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産まれてすぐの幼狼はひと形で、産んだ雌の乳を飲んで育つ。三月も経てば狼の形となり、生肉や果実などを喰らうことができるようになる。だが燻し肉や木の実や甲虫などは硬いので、そのままでは食えず、噛み砕いたものを口移しで与えなければならない。
今は冬、子狼が産まれる季節である。出産が遅くて未だ乳を飲むしかできない、ひと形のままの幼狼もいるのだ。
そこで白銅の銀鼠は、狩った肉や採取したもののうち柔らかいものを幼狼と共にいる雌へ与えるよう、老いたものどもに指示していた。成獣はしばらく喰らわなくとも問題ないし、少し育った子狼や若狼であれば、硬いものであろうと噛み砕けるからだ。さらに今の状態で老いたものどもが失われてしまうと困るので、きちんと喰らうよう指示していた。
若狼や老いたものが喰らった後、食い物が少しでも残れば、成獣は喰らわずに干したり燻したりして保存用に加工した。とはいえ慣れぬものしかいないため、お世辞にもおいしいとは言えなかったし、量も少ししか作れなかった。
雌ども以外の成獣はベータ四席とシグマ七匹、イプシロンとその番のみ。成獣は念のため保存食を携帯していたが、シグマやベータ四席が持っていたのは、どれも幼狼には硬いものばかりだった。
部屋に入った菫の白蜜と白銅の銀鼠が、濃い雌の匂いに辟易しながらよく確認すれば、部屋の隅には子狼たちが丸くなっていた。どれも弱々しい気配で、呼吸も細い。
そして床には食い散らかされた硬い食いものが散らばって、噛み砕いて口移しなどしていないことが明らかだった。さらに水差しは倒れ、水気など微塵も無く乾いていた。
先ほどシグマたちが放り込んだという食い物は雌どもが喰らったと見るべきだろう。
白銅の銀鼠は無自覚に、唸るような低い声を漏らしていた。
「おまえたち、幼きものに与えず自ら喰らったのか」
「分からない! 分からないんですっ」
「早くいかねばと、それだけ」
「それだけしか、考えなくて」
雌どもは悲痛な声を上げている。
なにを言うかと怒りが膨らんだけれど必死に抑え、白銅の銀鼠は問いを重ねる。
「老いたものが渡していた肉は、果実は、喰らわせていたのだろうな」
雌どもの部屋には、幼狼にも食べやすい柔らかい部位を優先的に渡していた。万が一にも幼いものを飢えさせぬよう、たっぷりと多めに。
だが雌どもは露わに狼狽える。
「え……っ でも」
「分からない……っ」
錯乱気味の雌が抱きしめている幼狼を、菫の白蜜が無理矢理覗き込んで呟いた。
「いいから幼狼を離しなさい。見えません」
そして息を呑み、チラリと白銅の銀鼠を見る。
「虫の息です。……こちらの子は」
少々乱暴に他の雌の腕の中も確認し、白銅の銀鼠に視線を向ける。
「幼狼が危ない。すぐに喰らわせないと。ああ水を飲ませるのが先か……汲んできます!」
転がっていた水差しを掴み、部屋を駆け出た菫の白蜜を見送ることもできず、白銅の銀鼠は食いしばった歯の間から声を出す。
「せめて乳を飲ませよ」
「出ないんですっ!」
「出ないの……っ!」
「飲ませてないからでしょ」
かつて白銅の銀鼠の子を産んだ雌が、疲弊しきった表情で呟いた。
「乳を吸わせないで夜三つ過ぎると出なくなるの。ついさっきまで幼狼放り投げてたくせに、急に泣いてるんじゃないわよ」
「放り投げて、……だと?」
愕然と問う白銅の銀鼠に、雌は苦く笑いかけた。
「食いものが来たら、みんな争うみたいに喰らって子狼に分けたりなんてしてないし、水すら与えてなかったよ。ここに閉じ込められてからずっと、みんなおかしかった」
アルファたちが郷を離れてから、四つ目の夜が過ぎていた。その間、幼狼たちは飲まず食わずだったと聞いて、全身の毛が逆立つ。
「つまり幼狼は! なにも喰らっていないというのか!」
思わず覇気をぶつけていたが、怒りは雌どもに向けたものでは無かった。白銅の銀鼠は自らに向けて激しく怒っていたのだ。
―――郷と残るものを任されたというのに! 我はなにをしていたのか!
