9.此処彼処 here and there

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 戻ろうと駆け出したが、なぜか来た道のりが分からなくなっていた。  漆黒の人狼は焦りつつ、水の匂いがする方へ走ろうと考えた。なのに、なぜか匂いが薄い。成人の儀を越えてはっきりと感じ取れるようになったはずの匂いが曖昧にしか感じられないのだ。それにも焦りを覚え、混乱しながら駆ける足は最初の勢いを失い、速度が落ちていた。 「おい、どうした!」 「急に方向変えて!」  追い付いたものどもが、声をかけて来る。彼と共に成人したばかり、彼について郷を出る決意をしたものども、彼らもやはり混乱している。  従うと、そう決めた漆黒の人狼の、気配も覇気も感じ取れないことに。 「挑むんじゃなかったのか!?」 「あの森のアルファに、おいっ!」 「とまれ! 答えろよっ!」 「うるさいっ!」  怖れで肌をそそけさせる漆黒の人狼は、足を止めることなどできずに走りながら怒鳴り返す。 「はぁ? なんだよ!」 「ちょ、どこに向かって?」  ―――匂いが、分からない。  ―――気配も、おぼつかない。  ―――まるで若狼だった頃のように―――分からなくなっているのに!  ―――どうしてそんな、どうでもいい事ばかり!  怖れは、この場から逃れたいと思わせた。  怒りは、彼の足を速める力となった。  ―――とにかくここから逃げたい。逃げて元の人狼の感覚を取り戻したい。 「おい、ちょっと」 「は、速すぎ……」 「ちょっ……待っ……」  声が遠くなっていく。  彼らはついて来れないのだ。  ―――若狼だった頃から、一番足が速かった。     ついて来れないあいつらを置いてきぼりにして、番の元に行っていた…… 「……戻らないと」  愛しい白茶の若狼。可愛い番の元に戻りたい。けど、どこにいるのか分からない。  それでもじっとしていられなくて、無我夢中で樹間を駆け行く。  番を想えば、その匂いが鼻腔の奥に残っているような気がして、駆ける足に力が戻る。  ―――そうだ、番の元に、行かないと。  そう思えば、闇雲に走るだけではダメだと自らに言い聞かせることができた。僅かであっても水の匂いがするような気がしたら、そちらへ向かって足を速める。  それに匂いも、少し分かるようになっている気がした。番を想うことが力を取り戻させたのだと思えば、愛しい気持ちで張り裂けそうになりつつ、それでも早く白茶の若狼の元へ行くのだと、その一心で感覚を最大限に働かせる。  そうして少し冷静になれた漆黒の人狼は、そこで気づいた。共に成獣となった連中も早くなっていたし匂いも気配も感じ取る力が強くなっていた、はずだ。なのについて来ていない。  ―――てことは……! あいつらも?  ―――若狼になっちまってるのか!? 俺だけじゃないのかよ!! 「なんでだよ!? どういうことだよっ!?」  またも怒りに囚われそうになりながら、それでも愛しいものの元へと、冷静さを失うことなく駆け進む。樹間を縫うように駆ける姿は、はた目から見れば飛んでいるかのように見えるほど速い。  それは確かに人狼の駆ける姿だったが、漆黒の人狼にその自覚はない。  水の匂いを追って駆けていくと、やがて少し先にたくさんの気配を感じ取る。  知っている人狼の気配……、と思い、いや狼か? 違うのか? と焦る。  それでも愛しい若狼のいる方向以外に走ることはできない。そのまま駆け進めば、やがて何匹もの姿が見えた。それは確かに知っている人狼の姿、のように見えた。  けれど…… 「なんだ、あれ」  あるものは涎をダラダラと垂らし、呆けたように佇んで。あるものは狂ったようにそこらを駆け回り。あるものは樹を登っては飛び降りてを繰り返し。あるものは……  ―――嘘だろ? 