7章【過ちて改めざる是を過ちと謂う】

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 迎えた、金曜日。  監査、最終日。……兼、山吹の誕生日でもある。  普段通りに出勤し、普段通りに業務をこなす。桃枝を除いて誰にも誕生日を明かしていない山吹は本日、周りから見て【ただの平日を過ごしている】と思われているに違いない。  実際、山吹にとってはただの日常なのだ。誕生日だからと言ってなにが起こるわけでもなく、なにかが変わるわけでもないのだから。 「ふぅっ」  仕事に区切りを付けた山吹は不意に、ポケットからスマホを取り出す。画面をタップし、山吹はメッセージアプリを起動した。  最新のメッセージは、桃枝からのもの。内容は朝の挨拶と、黒法師に対する注意喚起文だ。この三日間、毎朝見てきたメッセージと相違ない。  ……そう。山吹はまだ【桃枝からも】誕生日に関する言葉を贈られていなかった。  きっと、桃枝のことだ。そういった言葉は直接、肉声で伝えたいのだろう。容易に想定できる。山吹はもう一度だけ息を吐き、スマホをポケットに戻す。  特段、なにかを期待していたはずじゃない。それなのにスマホが──桃枝からの言葉が気になってしまうのは、なぜなのか。  まさか、期待を? すぐに、山吹は首を小さく左右に振る。  などと自問自答を繰り返すこと、数時間。気付けば事務所に、昼休憩を知らせる音が響いた。  周りの職員が次々と事務所から退出する中、山吹はいそいそと弁当箱を取り出す。無論、桃枝の分だ。  今日はまだ、桃枝と一言も話していない。これから、本日最初の言葉を交わし合うところだ。  もしも、桃枝から弁当に対する『ありがとう』よりも先に、誕生日に対する『おめでとう』を言われたら。考えるだけで、山吹の胸は不必要なほど騒ぎ始めた。  逃げ出したい気持ちは、ある。しかし、それでも山吹は足を止めなかった。 「あの、課長。今日もお弁当を──」  事務所に人がいなくなり、ついに二人きり。山吹は弁当箱を両手で持ったまま桃枝に近付き──。 「メールでデータをお送りいたしましょうか? ……あぁ、なるほど。それでは、メールをお送りできませんね」  今頃になって、桃枝が電話中だと気付いた。 「では、少々お手間をかけてしまいますがウェブにデータを貼り付けてそのURLを──ん、あぁ、すみません。今のは、忘れてください」  桃枝は電話相手に資料を送りたいらしいが、肝心の【送る方法】で難航しているらしい。 「ファックスでも構いませんか? 原本サイズはA3なので、縮小して──いえ、受信サイズはA4しかありませんよね。ですのでこちらで原本を縮小──いえ、ですから。ファックスではA3サイズをお送りできないのですよ」  どうやら電話の相手は、機械が不得意なようだ。なかなか、話が進まない。  口調は穏やかであるよう努めているが、桃枝は確実にピリピリしている。弁当箱はデスクに置き、この場を離れるのが無難だろう。そう思い立ち、山吹は弁当箱を手放すと同時に立ち去ろうとする。  だが、すぐに。 「えっ?」  空いている方の手で、桃枝から手首を握られた。  驚いた山吹は、すぐに電話中の桃枝を見る。すると意外なことに、桃枝とはすぐに目が合った。  互いの姿を認識し合うと、桃枝の口が音を出さずに動き始める。 『こ、こ、に、い、ろ』  口パクで伝えられたのは、そんな言葉。手を握られたままの山吹は、コクコクと縦に頷く。山吹からの意思表示を受け取った桃枝は、すぐに山吹から視線を外し、何事もなかった様子で電話を続けた。  想定していなかった行為と、桃枝にしては強い力。山吹の胸は突然、騒々しく鼓動を打ち始める。  これは、驚いただけ。騒ぐ鼓動にそう理由を付けてから、山吹は桃枝の横顔を眺め続けた。
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