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おでこと花束
「そこはもう通った道だよ」
僕は毎日、違う道を通って帰っている。
もちろん、好きでこんなことをしているわけじゃない。全ては、今、僕の目の前でふわふわと浮いている、こいつのせいだ。
「ほら。はやく他の道を探して」
僕の顔の周りをくるくると回りながら、煽ってくる。妖精みたいなナリをしているくせに、やっていることは悪魔だ。
「あのさ、これっていつまで続くの?」
「そんなの知らないさ」
そいつは、平然とした顔で答えた。
腹が立ったので、無理やり同じ道を通ってやろうと、そいつを振り切って走り出した。
すると突然、透明な壁のようなものにぶち当たり、おでこを痛めた。小さな一粒の血が、傷跡からぷくっと膨らんだ。
「だから無理だって。同じ道は通れないの。さっさと諦めて違う道を通ることだね」
「くそ!」
どうやっても、こいつからは逃げられない。
諦めて、廃れたたばこ屋に面した道を通ることにした。店に人影はなく、しんとしている。
すたすたと足を進めながら、目の前のこいつをじっと見つめる。強い日差しが照りつけ、どこかから蝉の鳴き声が聞こえている。こいつが現れたのも、今日みたいな夏の日だった。
「そこは、昨日通った道だよ」
そいつは突然現れて、僕の道を塞いだ。
「違う道を通らないと帰れないよ」
無視して、そのまま道を進もうとした。
でも、透明な壁にぶち当たった。勘違いかと思ってもう一回進んだ。またぶち当たった。これを数十回繰り返した僕は心が折れて、その現実を受け入れることになった。
次の日から、毎回違う道を通って帰るという、不思議で、疲れの溜まる生活が始まった。
鈴の木公園を突っ切る道。
倉田荘の裏の細い路地。
赤馬商店街を通る道。
上林精肉店の道。と、その脇の道。
野良猫の溜まり場になっている駐車場の道。
全部100円の自販機が大量に並んでいる道。
白くて大きい犬を連れている、大谷さんのいつもの散歩コースの道。
いつもドアが開いていて、楽しそうな電話の声が聞こえてくるおじいさんの家のある道。
緑色のミカンがなっている庭が見える道。
夏にスイカをくれた、矢田さんの家の道。
八回も曲がらないといけない、面倒な道。
日陰の多い、猛暑日にもってこいの道。
ずっと工事の終わらない道。
素振りをしている野球少年のいる道。
肥料の匂いの広がる、田んぼ沿いの道。
大声で歌っても大丈夫な、人気のない道。
水のない、からっからの川路の道。
そんなこんなで、僕は違う道を通り続けた。
あの日から、明日でちょうど一年だ。
家に着くと、そいつは「また明日」と言って姿を消した。帰り道にだけ現れ、家に着くと消える。都合のいい、腹の立つ存在だ。
今日、たばこ屋の前の道を通りながら、僕はなんとなく気づいていた。
「もう、全部通ったよな」
おそらくこの1年間で、僕は全ての道を通った。簡単に言えば365パターンの道を通ったということ。そんなに、道の種類ってあるのか。
僕の中には、ひとつの期待があった。
これで、あいつはいなくなるんじゃないか。
あいつの存在してる理由とか意味とかは分からないけど、僕に違う道を通らせることが目的なら、それは今日で達成したということになる。考えれば考えるほど、あいつがいなくなる気がしてならなかった。この生活とも、やっとお別れできる。清々しい気持ちで、布団にくるまった。すぐに寝れたし、いい夢も見れた。
校門を出ると、そいつは当たり前のように姿を現した。
「やあ」
「なんでいるんだよ」
「さて。なんでだろうね」
僕の顔の近くを飛び回りながら、にやにや笑っている。相変わらず、腹が立つ。
「あのな。昨日で全部の道を通ったんだよ」
「いいえ、通ってませんよ」
「いいや、通った」
「いいえ、通ってません」
「通ったんだよ」
「通ってない」
「通ったっての」
「通ってないって」
「通った!」
「通ってない!」
こんな口論をしてても埒があかない。こうなったら仕方ない、強行突破だ。
「じゃあ見てろよ。証明してやる」
僕は、今までに通った道を思い出しながら、がむしゃらに走り出した。
「ちょっと!危ないよ」
当然、透明の壁にぶち当たる。
「ほら…ここは通ったな」
赤くなったおでこを見せつける。
「次はこっちだ」
違う道に向かって走り出して、また壁にぶち当たった。赤くなったおでこを見せつける。
「ここも、通ってるよな」
「そんなことやめなって。傷付くだけだよ」
「証明してやるって、言っただろ」
また走り出して、壁におでこをぶつけて、それを見せつけていく。どん。どん。どん。透明な壁に僕のおでこがぶち当たる音が繰り返し響いていく。おでこはどんどんヒリヒリと痛んでいく。血も出てる。それでも続ける。道がないことを証明するために、僕は走って、おでこを壁にぶち当て続けた。
気がつけば、暗くなっていた。
最後の気力を振り絞って、壁におでこをぶつける。どん。ほとんど感覚のなくなっているおでこを、そいつに見せつける。
