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チャドが店に帰ると、マーヤが露骨に機嫌を悪くしていた。カウンターの前、頬杖をついて座たままチャドを睨んでくる。
「遅かったじゃんか、チャド。あたい、待ちくたびれちまったよ」
「……ものすごくご機嫌ナナメじゃねえか。何かあったのか?」
「あったあった。朝にやってきた、男爵夫人がまた来たんだよ。やっぱり納得がいかない、もう一度わたくしの演奏を聞いてくれれば素晴らしさがわかるはずですわ!とかなんとか言ってさあ」
「ええええ……」
しつこいなあ、と呆れてしまった。男爵という階級は、貴族の中ではけして高いものではない。救世楽団に入って、公爵と同等の地位を得たいという野望を持つのはわからないことではなかった。
しかし、一度断ったのにまたやってくるとか。体制批判とも受け取れるような罵声を吐いておきながら。
「あんたは野暮用があって当面帰ってこないってあたいはちゃんと言ったんだよ?それなのにあのおばさん、ちっとも聞きやしない。帰ってくるまでここで待つとかぐだぐだ言いやがったんだ。あまりにも騒ぐもんだから、正直ご近所迷惑でさあ。あたいも困っちまって」
「それで、どうしたんだ?」
「めっちゃ怒らせて帰ってもらった。……次に来た時にはもっと怒ってるだろうけど、正直ああでもしなきゃ帰ってくれそうになかったんだから勘弁しておくれよ。本当に迷惑だったんだから」
「あー……」
鋼メンタルのマーヤがここまで言うほどだ、よっぽどやかましかったのだろう。チャドは遠い目をしたくなる。どれほど金を積まれようと、どれほど頼み込まれようと、あのオバサンを救世楽団に採用することは絶対にないと断言できる。何度来られたところで、駄目なものは駄目なのだ。が、時々、それを理解してくれない輩もいるのである。
自分に自信がある人間ほど、選ばれなかった時は選者を逆恨みするものだ。自分はけして間違ってない、選ばない奴らの目が腐ってるんだと豪語する。その乱暴な考え方と傲慢さが最も芸術に嫌われるのだと何故理解しないのやら。
「……嫌な予感がするな」
俺は店の前の通りを見ながら言った。確かに、貴族用の大型馬車の車輪痕が残っている。
「あの女、確かにフルートの腕前は全然だったが。……だからって、まったく吹けない人間ってわけじゃない。素人の前で趣味で演奏するには十分な腕ではあるだろう。……だからこそ、やべえんだよなあ」
「というと?」
「音楽と魔法は密接に絡み合ってるってこった。王様の軍隊が、どうしてみんな音楽家を兼業しているのか?音楽によって軍隊の力を強化し、逆に敵兵の力を大きく削ぐことができると知っているからなんだよな」
つまり、力ある者が音楽を奏でれば、その影響は無視できないものになるということである。
あのセシルもそう。彼の演奏を聞いて薄々察した。恐らく彼が心臓を悪くしているのは、その魔力が大きすぎてコントロールできていないからではなかろうか、と。詳しいことは、もう少し専門書で調べてみる必要があるだろうが。
「不平、不満、憎悪。そういう人間がそういう感情をこめて楽器を奏でれば、それは呪いも同然になる。……悪いことが、起きなければいいんだがな」
人、それをフラグという。
チャドがぼやいた次の瞬間だ。どごおおおおおん!と唸るような轟音が、どこからともなく響いてきたのだから。
「えっと」
マーヤが困ったように、こちらを見て言った。
「あの貴族のおばさんの馬車が消えた方向……から聞こえた気がするのは、あたいの気のせいかなあ?」
「ああああああ……」
言わんこっちゃない。チャドは頭を抱えるしかないのだった。
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