―子子子子子子子子子子子子―

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 ―子子子子子子子子子子子子―

空から落ちる二人― うわあ、やばい。水面にぶつかる。俺は、咄嗟に全身全霊で水面にトランポリンになるように命令した。ドミナは当然が如く水面に優雅なる着地をする。その横で、俺は受け身をしてバカみたいにボヨンボヨン跳ねる。俺は、コークスクリューで起き上がった。ここは、湖。森から見えた大きい湖。お昼、正午くらいだろうか。湖面に立つ二人。羽ばたく鳥の群れ。俺はトランポリンの上でなんとかバランスをとる。陸地まで約百メートルの湖の上。ドミナがいたずらっぽく微笑む。 「岸までかけっこしましょうよ。さあ、いくわよ、よーいドン!」しまった―俺にドンと体当たりの一撃をくれて倒してから、ドミナは脱兎のごとくピューと走り出し駆けていくと、そのまま岸にたどり着いた。かけっこも何もあったもんじゃない。完全なる置いてきぼり。俺は、起き上がり足元を見ながら湖面を抜き足差し足で進んで行く。悪寒―水の中を何かが動いている。なんだ、これは。湖の中、足元に見える巨大な黒い物体。俺は戦慄してしまい、そのまま湖に落ちた。しまった。もがく俺に向かってその黒い物体は大きく口を開ける。鋭い牙。為す術もなく、飲み込まれる。痛い。いや、痛くない。あ、あれ、吐き出された。あらら、よく見るとお前は大魚。なんでこんなに大きいんだ。もはや巨大魚。小川で遊んだ大魚。俺の友達ではないか。ああ、お前なりの友人に対する遇し方なのか。俺は、堪らず抱きついた。喜ぶ大魚。コンコンと扉を叩くように頭を頭にノッキングしてくる。頭良いなあ、可愛いなあ、俺を覚えているんだな。マイフレンド、もう、乳首は噛むなよ、もげてしまうから。ぬめりで滑りながら大魚の背中によじ登ると、何も言わずとも大魚は岸まで運んでいく。 good job! 大魚の背中をありがとうとポンポン叩く。背中から下りて湖岸によじ登る俺をドミナは冷ややかな目でからかう。 「この不信心もの。なんで恐れたの?なんで水の上くらいしっかりと歩けないのよ?あなたのお友達がお友達で無かったなら食べられてたところね。坊や、しっかりしなさい。」 ドミナは、叱りつけながらも微笑んで腕を伸ばし、座っている俺を引っ張て立たせてくれた。簡単に言うけれど、簡単じゃない。いや、よそう。難しくしているのは、俺の頭だ。理不尽なんて思わない。もう、こうゆう常識には慣れた。油断大敵。信じられなかった俺が悪い。 「そうそう、そうやって素直に認めれば良いの。坊や、素直に勝る資質無しよ。簡単って思えば簡単。難しいと思えば難しいの。ちゃんと大切なものを固く握りしめておきなさい。」俺の手を握るドミナの手をぎゅっと強く握りしめる。にっこりするドミナ。 いてててて―ドミナの握り返す握力が強すぎて腕がもげそうになる。途端に手を放して手首を振る。痛い。河童なら手がスポンと抜けたのじゃないかしら。握力強すぎるだろう、まったくもう― 湖岸から森の中、歩き出す二人。痛みに気をとられる間もなく、空からバケツいっぱいの水を浴びる。やられた。湖を見ると大魚が尾をバンバンさせて大笑いをしている。俺もそれを見て笑った。あれれ、ドミナがまったく濡れていない。 「なんで何回も同じ手口に引っかかるの。岸にあがったら、あなたのお友達が潮を噴いてくることは分かっていたでしょう?まったくもう―」肩をすくめるドミナ。肩をすくめたいのはアトラスでもなく誰でもなくこの俺だ。なんで乗ってくれないんだろう。水をかぶらないようにバリアを張ったんだな。サイアク。俺は纏っている襤褸を絞りながらドミナの後に続いた。冷たいなあ、なにか怒らせたかしら?俺の煮え切らない態度に、まだ怒っていますか? 「怒ってなんかないわよ。イジワルだってしたくなるじゃない―」ドミナの後ろ背を拝みながら、俺はトコトコ続く。綺麗なうなじ。綺麗な背中。美味しそうな大きい桃。どんぶらこどんぶらこ。俺は、今日の失敗ではなく明日訪れるかも知れない性交に思いを馳せる。 道端には、色とりどりの咲き誇る花。甘い花を見つけた。