小鹿を喰らってる、だと?  幼きものを貪るは、見たことのある毛の色と体つきだった。確かに知っている人狼に見える……だが、なにかが違う。  食い散らかされんとする小鹿の、虚ろな目が彼を見た、ような気がした。親鹿とは違う、無垢な瞳が光を失っていく。  人狼は幼生を狩らないのだ。小鹿を貪る人狼などいるわけが無い。なのに…… 「なんで……ああっ」  混乱する思考はまとまりを得ないまま、他のやつまで小鹿に噛り付きはじめたのを目にして、思わず声を上げていた。 「やめろっ! 小鹿を喰らうな!」  最初に噛り付いていたやつに飛びかかって爪を振るう。獣を狩るときのように躊躇なく振った腕は、そいつの目の上を裂き、血飛沫を飛ばしながらそいつは背中から無様に倒れて転がる。  しかし他の奴らは傷ついた仲間を気にする様子も無く、漆黒の人狼に気付いても、小鹿に噛り付くことを止めない。  ―――あんな、血抜きも皮剥ぎもせずに齧り付くなんて……人狼がすることじゃ  胸の(うち)で、嫌な拍動が高まる。興奮でも高揚でもない、不穏さしかない心臓の動き。 「やめろ! やめろぉー!」  気付けば、吠えながら爪を足を牙を振り回していた。  やつらはみな、信じられないほど簡単に倒れていく。  特に親しくしていたものはいない。けれど幼い頃より見知った顔ばかり。なのに知性を感じさせない目はどんよりと濁り、だらしなく開いた口吻からはダラダラと涎が垂れ、舌が牙の間からダラリのぞいている、それは見知った人狼の姿ではない。 「本当に、獣、みたい、じゃねぇかよっ!」  よたよたと襲い掛かって来るそいつらを、怒鳴りながらぶち倒す。連中の動きは単調で、攻撃してきても、避けようと思うまでもなく当たらないし、彼の攻撃は面白いほどヒットするが、倒しても倒してもヨロヨロと立ち上がり襲い来る。  ほとんど傷を受けないで済んでいるが、怖れが彼を支配し始める。  彼らの牙や爪に傷つけられたなら、  ―――あいつらと同じになるんじゃ  ゾワッと背筋を走る凍えた感覚に、瞬時動きが鈍る。  そこを狙って汚れた牙が、彼の喉笛を狙い――― 「なに、してんっ……だよっ!」  共に成獣となった中の一匹が、その輩を弾き飛ばしていた。ようやく彼に追いついたのだ。 「えっ、なんなの……っ」 「どういうこと……!?」  他のみなも混乱気味の声と気配を隠さずに、それでもみな、奴らをぶち倒した。けれど一瞬でも足を止めれば、動きにスキがあれば、狂った連中が容赦なく襲ってくる。 「やめろーっ!」  漆黒の人狼も、狂った狼を殴り、蹴り飛ばした。  飛ばされた狼は、人狼とは思えぬ獣のような声を上げつつ地に落ちるが、すぐに起き上がって襲ってくる。倒しても倒しても……キリがない。  共に成獣となった仲間が、やがて一匹、また一匹と、地に倒され、寄ってたかって噛みつかれた。必死に急所を守っても、違う奴が牙を剥く。 「やめろ! 正気になれ! なんでこんなこと……っ!」  唐突に、上に乗ってていた狼が弾き飛ばされた。  キャウン、と獣のような声を上げたのは、彼に襲い掛かっていた狼だけでは無かった。  瞬く間に連中を弾き飛ばし、踏みつけたり頭部を殴ったりして制圧しいた、それは見知らぬ二匹の人狼だった。 「まったく、この忙しいときに」  あっというまに狼どもを制圧した二匹は、背筋が泡立つほど強大な気配を纏っていた。 「深き森の奴らだな」 「面倒ばかり起こしやがる」  狼どもから解放された漆黒の人狼たちは、気づけばみなで固まって、声を返すこともできずに、二匹から距離を取るべく後ずさっていた。 「おまえたち正気なんだな?」 「若僧ばかりじゃねえか。とっとと出て行け」  匂いも気配も姿も、全く知らない、そして確実に彼らより強い、人狼。  その覇気に触れ、背中の毛がそそけ立っているのは漆黒の人狼だけでは無い。