っているのだ。  選ばれた人狼は寒の戻りに耐えうる力を得るだろう。選ばれなければ、その狼は失われることになるだろう。仮に生き永らえたとしても、我が森の精霊の想いに適わぬ狼など、森に住まわせるわけにはいかない。  黄金のアルファは、寒の戻りに耐えうる人狼を見極めるため、この場に佇んでいた。  森を統べるよう任された人狼は、ひたすら精霊の意志に適うよう働くのみ。それが黄金のアルファの認識だった。古より黄金の郷で引き継がれてきた、正しい人狼の在り方。それを全うするべく黄金のアルファは在るのだ。  どの人狼を精霊が気に入るか分からない。いかに気になる人狼がいたとしても、彼の望みなど精霊の決断に比べれば、なんの意味も無い。   ◆   ◇   ◆  森の奥へと駆け進んでいた漆黒の人狼と彼に従った者どもは、唐突に足を止めた。 「…………なんだ?」  一匹残らず怪訝な顔をして互いに目を向け合う。  自分たちが何処に行こうとしていたか、なぜそう考えたかも、はっきりと覚えている。だが……どうしてそうしようと思ったのか、いきなり分からなくなった。  まるで子狼の背を押して励ます親狼が、突然消えたかのように。  ―――何かが抜け落ちた。 「……おい、……どうする?」  一匹がおずおずとくちを開けば、迷いの見えるまなざしが返る。  みな同じ感覚に陥り戸惑っているのだ。  彼らのアルファの遠吠えを聞いて一気に逸り、駆け続けていた、なのにそのアルファの気配が…… 「……消えた? よな」 「ああ。でも」 「そんなこと……まさかアルファが」 「滅ぼされたって……? 馬鹿なこと言うな」 「だってそれじゃ、それじゃ同族殺しだろ?」 「ねえ、やめようか? 郷に戻ってさ?」 「―――いや、行こう」  漆黒の人狼の言葉に、どこへ、という問いを向けるものはいなかった。けれど眼差しには戸惑いが満ちている。 「俺はアルファになる。そう言った。お前たちは俺について来ると言ったな?」  若き人狼どもは、目の色から戸惑いを消し、それぞれ頷いた。    正直、彼らにとって深き森のアルファが何処でどうしているかなど、さして重要では無かった。 「そうだ」 「ついていくぞ」  返る声と決意に満ちた眼差しを満足げに見返し、漆黒の人狼は駆けだした。  人狼が多く集まる場へ。  彼らは思いだしたのだ。  重要なのは、漆黒の人狼がこの森に君臨し郷を治めること。  いち早く郷を我がものとし、我が精霊の言祝ぎをこの森に与えようと、その為に人狼の気配が多く集まる場所へ急いでいたことを。  そこに『重要ではない』アルファがいることも知らずに。   ◆   ◇   ◆  子狼を抱いたシグマたちが戻り、ベータ四席はようやく状況を理解した。 「中で……子狼が倒れていた。気配の無いものも、いたようだ」 「ともかく子狼を救いましょう。雌どもと一緒にしておくわけにはいかない」  しおたれた声を漏らす愛しい番の、深く傷ついた鈍色の瞳を覗き込んで、シグマ七席は声を上げた。 「先輩たち、筆頭を呼び戻してください。今郷にいる中で、ベータと共に序列が高いのはシグマ筆頭です」 「そ、そうだな」 「しかし、筆頭はおそらくガンマの森に」 「我らが入れるのか」  採取から未だ戻らぬ二席と四席を除くシグマたちは、戸惑いを隠さず声を漏らす。 「それでは、子狼に食わせるものを持って来てください」 「しかし! それができぬと」 「若狼が解体をしているはずです。それを」 「渡したとて、どのように与えるというのだ!」 「雌どもの勢いは!」 「ですから私が中に入ります。子狼を運び出します」 「なんと!」  驚くシグマたちに、白銅の銀鼠が告げる。 「我も共に事にあたろう。事が事だ。雌ども傷つけることも厭わぬ」 「はい、私もその覚悟で中に入ります」  にっこりと笑いかけると、白銅の銀鼠も目を細め頷く。七席は嬉しくなり、さらに笑みを深めたが、シグマたちはそれに気づかない。 