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「……いいですか。くれぐれも左の道に入ってはなりませんよ」
彼女にそう言いつけられたのは、初めて会ったその日でした。
つづら姉さんは、綿毛になったタンポポのような人です。
分別がない幼いわたしですら、出会ったそのときに思ったのですから、誰が見てもそう思うような、はかなげな方だったのでしょう。
車いすに身を預け、白くて上品なお洋服で、わたしの耳にぴったり届くくらいの静かな声で喋って。
ふわふわとしていて、ふと触りたくなるような、しかし、触ってしまえばばらばらになって飛んで行ってしまうような危うさがありました。
そんなつづら姉さんですから、帰り際のその言葉は胸の奥にちくりと刺さりました。
決して大きな声だったわけではありません。それでも、刃物のように鋭かったものですから、わたしは何かいけないことをしてしまったのかもしれないと思って、考える間もなく頷きました。
「いい子ですね」
にこりと笑ったつづら姉さんは、もう怖くはありませんでした。
いえ、きっと初めから怖くなどなかったのです。ただ少し、わたしのような子どもに言いつけるために、語気が強まってしまっただけなのでしょう。
わたしは慌ててローファーを履くと、ぺこりと頭を下げて飛び出しました。この日ほど、紐靴でなくて良かったと思ったことはありません。
帰り道で、わたしは決して左に行かないよう、山道の右端に沿って早足で歩きました。買ってもらったばかりの靴が水たまりに入っても、気にしていられません。
街灯など、もちろんない道です。意地悪をするようにどんどんと沈んでいく秋のお日様に、もう少しだけ待ってくださいと必死でお願いしました。
誤って左の道に入ってしまわないようにすること……そんな小さなことだけが、その時のわたしにとっては全てだったのです。
家の灯りが見えた時、どれほど安堵したかは今でもよく覚えています。
今になって思えば、あの愚直さがつづら姉さんを救ったのかもしれません。そうでなければ、きっと聞いていたはずですから。
どうして、左の道に入ってはならないのですか? と。
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