スイカズラ。俺は、花を摘んで吸った。甘い。ドミナもスイカズラを摘んでチュウチュウ吸う。素晴らしい。数歩、歩いたところでよいものを見つけた。桑の実だ。別名ドドメ。ドドメ色の赤黒いのを摘んで食べる。甘い。美味しい。ドミナは、酸っぱいのが好きなのか。熟してない赤い桑の実を食べる。酸っぱそうな顔も美しい。森の中、ドミナのお尻を追いかけながら歩く。わざとらしくお尻を触ったらドミナが振りかえる。その目は怒っている。いや、怒っていない。 「坊や、いいかしら。あなたの家にいまから強盗がやってきて強奪に遭うとする。前もって分かるのだけれど、それは避けられそうもない。家には大切な宝物がある。あなたなら、宝物を盗まれないようにどのような工夫をするかしら?または盗まれても良いようにどんな仕掛けを施すかしら?」お尻を触ったことを怒られるのかと思いきや、強盗と宝物の話― 俺は、身軽だ。物は大切にするけれど失って嘆くようなものは何一つ持ち合わせていない。自分さえ所有していればそれでいい。それさえ奪われなければ何とでもなる。イチゴノキを捥いで食べる。うん、美味しくない。 「分かったぞ。金の腕時計の隠し場所はケツの穴だね?」 「違うわよ、asshole. 相変わらずバカね―」 竜舌蘭のとげは鋭い。違うのか。ケツの穴や膣はいい隠し場所なんだけれどなあ。口から飲み込んで胃にしまっておくのも良いのかなあ。 「まず、金銀財宝。これに宝物として、心の比重を置いてはいけない。その価値は本来、無価値に等しい。強盗は喜んで持って帰るでしょう。そんなもの、差し上げたらいいわ。ひとつの正解を教えてあげる。宝物なんて元から持たない事。所有しても盗まれても良いように堂々とポンと置いておくことよ。宝物だと強盗が認識できないもの。持って帰っても意味が分からないから捨ててしまうようなもの。これだとゴミで捨てるから、それを拾い返せば良いわ―」なんとなく分かったような分からないような、掴めそうで掴めない。 「この話には続きがあるの。強盗は、奪った宝物を捨てないの。屋敷は強奪物で満たされてそれらが強盗の立派な所有物なんだけれど、その家が三代続いて気づくの。バカも三代は続かない。祖父の形見から孫が、本物の宝物を見つけてしまうのよ―」 晦渋な話だ。カナブンを手の上で這わせて遊ぶ。小指の方から親指の方まできたら手の平を返す。カナブンは手の甲で今度は小指を目指す。到着したら手の甲を返す。こちらがやめない限り、この小さな怪獣はこの遊びにずっと付き合ってくれる。カナブンを木に帰すと川のせせらぎがきこえてきた。 「孫は、祖父さんが分捕ってきた何が書いてあるのか意味不明な巻物が宝物だと直感的に気付くの。宝の在処かなにか。この世の真理かなにか、とてつもないもの。一計を案じた孫は巻物を広く公開して一般に募るの。もちろん、これが宝物だとは言わない。そして、この宝物は誰からも宝物だと気づかれることなくいまも広く人に知られている。っていうお話―」 何が言いたいのだろう。小川まで辿りついたドミナは川面を歩いて渡った。以前と明らかに形が変わっている。俺は、螻蛄の家族をみつけて手に持って戯れる。とぶらんとぶらん可愛いなあ。あ、アメンボだ。ミミズを見つけたらパーフェクト。土掘ってみようかしら。小川を挟んでドミナに訊き返す。 「本当の宝は隠されてなくて誰でも分かるところにあるって意味なのかい?」 ドミナは反対岸の大きな石の上に腰かけて俺を待っている。そうゆうところ、好きです。 「そうゆうことよ。もう一つのアナザーストーリーは宝物を盗まれた家は、もちろん巻物がどういう意味か知っているし、暗記している。遥か遠い日を仰ぎ見る。来る日に取り戻せるようにわらべ歌や謎かけ、あらゆる書物に“カギ”を散らしておくの。ヒントとも言えるし、答えとも言えるし、問題とも言える。ただ心得無き者には“カギ”一つ一つでは、何の意味か分からない。ひとつひとつがバラバラで繋がっている。ひとつひとつが繋がってていてバラバラ。童話や童歌、謎かけ、神話が宝物の在処だなんて誰も思わない。気付いても分からない。分かっても迷うだけ。