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伏せた視線によく磨かれた革のつま先が入り込む。距離の近さにギョッとした瞬間、伸びてきた手に頬をすくい上げられた。
「……っ」
見開いた両目に整った顔が映る。森の奥深くでこんこんと湧き出る泉のような色をした虹彩にくぎ付けになった。
至近距離から見つめられ、いや応なしに鼓動が加速していく。お願いだからもう少し離れてほしい。
「お、お戯れを、皇太子殿下」
「〝アル〟だ」
更に距離を詰められ、顔が真っ赤になりなにも考えらなくなった。
「アル! わかったから離れて!」
思わず叫んだら、彼が満足そうに微笑んで離れた。
もしかして、またからかわれたの?
暴れる心臓をなだめていると、アルがすたすたとソファーに戻り、どしんと腰を落とした。
「今日の昼は?」
「はい?」
「昼飯は決まっているのか?」
「夏野菜と手打ち麺ですわ」
「悪くないな」
口角を持ち上げたアルが不敵に微笑む。
「犬小屋が完成するまでの間、またよろしくな」
目を見張ってその場に静止していると、玄関の方からにぎやかな声が聞こえてくる。ジャン達が戻ってきたのだ。
熱い中作業に勤しんでくれた彼らに早く食事を出してあげなければ。
リリィは大きく息を吐きだすと、顔を上げた。
「わかりました、アル。ここにいらっしゃる間は〝前と同じように〟させていただきますわ」
「ああ、よろしくな、リリィ」
目を細めた彼の足元で茶色い尻尾がふさふさと揺れる。
呼びに来たマノンに食事の人数がひとり増えることを伝え、自分も昼食準備に取りかかることにした。
さて、腕によりをかけて作りますわよ。
だれが来ようと、自分がすることは変わらない。せっかく手に入れたこの暮らしを満喫するだけだ。
リリィは袖をまくり上げながら、キッチンへと向かった。
【おわり】
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