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 八月十八日、金曜日。  月明かりがアスファルト照らす夜。せっかくの金曜日だっていうのに、俺はどこにも立ち寄らず帰路についていた。途方もなく疲れていたんだ。とにかく家に帰りたい。寝たい。  大学を出てから、新卒で入った企業に勤めてもう五年。今回、俺がリーダーを務めるプロジェクトは炎上していた。原因は元をたどれば取引先からの急な仕様変更。だが下請けの俺たちには文句を言う権限などない。営業が首を縦に振ってしまったのだから。無理なスケジュール、無理な人員で仕様変更に対応して――あぁ、いや、仕事のことを考えるのはよそう。せっかくの週末。少なくとも明日から二日間は仕事から開放されるわけなのだから。  斉藤(サイトウ)(アキラ)。それが俺の名前。職業はシステムエンジニア。多分。多分というのは俺の業務内容がもはや迷子になっているからで――いや、だから仕事のことを考えるのはやめよう。大学進学と共に上京し、現在はアパートで一人暮らしをしている。休日にもなればインドア派の俺は家から出ることはなく、ただただ布団で転がったり、パソコンでゲームに勤しんだりとだらだらした生活を送る日々だ。先ほども述べたが今日は疲れた。さっさとシャワー浴びて寝ちまおう。  そんなことを思いながらアパートの二階へ上がる階段を登って、突き当りをそのまま右へ。その先の角部屋、二〇一号室が俺の部屋。なのだが。  隣の部屋。二〇二号室の扉の前になにか、小動物のようなものが丸まっている。――否。これはたしか隣の部屋の仲良し夫婦の娘だ。ここの一家はとても人が良いのを覚えている。引っ越してきたときにはこのご時世にも関わらずわざわざ引っ越し蕎麦を持ってくるような、それはそれは律儀な一家だ。その律儀な一家の娘が、こんな遅い時間にどうしてこんなところで蹲っているのか?  こういうときはどうすればいいのか、俺は知らなかった。きっと普段なら見て見ぬふりして家に帰っていたかもしれない。だが、この日の俺は疲れていた。だからだろうか。ふと、この娘さんの笑顔を思い出した。向日葵が咲いたような、明るくて、けれど簡単に折れてしまいそうな繊細さのある笑顔。隣に住んでいるのだから、見かけたことは一度や二度ではない。母親と買い物に出かけるところ、あるいは父親と散歩に出かけるとき、またあるいは家族三人で。この娘は人見知りをしないらしく、俺にもその笑顔を向けてくれたこともあった。そして俺は何故かその笑顔が失われていることを残念に思った。だから、声をかけた。 「……あの、隣の斉藤だけど。……どうした?」  絞り出すようにして出てきた言葉を自分の中で反覆する。言っておいて何だこの第一声は。ぶっきらぼうにも程がある。しかも物理的に距離が遠い。ほら案の定、目の前の少女は俯いたまま動かないし、一言も答えを発しないじゃないか……。にしても無視するような子ではないはずだし。  ……もしかして、この子、弱ってる?  何となくそう思った。だから、なるべく近くに寄ってしゃがみ込み、顔を覗くようにしてもう一度声を掛けた。 「……大丈夫?」  すると、どうやら彼女は俺を認識していなかったらしい。ようやくハッとして俺の方を見る。その顔は涙ぐんでいて、夏とはいえ少し肌寒かったのだろう。肩が震えている。どうした。 「……お腹空いた」  目の前の少女の訴えは、まず空腹であった。もしかしたら、家庭の事情があるのかもしれない。だが少なくとも俺にはしつけで締め出すような家庭には見えなかったし、そもそもいつも一緒にいた父母どちらの姿も見えない。今、彼女はこんな遅い時間に独りきりなのだ。それにあの笑顔が失われていたことが、俺には悲しかった。だから俺は、彼女をひとまず匿うべきだと判断した。事情なんて後で聞けばいい。 「とりあえず、うちに来な。食うものならあるから」  そうして、俺は隣の家の娘を我が家にご招待したわけだ。