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桜の頃に
開け放たれた窓から桜の花弁が真っ白いシーツの上に転がってきた。君の小さな小さな手が不器用にそれを握りしめ、まだお母さんのおっぱいしか知らない柔らかな唇へとそれを運んだ。
初めての味。
初めての感触。
君は驚いて泣き出した。
「あらあら、美味しくなかったねえ。ほら、泣き止んで、お友達がどうしたのって言ってるよ」
お母さんの優しい手が僕を引き寄せて抱き上げた。ベッドの上には小さくてふわふわしててモコモコ動く君がいた。
「初めまして、あっくん。僕はクマのミー君だよ。よろしくね」
そう言ってお母さんが僕を紹介してくれた時、君はつぶらな瞳で不思議そうに僕を見つめ、小さな手を伸ばして僕の手をぎゅうっと握りしめて笑った。
これが僕たちの出会いだった。
その時僕は思った。この世界に一番美しいものがあるとするならば、それはきっとこの笑顔に違いない。
僕はずっとずっと君を守ってあげるんだ。可愛い可愛いあっくんの笑顔を。
それから僕はずっとあっくんの傍にいた。あっくんからはあったかいミルクの匂いがした。
何回目かの桜の頃、あっくんは幼稚園生になった。
そこであっくんはフミちゃんと言う女の子に初めての恋をした。あっくんは勇気を振り絞ってフミちゃんに告白した。
「フミちゃん、僕のお嫁さんになって」
「え〜!先生〜あっくんが気持ち悪いこと言った〜」
途端にフミちゃんは泣き出して先生の所へ走って行った。
恥ずかしくて悲しくて、その夜あっくんが泣いて僕を抱きしめてくれた。あっくんの涙と鼻水はしょっぱかった。
でも僕は幸せだった。
小学生になったあっくんにまた好きな女の子が出来た。今度は遠くからそっと見ていたら、一度も話す事が出来ずにその子は転校して行った。あっくんは泣きながら僕を抱きしめてくれた。
僕は幸せだった。
中学生になった時、あっくんは親友の男の子を好きになった。あっくんは悩んで悩んでそれでも好きだとあらん限りの勇気を振り絞って彼に伝えた。
それなのに…。
「お前ホモなの?気持ち悪い!」
あっくんは恋と同時に親友も失った。この頃あっくんは泣く事が多くなった。僕は泣きながら眠ってしまったあっくんに寄り添って慰めた。
僕は幸せだった。
高校になって、ようやくあっくんにも春が来た。好きになった同じ部活の男の子と両思いになった。
「聞いて、ミー君、僕、恋人が出来たんだ。その子のことが大好きで、その子も僕が好きなんだって」
そう言って幸せそうに僕を抱きしめてキスをしてくれた。
僕は死ぬほど幸せだった。
けれど胸のどこかがチリリと傷んだ。
でも…。
花が散るのは早かった。
「オレ、本当は女の子が好きなんだ。ごめん」
そう言ってその男の子はあっくんを振った。
それから大学に入って社会人になって、あっくんは何度も何度も苦しい恋をして沢山泣いた。僕はその度にあっくんの傍でずっと慰めた。
あっくんの恋にはむずかしい事がたくさんある。
あっくん、いつかあっくんを一番大切に思ってくれる人がきっと現れる。だから悲しまないで…。
そしてあっくんが三十歳になった時、あっくんの部屋に大きな熊がやってきた。
「君を誰よりも愛してるよ。君を何よりも大切にするよ」
あっくんの耳元で熊はそう囁いて二人は何度もキスを交わし抱き合った。
あっくんはその熊にぞっこんになって、やがて二人で一緒に暮らす事になった。
ああ、あっくんは今幸せなんだ。僕は嬉しい。
そしてある日、あっくんはその熊と一緒に住むと言ってこの部屋を出て行った。僕はベッドの上に取り残された。
でも僕は幸せだった。
だって、やっとあっくんが幸せになれたんだもの。
僕は幸せだった。
—しあわせだった—
本当に?
桜の花びらが散っていた。あの日僕らが出会った時のような麗らかな日だった。
あっくんは泣きながら部屋に戻ってきた。
どうしたの?
どうしたの?
僕が慰めてあげるから。
鋭く閃光が閃いて、あっくんは細いナイフで手首を切った。真っ赤な血飛沫が僕の身体や顔に降りかかった。あっくんの血は悲しい悲しい味がした。
あっくんは二股かけられた挙句、熊に捨てられたのだ。あんなにあっくんを愛していると言っていたのに。あっくんがあんなに一生懸命愛した人だったのに。
お母さんが叫んで、お父さんが慌てて救急車を呼んで、死にたかったあっくんは惨めに一命を取り留めた。
酷い、酷い、酷いよね。
僕が幸せにしたいと願った人がこんなに不幸になっていくなんて。
血まみれの部屋は片付けられて、傷心のあっくんは持ち物全てを捨てた。まるで今までの人生を捨て去るように。
僕は裏の段ボールの上に汚れたまま捨てられた。
ああ、もうあっくんに僕は必要ないんだ。今こそ慰めてあげたいのに。
今こそ…!
桜の花びらが舞っていた。これが何回目かなんて覚えていないけど、花びらはボロボロの僕の上に降り積もる。
ああ、僕はこうして朽ちていくのか。
そう思った時、僕の隣に髪の長い白髪の老婆が立っている事に気がついた。木の杖をつき、腰の曲がった老婆だった。
「お前はもうすぐ朽ちる。だが主人を思うお前の気持ちに報いて、二つのうちどちらか一つだけ願いを叶えてやろう」
きっとこれは神様だ。ぬいぐるみの神様だ。訳もなく僕はそう思った。老婆は僕の額に手を置いてこう告げた。
「よくお聞き、チャンスは一度きりだ。
一つはご主人を守れるような凛々しい人間の男に生まれ変わる事。
そしてもう一つは、今のお前と同じぬいぐるみのクマに生まれ変わる事。
さあ、間違えないように答えるんだよ」
僕は即答した。
—僕はクマになりたい—
老婆は信じられないという顔をして聞き返した。
「本当に?本当にぬいぐるみのクマでいいのかい?人間の男ならあの子の恋人にだってなれるのに?」
神様、僕は人間の男じゃなく、クマになってまたあの子の傍に寄り添っていてあげたいんです。
「変わってるねえ」
桜吹雪がドォっと吹いて、目の前が霞んだ瞬間、老婆はその言葉を残して忽然と消えていた。
明るい日差しが僕を包んでいる。僕は頭がぼんやりとして、相変わらず身体は汚れたままだった。
僕はもう生まれ変わったの?
「ミー君、ミー君!」
遠くで声がする。
酷く懐かしい声だ。
「ごめんね。ごめんねミー君」
その人は、ゴミの中からふわりと僕を抱き上げた。
「ごめんねミー君。もう僕は君を捨てたりしない」
この人は誰だろう…。泣き顔がとても美しい。この人は一体誰だろう?
その人はポロポロ泣きながら、力いっぱい僕を抱きしめてくれた。
その腕の中は暖かくて、その温もりが何故だかとても懐かしくて、その人の涙はしょっぱかったけど、でも僕は…。
—とても幸せだった—
fin.
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