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「まったくあの女め。いい加減なことを言いおって」
伊佐田十兵衛は苦々しげにそう言うと、いっそう足を早めた。
夕陽も落ちつつあり、これ以上遅くなると真っ暗な中を提灯も持たずに進むことになる。足元は辛うじて草木が生えていない踏み固められた一本筋が続いているが、両脇は丈の高い木々が増えてきている。
いかに大小を腰に差した侍といえど、ここで夜を迎えたくはない。
「何がこの道を真っ直ぐいけば、大通りに出ますだ。ただの獣道ではないか」
十兵衛はまた愚痴をこぼした。
藩内の田畑検分のためにこの田舎まで足をのばしたはいいが、案内人の庄屋が途中でやたら道に迷ったせいで帰りが予定よりはるかに遅くなったのがケチのつけ始めだった。庄屋の家の老婆がこの帰り道を教えてくれたのだが、歩けども歩けども、大通りには出ない。
「こんなことなら提灯を借りて……」
独り言を言いかけたところで、十兵衛はふいに人の気配を感じた。
こんな人気のない草原のなかで、人の気配。
十兵衛は腰の刀に手を当てたまま、ゆっくりと視線を左右にむける。
突然、草の波がわかれ、一人の女が姿を現した。
驚いたような顔で十兵衛を見ている。
肌が白く美しい女だったが、着ている着物や髪飾りはひどく粗末なものだった。
盗賊でも出るかと思っていたところで、現れた女の姿に気のぬけた十兵衛はいくらか軽い口調で聞いた。
「こんなところで何をしておる?」
女はしずしずと頭をさげた。
「野草を摘んでおりました。夕餉の足しにと」
よく見れば女の手には、いくらかの野草があった。
「そ、そうか」
十兵衛は言葉に困った。
普段なら軽々しく口をきく相手ではないが、暗くなりつつある獣道をこのまま一人で歩くのは少し心もとない。おまけに相手はかなりの美女だ。
「お主、どこまでいくつもりだ?」
「すぐそこに家があります」
「では途中までは道連れであるな」
十兵衛は女と連れ立って歩き出した。
「お主、こんなところで一人暮らしではあるまい。家族と一緒か」
「弟と二人でございます」
これほどの美人でも嫁の行き先がないのか。よほど後ろ暗いものでもあるのか。まさか盗賊の忘れ形見でもあるまい。
そんなことを考えながら十兵衛は歩いていると、ふいに女が足を止めた。
道はまだまだ続いている。
「どうした?」
「あの、そこが家ですので」
女が指差した先にあったのは、焚き木を錐状により集めて互いに立てかけあったようなものだった。焚き木にしては木がやけに太く大きいが、少なくとも家の形にはなっていない。
「あ、あれが家?」
「……はい」
女の答えに、十兵衛はもう一度まじまじとそれを見た。
いったいあの中に、弟と二人で暮らすことのできる空間などあるのか。いや、そもそもなぜちゃんとした家に住んでいないのだ。いったい何をやって食べているのか。聞きたいことはたくさんあったが、なんと声をかけていいのか十兵衛には分からなかった。
「あの、私はここで」
女はしずしずと頭を下げた。
「あ、ああ」
呆然と見送る十兵衛の前で、女は身をかがめるとそれの中に入っていった。
何かの冗談かとも思ったが中から声が聞こえるところからすると、どうやら住んでいるというのは本当らしい。
十兵衛はなんと言っていいか分からず、また歩き出そうとして、その瞬間気づいた。
家は一軒ではなかった。
今、女が入っていったような木を寄せ集めたものが、そこら中にあった。よく見れば中から煙が立ち上ったり、人の話し声が聞こえる。
草原の草木にあまりに溶け込んでいたせいで、気づかなかった。
「こ、ここはいったい? いや、それよりも……」
この者たちはいったい……?
上役たちはここの者たちのことを知っているのか?
なぜこんな貧しい、いや、貧しいという言葉ではくくれないような底辺の生活をしているのか?
十兵衛は田畑の検分役という仕事柄、領内の事情はほとんど知っている。
だがここのことは知らなかった。
「あの……」
先程の女が顔を出した。
「な、なんだ?」
「松明ならありますけど」
「え?」
十兵衛は周りが暗くなりつつあることに気づいた。
「あ、ああ。頼む」
女は細い棒っきれを差し出した。先が割れており、松ヤニの塊が差し込まれている。
火をつけると、明るく熱い炎が燃え上がった。
「では、道中お気をつけて」
「礼をいう」
十兵衛は歩き出した。
女の白い肌と、美しくもどこか諦めたような顔が脳裏から離れない。
それどころか歩けば歩くほど、女のことを思っている自分に気づき驚いた。
十兵衛は振り返った。
煮炊きの煙、話し声、他人に松明を貸す心持ち。
貧しくも、確かに人々の営みがそこにはあるのだ。
十兵衛は、また自分がこの道を戻ってくることを心のどこかで確信していた。
fin
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