1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
親不孝な親孝行
私の居場所は、1Kのアパートにあった。
決して、3階建ての一軒家にあった、広い方の居室ではない。
そこにいた人は、あたたかかった。
「狭いアパートでごめんね」と、申し訳なさそうに私の髪を撫でた。安いシャンプーで少しごわついた、私の髪を撫でる手は綺麗じゃなかった。たとえ高いシャンプーを使わせてくれても、ちっとも興味を持たないどころかたまに、「良いもの使ってるのに臭いわね」と笑うような人ではなかった。
あの家にいたくなかった。
それだけで、「じゃあうちにおいで」と呼んでくれた人が、どれだけ優しいのかはわからない。どこにも行く宛がなくて、迷子とすら呼べない私に、手を差し伸べてくれた。決して、私に向かって振り上げられることのないその手のあたたかさに、私は何ができるだろう。
「一緒にいて、ご飯をしっかり食べて、勉強したり遊んだり、好きなことをしながら大きくなったら良いのよ」
優しい人はそう言ってくれた。
世の中の母と呼べる人は、こういう人なんだろうか。もちろん、そんなことで恩返しをできるなんて思ってない。私は、役に立ちたかった。けれど私は、何にも知らなかった。母と呼べたら、と思う人のために、役立つ方法をまるでわかっていなかった。
「あの人が、役立たずって言ってた意味が、今ならよくわかる」
そんなどうしようもない私に、家事の仕方を教えてくれた優しい人。
役に立つための方法を知るために、結局手を患わせてしまったことが申し訳なくて落ちこむ私を、抱き締めてくれた温かい人。返しきれない恩が溢れてしまうから、背中を撫でられる心地よさに困って、私はまた泣いてしまう。
「優しい子ね、あなたは」
違うんだよって、言うのが正解だと思いながら言えなかった。
違うんだよ。私を救ってくれた恩に、私が応えたいだけ。返しきれない自分の無能さに、泣いてしまうだけ。全部自分のことばかりなんだよって言いたくて、けれど、このあたたかい人がなんて言うかわかるから、何も言えなかった。
その日は夢を見た。昔を思い出す夢だった。
小さい頃の私が、友だちと遊ぶ約束をして、遊びに行っていいかをあの人に聞いていた。そんなこと聞いたって、あの人はため息をついて「ダメ」とだけ言うのに。……ほら、言った。なんでかなんて教えてくれなくて、大きくなった今ならただの意地悪だってわかるけど、当時は悲しかった。私が、いい子じゃなかったからだって、悲しいのと悔しいのと友だちに申し訳ないのとでわんわん泣いた。
起きてからあの日、泣いた後に日記にそのことを書いていたのを思い出した。あの人はそれすら勝手に読んで、「嫌味なことを書く嫌なやつ」「生意気、親に対してなんてことを」と、長いお説教を受けた。日記はその日のうちに捨てた。
挙げ句、「そんなに反抗したいなら勝手にすれば」と罵られた。まるで自分がとんでもない悪行をしようとしていて、この人が止めたのに言うことを聞かないどうしようもない奴なんだと思わされた。あの日、友だちには謝って、行けないと伝えた。
「日記?私も書いてるわ。あなたが来てから書くようになったの」
優しい人があたたかい手で、日記を見せてくれた。
私が来た日のこと、私のために頑張っていること、優しい人には夢があること。優しい言葉ばかりが並んでいて、あたたかい手が選んだのだとよくわかった。優しい人の夢にはお金がかかるから、私と狭いアパートで暮らしていることを、申し訳なさそうにも書いてあった。私が大人で、お金さえ手に入れられたら、私も役に立てるのに。
「それじゃあ、今日も遅くなるからご飯を食べて、先に寝ておいてね」
私が母と呼びたいその人は、いつも申し訳なさそうに仕事に出掛けていく。
寂しい思いをさせてごめんねと、伝える表情はいつも悲しそうだ。どうしてそんな顔をするのか私にはわからなかった。必ず帰ってきてくれるのだから寂しくはないし、お仕事をしてもらわなきゃ私もこの人も困ってしまうのだから、むしろ私が頭を下げてお願いする立場ですらあるのに。そんな顔で謝らなきゃいけないのは、私の方だというのに。