その勢いのまま、彼の子を産んだ雌を見据える。
「なぜ! それを知って見過ごしていたのだ!」
「見過ごすもんか! でもみんなおかしくて、聞く耳持ってなかったし、あたしだって飲まず食わずだよ?」
半ば泣いているような叫びに、白銅の銀鼠は虚を突かれた。
「おかしかった、みんな! 壁を破れば行けるとか、シグマを屠れば行けるとか、訳の分かんないことばっかり口走って、まともなのあたしだけだし! なんとかうちの子の分は確保したけど、他の子になんて無理!」
「水を持ってきました!」
菫の白蜜が駆け戻り、雌の抱えている幼狼に呑ませようとした。しかし雌が離そうとしないので指にとり、口元に水を垂らす。くちが僅かに動いたように見え、さらに水を垂らした。
「あ、あたしもやるよ」
正気を保っていた雌が言い、幼狼を抱えたままの雌に近づいていくが、これではらちが明かない。
「幼狼を離してください!」
言っても聞かずに、かえって幼狼を守るように背を丸める雌に業を煮やした菫の白蜜は、尾の近くにある急所を突いて幼狼を奪うと、正気らしい雌に預けた。
「水を飲ませてください」
そして愕然としたままの白銅の銀鼠にも声をかけた。
「あなたも! シグマたちか老いたものを呼んで! 早くしないと失われてしまう!」
ハッとして駆けていく大柄な番を見送ることもせず、菫の白蜜は作業を続ける。
残されたものを守るのだと、生真面目に心を尽くしていた白銅の銀鼠の心が、いかに痛みを感じているか分かる。けれど今はこうするしかない。身体を動かす方が、きっと彼は楽になる。
そう自分に言い聞かせ、一匹でも幼狼を救おうと次の雌の急所を突いた。
◆ ◇ ◆
漆黒の人狼が、初めて唯一愛しく思える相手を感知した時は、激しく混乱した。
番とは生涯一匹だけの特別な存在と聞いていた。共に在り、子を成すのだと。それが雄とは、どういうことか。
混乱のまま彼を産んだオメガに相談すると、にっこり笑って安心しろと言われた。
「おかしい事じゃない。雄が番であるものが、アルファとオメガになるんだよ。オレもそうだった」
若狼だった彼は、それを聞いて安堵するより先に高揚した。
―――そうか、これはアルファたる資格があるということ。
つまり次のアルファは自分。アルファとなれば、あの愛しい白茶の若狼は我がオメガとなるのか。
とはいえ、いつ自分の代になるのかが分からない。代替わりがどんなものかも分からないし、彼の親であるアルファが衰えているようにも見えない。
いつまで待てば、番と共に在れるのだろう。
その葛藤をオメガにこぼした時、オメガは大きな手で頭の毛を撫でながら、いつも通り優しく笑んだ。
「精霊に従えば良いんだよ。深く考えちゃだめ」
考えるなと言われても考えてしまった。
動悸が早まったり感覚が鋭敏になったり身体が火照ったり、そんな異変は無視できるものではない。それに最初は番である白茶の若狼の姿を見た時だけ感じていたが、徐々に気配を感じただけでも、匂いを感じただけでも起こるようになってきたのだ。
耐えきれずとうとう、白茶の若狼に「おまえこそ我が番だ」と告げれば、緑の瞳を潤ませた彼に「わたしも思っていた」と返事をもらって有頂天になった。
「今すぐにでも共に在りたいんだ、おまえと!」
「……それは私だって! ……けど番えるのは成獣になってからでしょ?」
「オレは次の冬成人するが、おまえは冬三つ後だぞ! そんなに待てるか!」
駄々をこねてしまったな、と思い出す。
納得するしかないと分かっていても、すべてを吐き出せるのは番だけだから、ついつい甘えてしまって困らせた。
酷くもどかしかった。一刻も早く共に在りたいと、そればかり考えていたのだ。
そしてもうすぐ成人の儀を迎える頃。噂を聞いた。
水の道が暴れてシグマの森も流された郷がある。
それはもう精霊に見放されている。
人狼の森とは言えない。
ではそこの獣は? 草木は? 人狼が治めずに、森はどうなる?
その森に、新たなアルファが必要なのでは?
―――新たなアルファ。俺がそれに成れば。我が森とすれば。番を連れて行けば。
共に治めることができる。冬三つ待たずとも良いのだ。
さらに考えは進んだ。
精霊に言祝がれるアルファとなれば、そして精霊に願えば、我が番も早く成獣になる?
そうだ、アルファにはオメガが必要だ。ならば願いは通るのでは?
―――もっと早く番える!
心は逸った。しかしその時は一つ目の水の道すら渡れなかった。まだ若狼だったからだ。
噂によれば、我がものとなるべき郷を探るため、探りだけでなく狩りと、あまつさえ語り部なんかがこの郷へ向かったという。我がものとなるべき森をチラリとも見ることすら叶わないのに、シグマごときが入ったことは、彼を酷く苛立たせた。
番たる白茶の若狼に「焦らなくてもずっとそばにいるよ」と慰められていなければ、一匹で我が森を飛び出していただろう。
それでも彼なりに準備をした。
アルファとなるにしても従える人狼が必要だ。無能な他郷の人狼など頼りにならぬと、共に成人の儀を越えた仲間に、自分がアルファとなった時ともに来いと誘うなどした。
だというのに周りは理解しようとせずバカにされた。なかなか思うように運ばないことに焦れたが、なんとか耐えた。
実現するときを今か今かと待って……挙句の果てに忌々しいカイ筆頭に煩わされ、苛立ちは最高潮だった……。
―――だが耐えた甲斐はあった!
それは今叶うのだ!
この森の無能なアルファを叩きのめせば、今すぐに愛しい番と共に在れる!
―――急に頭の中を覆っていた靄が晴れたような感じがした。
そして、視線の先に見えたものに驚愕した。
彼の親たる偉大なアルファ。
それが欠けた耳を隠すこともなく、農茶の体躯を地べたに伸ばしている。
少し離れてオメガが倒れ伏し、咽び泣いている。
よくよく見れば、その周囲にも偉大な人狼であったはずの皆が、倒れ伏している。
―――どういうことだ?
そして、ひときわ雄大な覇気を放つ、金色の毛を持つ人狼に怖れを感じた。
―――どういうことだ!?
漆黒の人狼はただ怖れ、そこから逃げることしか考えられなくなった。
彼について来た仲間のことなど意識に無く、気付けば走ってきた道を全速で駆けていた。
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