だからご先祖様は、子孫がたとえ荊や薊の道を歩み散らされようとも、たとえサソリの中に住まわされようとも、来る日には子孫が、ご先祖様が編んだ糸を解き紡ぎにやってくるっていうお話よ―」 俺は、立ち上がると無心で川面を歩く。予定だったが、そのまま小川にザブンと浸かった。なかなか上手くいかない。さっきは身の危険を感じたからできたけれど、集中力を欠いたらこれだ。俺はなにやってもダメだ。いや、悲観はやめて明るく切り替えよう。ちょうど川に入りたかったんだ。そうしよう。俺が求めたから、これは起きたんだ。小川を泳いで渡りきるとドミナがわざとらしく大きなため息をつく。 「坊や、あなたらしい。いまはそれでもいいわ。だけれども、そんなのでわたしに勝てるかしら?世界を救えるかしら?おふざけもほどほどにしなさい。」立ち上がったドミナはずぶ濡れの俺の前に立ちはだかる。表情がどことなく寂しい。ため息をつくと幸せが逃げるよと冗談も言えそうな雰囲気では無い。俺は、なんだか罪悪感に襲われ、居心地悪く口から出る言葉もなく沈黙した。ドミナは腕をからませて俺の手を握ってくる。ドミナは優しい。手を繋いで歩くふたり。無言だった。視線を少しあげると木の上にいるフクロウと目が合った。“福来朗” “不苦労”日本では、縁起がいい鳥。家族愛や兄弟愛の象徴。ある国では縁起が良い鳥。ある国では縁起が悪い鳥。幸せの鳥か不幸の鳥かはその国、地域によって様々、多種多様。どんな命も尊い。自然に敬意を払うものなら人間の好き勝手な解釈でこれが悪い、あれが害など決めてはいけない。吉兆をよむやり方として間違っている。インフィニティはみなが無条件で良いものとするが、それは勝の連鎖であって、マイナスループなら抜けられない。そして、人々は好き好んでマイナスループを選ぶ― 嗚呼、いい香り。花いっぱいの森道。紫陽花、浜茄子、銀梅花、ヤマボウシ、桔梗、薔薇、テッセン、デルフィニウム、百合―百合の象徴は“母性と純潔”“強く、優しく” “立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花”―ドミナみたい―いつから、百合が純潔の象徴となったのか―メソポタミアや古代ギリシャに於いてセックスの象徴ではなかったか―嗚呼、ドミナの手を類寄せて口づけをする。現実を直視する事は勇気がいる。嘘だらけの向こう側の真実らしきもの。虚像の中の真理―たたかいなんかしたくない―      様子がおかしい。家が進化している。ガラリとまでは言わないが大分違う。チャボが歩き回っている。羊もいる。どうすればこうなる。誰が手入れをしている。動物たちは毛並みも綺麗だし、なんなんだ。俺にとっては数時間前だがここでは何年経ったんだ。 「不思議でしょう。家に入ればあなたはもっとびっくりするわよ―」 ドミナに続いて家の中に入る。ドミナは家の奥に消えていく。何が変わっているのか、天井のプロペラ、漆喰の壁、テーブルも椅子も何も変わっていないような― 奥の部屋からドミナが一糸纏わぬ姿で現れる。手には脱いだばかりの衣服を持っている。 「坊や、あなたも脱ぎなさい。洗濯してあげる。」 俺は言われた通り纏っている襤褸を脱ぐとドミナに渡す。着替えの服の配給はないのかしら?まあ、いいか。真っ裸の俺は部屋の薄明りの中、ドミナの裸を見る。乳首の色がピンク。アンダーヘアも薄い。あれれ―あ!赤ん坊―赤ん坊はどこだ? 「ドミナ、赤ちゃんはどこなのさ?」 ドミナは不敵な笑みを浮かべる。 「ほうら、不思議でしょう?赤ん坊はいないわよ―」 啞然茫然とする。うーん―いや、それはおかしい―大魚は前よりバカでかくなっている。森の木々も前より大きい。つまり、時間は経過した筈であって―前に来た時点より過去に来たのなら、まだ意味は分かるけれど―これは一体全体―こんなことに慣れっこの俺でもざわつく。 「考えても無駄よ。そもそも時間なんて無いのだから。経過もへちまもへったくれも何もないわ。全ては同時に起こっているの―」 ノンリニア過ぎるだろう、まったくもう― 「わたしは洗濯してくるから、寝室で横になってお昼寝でもしていてちょうだい―」ドミナはそう言うと裸のまま、さっさと外に出て行った。