優しい人を見送って、私は家事のルーティンをこなす。
すぐに終わってしまうので、その後は何をするでもなくテレビをつける。よく知らない有名人のバラエティに、聞き慣れない言葉のニュース。時間を潰すのは特に苦ではなかった。いつもは右から左へ聞き流すそれに、気になるものがあった。
「おそらくは、保険金目当ての殺人でしょうね……」
ニュースキャスターが、大きな金額の話をしていたのでリモコンをいじる手が止まった。保険金、というのは人が死ぬと入ってくるお金なのだそうだ。じっと食い入るように私は画面を見つめ、ニュースを真剣に聞く。
「保険?うん、入ってるわよ。大事なあなたに何かあったら、困るものね」
保険というのは、事故や事件でケガをしたり、亡くなったりした人にお金が入るものらしい。結局、上手くニュースを理解できなかった私は優しい人にそう教えてもらった。また申し訳なさに肩が重かったけれど、ようやく一縷の希望が見えた心地だった。
私に何かあったら、この人にお金が入る。子どもでもお金が手に入れられる。
これが私の成すべきことだと、私は信じていた。
……。
私は、長い夢を見た。
あの人の家にいる夢。いたくもないのに、夢だと分かっているのに逃げられない夢だった。お母さん、って、必死に呼んでも叫んでも、あの人は決して振り返ってくれない。走って追いかけているのに、足は宙を蹴るばかりで全然進めない。焦りばかりで泣きそうになっていた。
いくらすがったって、あの人は冷たい言葉しかくれなかった。
「気が利かない、役に立たない。何の取り柄もない癖に」そう言われ続けたから、私はそういうものだった。空想に逃げるばかりの、出来損ないだった。
「生まれてきて、ごめんなさい」
そう言って泣いたって、泣いて何の意味があるのって私を責め続ける人だった。
紙の縁で指を切ったとき、滲んでくる赤い球を絞り出して、じっと眺めていたことがある。日記のページに垂れて、慌ててティッシュで拭ったりしていた。そのうちに傷は増えて、それを眺めていることも多くなった。
傷がバレるのが怖くて、けれどいつか気づかれて、そのときには心配をしてもらえるんじゃないかなんて、希望を持ったりもしていた。けれどやっぱり期待したものなんてなくて、私は「弱くてごめんなさい」なんて謝るしかなかったのだけれど。
きっとあの人は、私みたいなのはほしくなかったのだろう。
じゃあ何のために私は私なのか、わからなくて、優しいあたたかいあの手も思い出せずに夢の中で泣いていた。目が覚めたとき、私の目の前には白いものがたくさんあった。
「無事でよかった、本当によかった」
涙とか鼻水とかでぐっちゃぐちゃになった優しい人を見て、ようやく現実だと気がついた。そして、まだ自分が生きていることにガッカリもした。どうやらアパートの2階から落ちたくらいでは、人は死ねないらしかった。私は、白い病室にいた。
そんなことも知らなかった私は、包帯の巻かれたズキズキと痛む頭を押さえながらごめんなさい、と言うほかなかった。
優しい人は私のせいで、保険で貰うよりもたくさんのお金を払わせてしまったらしい。何度謝っても取り返しのつかないことをしてしまい、私は一緒になって泣いた。
「いいの、無事でいてくれた。それだけでもう十分だから」
苦しそうな息をしながら、言葉にならない声の狭間で聞き取れたのは、そんな言葉だった。あとは全部ぐちゃぐちゃで、ただお互いぴったりくっついて、泣きわめくしかできなかった。なんで私がそんなことをしたのかとか、全然聞かずにただ、無事でよかったと、あたたかい手は変わらず私を撫でてくれた。こんなにも優しいのに、命をかけるくらいのことをしなければ恩を返せないのに、どうしてそれすらできないのかと私も泣いた。
「次は絶対、上手くやるから」
必ず、あなたの優しさに応えてみせるから。
最初のコメントを投稿しよう!