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恋の始まり
「あ…… 」
ない。
いつもの、おかかと昆布のおにぎり。
売れ切れちゃったのか、仕方ない…
じゃあ、何にしようかな…
でも、冒険が出来ない俺は途方に暮れて決められない。
「いらっしゃい、何にする?」
下がった目尻と上がった口角、眩しい笑顔。
「… っと… 」
あるのは梅干しと焼たらこと、いくらだけか、どれも苦手だ。
来るのが遅かったからな。
人気だし、あっという間に売れ切れてしまうもんな。
心の中でそんな事を呟きながら、ショーケースの中の、もう数える程しかないおにぎりを見つめた。
でもこの人と会話をしたい、苦手でも買って帰ろう、そう思った時、
「はい、おかかと昆布のおにぎり」
小さな紙袋に入ったおにぎりを俺に差し出した。
「え?」
「いつも、おかかと昆布でしょ? 無くなりそうだから取っておいた」
え… っと… 。
「毎週金曜日に来てくれてるよね、いつもありがとう」
にっこりと笑顔、胸がトクトクとして頬を赤らめた。
「あ、有難うございます… う、れしい… あ、いや、助かり… いや、嬉しい、です」
何て言って良いのか分からない、突然に声を掛けられて胸が躍り上がった。
『食品衛生責任者』として、『荻本倫太朗』の札が下がっている。
おぎもとりんたろう、さんでいいのかな?
彼がとても気になる。
おにぎりも美味しいけど、彼に会うのが一番の目的の金曜日。
「… 知っていて、くれたんですか?」
少し会話を延ばしたくて、凄く、もの凄く頑張って話した。
「うん、俺、お客さんの顔を覚えるの、割と得意なんだ」
それはそれは満面の笑み。
そうか、そうだよな… 胸が躍ってしまった自分がちょっと恥ずかしくなる。
「… ありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとうね」
頭を下げてお金を払うと、少し離れた飲食も出来るフリースペースにあるテーブルの、彼が見える位置で腰を下ろす。
ボディバッグからペットボトルのお茶と文庫本を出し、読みながらおにぎりを食べた。
文庫本には目を遣っているだけ、気が付かれない様に、チラリチラリと彼を見た。
数える程しかなかったおにぎりだって、あっという間に売れ切れて片付けを始めている。
大学病院の一角。
おにぎり屋さんのスペースは、曜日ごとに店が変わり、火曜日と金曜日に彼は来ているようだ。
俺の診療は週に一回で、二ヶ月前に主治医の都合で金曜日に変わった。
それまでは水曜日、サンドイッチ屋さんが店を出していたけど、買った事はない。
おにぎりが美味しそうだったのは勿論だけど、俺の目を引いたのは彼。
診療も会計も終わって帰る時に、異様なオーラを感じて視線を流すと、満面の笑みの彼に目を奪われた。
なんて… 綺麗… いや、カッコいい…
… 素敵な人なんだ… 。
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