食うものならあるという言葉に反応したのか、彼女はゆっくりと立ち上がり涙を手でぬぐいながら俺の後についてきた。さらりとブロンドの長髪が揺れる。たしか彼女はハーフだったか。膝程の丈のノースリーブの白いワンピースからは華奢な腕が伸びている。  そこで思い出す。そういや、前に掃除したのいつだっけ。……黙って彼女より先に部屋の中へ進み、雑多な物やらゴミやらをとりあえず退けた。ちゃぶ台が姿を現す。それから彼女を部屋に招き入れた。  「散らかっていて悪いな。ほら、そこで待ってな」  彼女をちゃぶ台の前に座らせる。その顔を見れば、涙は止まったものの先ほど泣いていたからか顔は若干赤く、俯いている。彼女はまだ話せるほど心の余裕がないようで、黙ったままちゃぶ台に着き膝を曲げて三角座りになると、腕を膝の上にのせてまた顔をうずめてしまった。   俺はすぐさま袋ラーメンを茹で始めた。本当は彼女の様子が気になって仕方なかったが、キッチンに立つと彼女に背を向けることになってしまったので様子を伺うことができない。ただラーメンを茹でるぐつぐつという音だけが聞こえる室内。こんなとき、気の利いた話の1つでも出来ればよかったのだが、生憎と俺はそういったスキルを持ち合わせていなかった。どう話を切り出そう、そもそも事情を聞くべきだろうか。そんなことを考えているうちにラーメンは完成してしまっていた。  どんぶり2つ。完成したラーメンを盛り付けて、海苔とハムを添えてみた。ちょっとした心遣いのつもりだ。両の手にひとつずつどんぶりを持って、彼女の方に振り返る。すると彼女は顔を上げていた。赤かった顔もすっかりいつも通りの顔色で、俺の持つどんぶりを凝視していた。彼女の前にラーメンを置くその間もずっとどんぶりを見ていた。……珍しいのだろうか。俺は彼女の正面に座り自分のラーメンを置いて、溜息を吐いてから声をかけた。 「……たいしたもんじゃないけど、ほら、食べな」  彼女は行儀よく両手を合わせて「いただきます」と呟いてから、ラーメンに手を付け始めた。俺も自分の分を食べようかと箸を手に取ったところで、驚くことに彼女から声をかけてきた。 「これ、美味しいです。いつものラーメンと違うけど、おいしい。ありがとうございます」  彼女は俺の顔を見てからペコリとお辞儀をした。そして彼女が顔を上げたとき、少しだけ、少しだけだが、いつも見かけるときのような明るい表情を取り戻しているような気がした。 「ど、どういたしまして」  俺はぶっきらぼうにそう返すことしかできなかった。彼女の礼儀正しさにも驚いたのもあったが、俺の行いが彼女の元気に繋がったのだと思うと嬉しくて照れくさくなってしまったのだ。 そしてそのまま、お互い無言でラーメンを食べた。しばらくしてスープまで飲み干し綺麗に完食した彼女は、またも行儀よく両手をあわせて「ごちそうさまでした」と言った。俺も食べ終えたところだった。いよいよ彼女に事情を聞かなければならない。どうやって切り出そうかと言葉を選んでいると、彼女のほうから話を始めた。 「あの、実は家の鍵を忘れちゃって…… 学校から帰ったら丁度お父さんとお母さんがいなくて、待っていれば帰ってくるかなって思ってたんですけど…… いつまで経っても帰って来なくって、お腹空いてきちゃうし、お父さんとお母さんのことも心配なのに、家に入れなくて…… とにかく、困ってたんです。助けてくれて、ありがとうございました」  そして深々とお辞儀をする彼女。自分で話しながら思い出してしまったのか、また表情は暗くなってしまった。 「お礼なんていいよ。お隣さんだし、困ったときはお互い様だよ。それで、えーっと……」  君はこの後どうするつもりなのかと聞こうとして気が付く。俺は彼女の名前を覚えていないじゃないか。何て呼べばいいんだろう。 「……ごめん、名前、なんだっけ」  そう投げかけられた彼女はきょとんとして困ったように笑いながら答えた。 