「よく言った七席」 「頼んだぞ」 「あとのことは任せるが良い」  くちぐちに声を漏らし、館の前から去るシグマたちは、あの雌どものさなかに入らずとも済むという安堵を隠さなかった。 「先輩たちは持っていた食い物を部屋の中に投げ入れたと聞きました」 「ほんの一時だけだが中に入ったのだ。喰いものは匂わなかった」 「保存食は匂いを飛ばしますからね」  出先で匂いを嗅ぎつけられぬよう、燻し肉や干し果実はなるべく匂いを飛ばす。とはいえ、若狼が老いたもののいう通りに見よう見真似で作ったものだ。 「カイやルウが作るものより匂いは強いはずだ。だが、感じられなかった。中は雌どもの匂いが濃かったから、紛れたのかもしれぬ。」 「では……子狼たちは、喰らうことができたのでしょうか」 「そう思いたいが、分からん。雌どもが喰らったかもしれん」  唸るような低い声に、シグマ七席は紫の目を驚きに見開いた。 「子狼に食わさずに? そんなことが……」 「あの様子ではな。そうなっているのかも知れん」 「では、急ぎましょう」  連れだって館に入り、重しの置かれた扉の前に立つ。すると白銅の銀鼠は、怪訝そうに眉を寄せた。 「どうしました?」 「どういうことだ? ……先ほどと違う」  扉向こうに在った燃えるように激しい気配は消え失せ、代わりに悲しみの気配が扉越しに滲んでくる。 「雌どもが静かになっていると?」 「そうだ。だが油断させ、飛び出そうと狙っているのかもしれぬ」  押し開こうとしても開ききらぬようシグマ七席が扉に体重をかけて重しもかけたまま、白銅の銀鼠は用心して少しずつ扉を開く。もし隙間から飛び出ようとしても、大柄な白銅の銀鼠なら体で押し返せる。  しかし飛び込んでくるものはいなかった。やはり先程までとは明らかに違う。  さらに開いたあわいから中を覗き込んだ白銅の銀鼠は、眉を寄せ、息を呑む。  狂乱に満ちて、必死に子の扉を破ろうとしていた先程と、全く違っていたのだ。  子狼を抱えて頭を垂らすもの。力を失ったように床に(くずお)れ、咽び泣いているもの。ただ茫然と(うずくま)っているもの。乳房を絞るようにして幼狼に乳を飲ませようとしているものもいる。  一匹の雌が、視線だけで扉を見て、呆然と声を漏らす。 「ああ、ベータ……」 「……ベータ……?」  次々顔を上げた雌どもが、囁くような声で訴えてくる。 「どうして……?」 「ねえ、どうしたら……?」 「この子……どうしたらいい?」 「食い物を……この子に」 「ああ、どうしたら」 「おねがい」  戸惑いつつ、白銅の銀鼠は声を励まし、告げる。 「落ち着くのだ。先ほどシグマが投げ入れたという食い物はあるか」  食いものの匂いはしないが、濃い雌どもの匂いに紛れているのかもしれないと思い、問うたが、雌どもはなにを言っているか分からないようだった。 「ひと先ず私の分を与えましょう」 「足りるだろうか」  子狼に喰らわせるべく、二匹は手分けして手持ちの食い物を雌たちに配ったのだった。   ◆   ◇   ◆   漆黒の人狼は、多くの人狼の気配が集まる方向を目指し、森を駆け抜けていた。  近づくにつれ分かって来る。集まっている過半の気配は、とても弱い。彼の知る成獣たちは、もっと強大な気配を纏っていた。 「残酷なものだな。精霊の加護が無いというのは」 「まったくだな! うちの成獣とは桁違いだ」 「こんな程度なら、俺らだけで蹴散らせるんじゃねぇの?」  つまりこの弱い気配はこの郷の人狼のものと断定した。  無自覚に黄金の郷を見下しているが、彼らは成獣になって冬が明けきってすらいない。ついこの間まで若狼だったのだ。匂いや気配でを人狼を判別できるほど郷の人狼を覚えていなかった。 「だが、これからは、この俺が最も強大になる」  アルファになるということは、それだけ強大な精霊の加護を得られるということ。強いからアルファになるのではなく、アルファだから強いのだ。  彼は自らアルファとなると放言していた若狼の頃から、そのように考えていた。
/99ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加