シミ一つないマグカップ

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 私はリビングからベランダに出て下界を見下ろした。時刻は午前五時十分。今日で八月になるが、早朝の屋外は丁度良い気温だ。  国道が通っている。福山運輸のトラックが次々と走り去って行く。ベランダにあるプラスチックの白い椅子に腰かけた。同じ色で同じ素材の丸テーブルの上で珈琲を淹れる。毎朝習慣にしている。  ブルーマウンテンの豆をミルで砕く。ドリッパーを使ってお気に入りのティファニーのマグカップに珈琲を抽出する。この空色のマグカップは旦那と一緒に買ったものだ。旦那が定年退職して子供二人も無事独立したため、自分たちのご褒美として一つずつ購入した。だが旦那は同じ年に心筋梗塞でこの世を去った。  旦那は一度もマグカップを使うことなく急逝した。旦那が使うはずだったシミ一つ付いていない綺麗なマグカップは、食器棚の中で放置されている。私はなぜか自分が使う方のカップしか使っていない。使う人がいないのだから綺麗な方も使えば良いのだが。  なぜだろうか。寂しいからかな。茶渋を着けたら旦那がいなくなったことを実感するからか。  私は七十五歳になって、久々の一人暮らしとなった。寂しさを紛らわせるためか、仕事を始めた。ココナラというサイトで子育ての相談を受ける仕事だ。私の自慢は息子が東大に入学して娘が慶應の医学部に入ったことだ。子育てには自信がある。私のホーム画面にも、実績として子供たちの学歴を記載してある。そのお陰か、仕事は少しずつ依頼されるようになった。  今日も一人、十三時からズームで相談の予定がある。ブルーマウンテンの酸味とコクと苦味のバランスが取れた風味を味わい、トラックの音を聞きながら、前以て知らされた相談内容を思い出す。 「中学生の息子が学校で虐められているようです。親としてどう対処すれば良いのでしょうか」  また一口珈琲を飲み、ゆっくり息を吐く。
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