「これで365…全部だ…」
「なんで、そこまでするんだよ」
「お前に消えてほしいからだよ。こんな生活、いつまでも続けられない」
つーっと、血が頬を伝って垂れてきた。
「これで分かっただろ。さっさと僕の前から消えてくれ」
そいつが、僕の目の前にふわりと飛んできた。静かに、真剣な目で見つめられる。
「いつまで逃げてるんだよ!」
急な大声に、びくっと肩が上がった。
「なんだよ…でかい声出しやがって」
「本当は分かってるんでしょ」
「な、なにがだよ」
「ついてきて」
軽やかにすーっと飛んでいくそいつの後を、仕方なくついていく。痛むおでこをさすりながら歩いていくと、景色がひらけた。
大きな交差点。強く光り続ける信号の光。騒がしい車の音。電柱。大きな看板。
ここは、学校から僕の家まで一本道になっている大通り。これが、一番、簡単な道。
「ここが、最後のひとつ」
心臓が跳ねる。呼吸が、荒くなってくる。
「こんな簡単な道を、君は明らかに避けていた。あの日から、ずっと避けてきてたんだ」
クラクションの音が鳴り響く。頭の中に、何度も何度も、あの音が鳴り響く。
「陽太と、ちゃんと向き合いなよ」
おでこから垂れていた血が、口に入った。
あの日の光景が、頭の中に鮮明に打ち付けられる。
「あそこまで競争だ。よーいスタート!」
「あ、ずるいよ兄ちゃん」
弟の陽太を置き去りにして、僕は自転車を全力でこいだ。無我夢中にこいだ。隣を抜けていく風がぬるい、とっても暑い日だった。
「はいゴール、僕の勝ち」
僕が叫んだ瞬間、後ろからけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。そして、甲高いブレーキの音。
僕は、反射的に後ろを振り向いた。一瞬、弟の黄色の自転車と、凄まじい早さのトラックが見えた。勢いよく振り向いた僕は、バランスを崩して自転車ごと倒れた。地面におでこを打って、血が出た。
立ち上がってもう一度確認すると、そこは、もうどうすることもできない光景に変わっていた。おでこから垂れた血が口に入り、その味を感じながら、僕は膝から崩れ落ちた。
「僕が、あんなことを言わなければ」
あの日と同じような血の味が、口の中に広がっている。
「分かってたんだ。全部分かってた。ずっとあの道を通るのが怖かった。だから、違う道を通って帰ってた」
顔を上げてそいつを見ると、飛び回ることなく、じっと僕を見つめていた。
「そしたら、お前が現れた。正直、嬉しかった。お前のおかげであの道を通らなくていい理由ができたから。でも、違った。お前は僕を陽太と向き合わせるための存在だったんだな」
「どうだろうね」
「なんでもいいよ。とにかく今、一年近く遠回りしたこの道を、やっと歩けそうだから」
大通りに向けて、足をゆっくりと進める。途中にある花屋で、おすすめの小さな花束を買った。ぬるい風を浴びながら、最後の道を噛み締める。
そして、陽太の轢かれた交差点に着いた。
枯れ切ったしわしわの紫色の花束がぽつんと、むなしく電柱にもたれかかっている。
「陽太。ごめんな」
さっき買った花と、しわしわの花を入れ替える。鮮やかな黄色の花が「ずるいよ兄ちゃん」と言った、最後の陽太の顔を思い出させた。
その場にしゃがんで、手を合わせる。
おでこの痛みを感じながら、5分くらい、そうしていた。
「お前は、もう消えるのか?」
「どうだろうね」
「またそれかよ。最後になるかもしれないから、一応言っておくよ」
そいつは、きょとんとしている。
「ありがとうな」
「はははっ。感謝が似合わないね」
そいつは、大笑いしながら飛び回っている。
こうなっても、まだまだ腹が立つ。
「そんなことより早く帰った方がいいんじゃない?時間も遅いし、君は血だらけだし、怪しさ満載だよ」
「まあ、それもそうだな」
ぬるい風を切りながら、その一番簡単な家への道を、思いっきり駆け抜けた。家に着くと、あいつは「じゃあね」と言って、姿を消した。
***
両手を擦りながら、校門をくぐる。白い息がほあっと出る。あいつはやっぱり、あの日から姿を見せなくなった。もう半年近く会っていない。別に寂しくなんかないはずなのに、あいつのいない帰り道は、どこか気分が上がらなかった。
いつものように下を向きながらとぼとぼと歩いていると、ずっと工事の終わらない道の工事が、ついに終わっていた。道が綺麗になり、輝かしい黒のアスファルトが光っている。
「新しい道…」
そう呟いた瞬間、頭の後ろに小さな気配を感じた。
「そう。新しい道だね」
「お、お前っ!」
そいつは昔と同じように、にやにやしながら、僕のまわりを飛び回った。
「ひょっとして、僕が新しい道を見つければ、お前は出てくるってことなのか?」
そいつは僕の目の前に止まると、にっこりと笑って、ゆっくりと言い放った。
「どうだろうね」
冷たい風が、顔に吹き付ける。おでこの傷は、もうとっくに、かさぶたになっていた。
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