二匹から目を離すことができずに、じりじりと後ずさる様に、怖れを感じているのが自分だけではないと分かった。 「いっ、行こう」 「いくって、どこに」 「どこって」  くちぐちに言うが、何が起こってこうなっているのか分からないまま、怖れだけを感じている若き人狼どもはジリジリとしか動けないでいた。 「早く行かないか!」  吠える声と共に覇気をぶつけられ、飛び上がらんばかりの勢いでその場から駆け去る。  誰が最初に走ったか、分からない。  震えてまろびそうになる脚に気付くことすらできずに、その場から走り去っていた。  ―――なんだ、なんだ、あれは  ―――この郷の人狼は、弱っていたんじゃ  ―――すっげぇ強いじゃねえか!  若き人狼どもは惑いも露わに駆けた。どの方向なのかもわからないまま、やみくもにひたすらまっすぐ。見慣れぬ樹々の間をすり抜け、倒木があれば飛び越えて。すると急に寒さが増した。  気のせいではない。横殴りの強い風に細かい雪が入り混じっていて周りが見えなくなり、雪の匂いしかしない。 「なっ、なんだよっ!」 「どうなってんだよっ!」  鼻や目を直撃され、視覚も嗅覚も奪われながら、彼らは互いを見失わないように声を出しつつ駆け続けた。もはやまっすぐ進んでいるかも分からない。  けれど足を止める方が怖かった。   ◆   ◇   ◆ 「さぁーてっと、そろそろ行こうかねぇ」  カイ筆頭は、いつも通り呑気な声で言うと、ニヤニヤしながらカイ二席を見た。 「でぇ、おまえどうするー?」 「どう……?」  きょとんと首をかしげる二席の頭をわしわし撫でながら、筆頭は顔を覗き込む。 「オレと一緒に来るかぁ?」 「行く」  瞬時の迷いもなく答えた二席に、筆頭は苦笑する。 「おまえさぁ、行く先分かってねぇ~だろぉ?」 「いくさき?」 「そぉーだぁよ。オレはぁ、この郷のカイなんだぞぉ」 「……え」  どういうこと? という問いを、二席の表情から読み取った筆頭は、珍しく笑みの無い緑の瞳を、二席の琥珀の眼差しに合わせた。 「この郷の人狼になるかぁ? それともぉ……戻る?」 「……もどる……?」 「そお、オレと一緒? それともぉ……」  緑の瞳は、その奥にいつになく深い輝きを湛えている。 「あの、シグマとぉ、一緒がいいかぁ?」 「シグマ」  琥珀の瞳は一瞬も揺らがずに、彼の上位だった人狼をまっすぐ見つめていた。  あまりにも速攻で返され、筆頭は苦笑をこぼす。 「おまえ~ぇ、迷いなさすぎぃ~。そぉんなにあのシグマがいい~ぃかねぇ?」 「おれ、シグマと、一緒」 「ははっ」  愉快そうに笑い声をあげた小柄な農茶の人狼は、うんうんとなんどもうなずく。 「ん~、まあそ~うかなぁ~とは思ってたけどもぉ……ちょーいっと寂しいかもなぁ。それに……これから、あの郷、だぁいぶ厳しくなんぞぉ? ここの方が、楽しぃく暮らせんぞぉ?」 「シグマ、いないと、だめ」  まっすぐ見返す琥珀の瞳を覗き込み、カイ筆頭はポンポンと頭を軽く叩いた。 「そ~かぁ~、ん~、じゃぁ~、急いで行けぇ~。寒の戻りが来るつうからなぁ」 「……かんの……?」 「ものすんごぉーく寒くて子狼なんか凍るんだと。まぁお前なら凍りはしねぇだろーけどもぉ、分かってんなら避けた方がイイしょお?」  はて、と琥珀の瞳を瞬かせた砂灰の人狼は、それでも迷いなく答えた。 「ん。行く」 「おお~、元気でなぁ~」  くるりと踵を返し、迷いなく水の道へと進むかつての下位を、農茶の筆頭は動かずに見送る。 「もう逢えねぇだろぉーてのに、すこぉしはオレのこと気にしてもイイんじゃぁねーかな~ぁ。まぁ~、あいつらしぃけども」  細めた緑の眼差しには、僅かに寂し気な光が宿っていた。
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