「りゅーこです。そういえば直接お話したことってあんまりなかったですね。お隣さんなのに」  りゅーこ。そういえば彼女の母親がそう呼んでいたことを思い出す。隣の玄関先から聞こえる声を聞いていたはずだ。ありふれた普通の家庭の日常的な会話に過ぎないと言ってしまえばそうだが、彼女の母親が「りゅーこ」と呼ぶ声には悪意めいたものは感じられず、むしろ愛情を持っていることは明らかだった。彼女の家庭環境は悪くないはず。 「お父さんとお母さんには連絡してみた?」  俺の質問を聞いてすぐ、りゅーこちゃんはポケットからスマートフォンを取り出して操作を始めた。どうやら連絡が来ていないか確認をしていたようで、すぐに目線をそらした。 「何度もメッセージ送ってるし、電話もかけてみたんです。でも、反応はないし、電話も出てくれないんです」 「それは困ったな。何もないといいが……」  事故にでも巻き込まれたのだろうかと悪い想像をしてしまうが、すぐに頭の中から追い出す。うっかり顔に出てりゅーこちゃんを不安にさせたくなかった。それに家の鍵が無いと言っていた。 「お家の鍵、忘れちゃったんだっけ。帰れそう?」  どこかに予備が隠してあるとか。そう続けるもりゅーこちゃんは首を振った。 「うち、予備とかそういうのないんです」  こりゃ困った。家に帰るのはおそらく無理だろう。だがこんな夜遅く、子ども独り放っておくわけにもいかない。でも俺の部屋に泊めるのそれはそれでまずいような。 「流石にこんな夜だし、外で独りってわけにはいかないよ。友だちの家に泊めてもらうのは?」  友だち。その言葉に反応したのかりゅーこちゃんの身体が固まった。泳いでいた目線が俯いていく。 「そんなに仲良い友だち、いなくて......」  そんなまさか。人見知りをせず、あんなに明るい笑顔を見せる彼女からは想像もつかない。むしろクラスの中心で沢山の友だちを巻き込んで遊ぶようなタイプだと思っていた。 「わたし、ハーフなんです。ブロンドの髪ってやっぱり目立つみたいで……」  りゅーこちゃんのブロンドの髪。俺はあまり気にしていなかったが、年頃の子どもたちには物珍しいのだろうか。気がつくと俺はりゅーこちゃんの言葉を遮って 「じゃ、俺の部屋に泊まるか」  と口走っていた。  傍から見れば事案だ。俺みたいな三十路手前の、身だしなみに頓着のないだらしない奴が家に未成年の女の子を泊めるというのだから。けれど。俺は心の中で言い訳をする。彼女には行く宛がない。アパートの隣人同士、困ったときはお互い様だ。それ以上でもそれ以下でもない。決してやましいことなどないのだと。  しかし、りゅーこちゃんは驚いた表情で固まっていた。そりゃこんな汚い野郎の家になんて泊まりたくないよな。年頃の女の子だし。 「いいんですか……?」  ジト目で聞いてくる。だが、ここで挙動不審になっていては後ろめたい事があるみたいじゃないか。俺はあえて堂々とした口調で主張した。 「お隣同士、困ったときはお互い様だよ」  ……どうだろう。りゅーこちゃんの表情をじっと観察する。するとりゅーこちゃんは意外なことに少し照れた様子で。 「なんだか、お泊り会みたいですね」  そう言って、笑って見せてくれたのだ。 「初めてです。旅行で家族と外泊することはあっても、友だちの家でお泊り会とかしたことなかったんです。ぜひよろしくお願いします。サイトウさん」  彼女が笑ってくれてよかった。彼女の笑顔を見て、やましいこと云々と悩んでいたのが馬鹿らしくなった。そうだ。これは友だちの家でのお泊り会の延長線に過ぎない。ならば彼女におもてなしをしなければ。初めてのお泊り会が楽しいものになるように。……安否不明の家族のことで不安にならないように。そして願わくば彼女の向日葵のような可憐な笑顔を俺に向けてくれたらいい。
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