7章【過ちて改めざる是を過ちと謂う】

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 このままでは、不在着信通知が届いてしまう。そんなギリギリの回数まで、山吹は通話に応じられなかった。 『悪い、山吹。風呂に入ってたか?』  ようやく通話に応じると、スマホからは桃枝の声が響く。普段通りの声だ。それがまた、山吹にとっては不愉快で堪らない。  ムカつく。腹立たしい。イライラする。幼稚な感情が、次から次へと山吹の理性を掻き切っていく。 「違います、寝ていました。それなのに着信音で起こされました。とても不愉快です」  こんな嘘を吐いてしまうほど、山吹の理性は働いていない。仕事を完全に放棄しているのだ。 『そうなのか? その、それは悪かったな。……そんな中で言うのもなんだが、今からメシに行くぞ。迎えに行っていいか?』  純粋で優しい桃枝は、すんなりと山吹の言葉を信じた。約束があるはずなのに寝るなんて、と。たった一言、責めもしない。  桃枝が優しければ優しいほど、山吹はより一層惨めになってしまう。スマホを力なく握ったまま、山吹はまたしても嘘を重ねた。 「食欲ないです。寝ます」 『ちょっと待て。お前、いつも寝るのは日付が変わる頃だって言ってただろ』 「今日は早寝するんです。いいから、放っておいてくださいよ」 『はっ? なんだよ? お前、なんで怒って──』 「──そんなに誰かとご飯が食べたいなら、黒法師さんと行けばいいじゃないですか」  語気を荒げていなくても、桃枝には伝わっているだろう。山吹が、腹を立てていることに。  だが、約束を破っていない桃枝には『山吹が腹を立てている』と理解できても、理由が分からない。電話先で戸惑っている様子が、その証拠だ。 『……は? なんでそこで、お前以外の奴の名前が出るんだよ』 「さぁ、なぜでしょうね」  なんて面倒くさい。これではあまりにも、格好悪い。言われなくたって、山吹には自覚があった。  早く、止めなくては。八つ当たりをやめて、今すぐ気持ちを切り替えるべきだ。そうとは、分かっている。……分かっている、はずなのに。 「仲良しのお友達なんですよね。だったら、ご飯にお誘いしたらいいじゃないですか。また当分、会えなくなるかもしれないですよ」  心にもない言葉が、つらつらと出てくる。肯定をされたらされたで、さらに拗ねると分かっているくせに。 『仲良し、って……むず痒い言葉を遣うなよ。それに、今日の先約は水蓮じゃなく──』 「──ほら、仲良しじゃないですか。その証拠に、黒法師さんのことは下の名前で呼んでいます。ボクはずっと、苗字なのに」 『下の名前? それはただ、アイツの苗字が長いだけで──』 「──ボクだって、名前より苗字の方が長いです」  ここまできて、さすがの桃枝にも伝わってしまったらしい。 『なんだよ、それ。……もしかして、ヤキモチか?』  山吹が腹を立てている理由が、黒法師関連だと。  しかし、ありえない。これが『愛ではない』と、山吹は知っている。ならば自分が、愛によって発生する【ヤキモチ】という事象を引き起こせるはずがないのだ。 「違います、そんなんじゃないです。……ただ、腹が立って仕方ないんです。ボクを好きだと言って信じさせようとしていたくせに、すぐに他の男に余所見をして。弄ばれているような気がして、不愉快なんです」 『まさか、水蓮を送ったことに腹を立てているって話か? お前も言った通り、俺と水蓮はただの友人だぞ? それのなにが不満なんだ?』 「どうぞ、黒法師さんと仲良くしてください。ボクは寝ます。一応言っておきますけど、着信音で起きたくないのでスマホの電源は切りますから」 『はッ? オイ、山吹──』  プツ、と。無機質な音が鳴ると同時に、山吹はスマホの電源を宣言通りに切った。  ただの四角い無機物の塊と成り果てたスマホを額に当てて、山吹は蹲り、呟く。 「──サイアクだ。こんなの、サイテーだよ……ッ」  今頃、桃枝は黒法師と食事にでも行ってしまったのだろうか。もしかすると今の誘いだって、三人が前提になっていたかもしれない。そんなことばかりを考えてしまう自分が、気持ち悪くて堪らなかった。  これが仮に、別の男が相手だったならば。桃枝ではない男にやられたのならば、山吹にはノーダメージだっただろう。  そのくらい、山吹にとって桃枝だけは……。 「イヤ、だ……っ。課長のこと、特別だって思いたくない……っ」  桃枝を、傷つけたくない。それでも、愛しているのならば傷つけなくては。幸せそうな両親の姿が、網膜にこびりついて離れない。  ふと、山吹は顔を上げる。視線の先にあるのは、桃枝からプレゼントされたマフラーとネクタイだ。 「いっぱい、貰ってきたじゃん。ボクはなにも、課長にあげられてないのに……。それなのに、こんなことだけでどうして……っ」  手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。  触れた分だけ、穢してしまいそうだったから。
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