俺は、部屋の中取り残されて一旦は奥の部屋まで行き、赤ん坊の不在をわが目で確かめた。まったく痕跡もなく何だか居心地が悪くなりどうしたものかと思案したが、横になるのも忍びなくドミナを追いかけて外に出た。 ドミナは庭先で洗濯をしていた。裸にサンダルの恰好でしゃがみ込み、甕の中に浸けた服を両手でごしごしと洗う。ドミナのスリットを覗き込もうと正面にしゃがんで甕を少し横にずらす。いいぞ、この位置は具が見える。ドミナの色素沈着の無い一筋の光を観察する。ドミナは呆れたような素振りで首を振ると鼻で笑ったのか感服したのか諦めたのか、俺にかまわず黙々と洗濯を続ける。 “俗も極めれば聖になる”俺のエロはここにおいて堂々と市民権を得た。何かの灰汁だろうか。白い汁でごしごしと洗っては絞り、真水の甕にさらしてまた絞る。絞った服を籠に移す。この動作の繰り返し。俺は、辺りを見回し、干す場所をキョロキョロと探す。 「坊や、お昼寝しなかったの?」 「うん、眠たくない。洗濯を手伝うよ、一緒にするよ。」 「あら、いい子ね。じゃあ、あの柵に干してきてちょうだい。はい―」ドミナはチャボがうろつく方を指さすと洗った服を籠ごと手渡してきた。俺は、その籠をもらうと柵まで歩き、ドミナが絞って丸めた服をバンバンと叩いてから柵に広げた。洗い終わったドミナもバンバンと叩きながら干す。足元にチャボが絡みついてきたので持ち上げて撫でる。なんで動物はこうも癒されるのか。羊の背中に乗せてやるとそこがわが巣であったが如く止まる。羊も気づいていないのかさほど気にする風でもなく、ほのぼのとした風情を醸す。羊が二匹、チャボが二羽、どちらも番かしら?のどかでいいなあ―子どもの頃、チャボを飼っていた。小学校の飼育小屋が取り壊しになる時に学校からチャボを譲って貰ったのだ。その頃、サブという名の秋田犬を飼っていて、チャボとサブは仲が良かった。チャボはサブのドッグフードを自分で水にふやかせて食べていた。賢こかった。チャボは全部で三羽いて名前は、全部“チャボ”だった。盗まれたり、車に轢かれて死んだりして気が付いたら全部いなかった。あの頃は、何でも楽しかった― 「坊やは相変わらず感傷的なのね―ねえ、あの木の陰で茣蓙でも敷いて寛がない?」ドミナの指さす先には立派なクスノキの巨樹が聳える。あの木陰で休んだら、さぞ気持ちいい事だろう。美人からのこのような提案を誰が断ろうか― 「そうしよう。茣蓙はどこだい?とってくるよ―」ドミナは両手の手の平をこちらに向けて“どうぞお構いなく”のジェスチャーをすると茣蓙を取りに小屋の奥へと消えた。 大きなクスノキを見上げる。何メートルくらいあるのだろうか。優に二十メートルはある。クスノキは英語で“camphor tree” “カンフル剤を打つ”のあれだ。クスノキの下で深呼吸すると樟脳の微かな香りがするようなしないような―子どもの頃、箪笥の匂いと言えばクスノキの樟脳かナフタリンだった。あの頃は、何でも楽しかった。俺は、無事帰れるだろうか。元の場所、元の時間に戻れるだろうか。日付と場所だけはちゃんと記憶している。 ドミナは羊の毛を編んだ布を持ってくると木の下に広げた。その羊毛の布を茣蓙替わりに、二人して寝転んだ。涼しい風―木々のざわめきも心地よい。 「いい気持ちね、坊や。最高の贅沢だわ―」目を瞑ったまま、ああとかいいだとか適当に空返事した。寝転がって空を見上げると大自然と一体になってまるで世界の中心にいるような、自然との一体感というのだろうか、なんとも言えない心地よさに包まれた。 スクリーンパネルに砂時計が現れる。ドミナが同期してきた。砂時計のピンクの砂は、上の部分から下の部分へサラサラ流れ落ちる。俺は砂時計のくびれた場所を見つめる。 「なんだい、これは?」 「上から流れる砂が未来―下に落ちる砂が過去―くびれた場所が現在。こうやって人間は、時間とは未来から流れてくるものって認識したの。捉え難いものを何とか捉えようとしたのね―」時間について考察した聖アウグスティヌスは“私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない”と述べた。時間とは基礎的なものなのに不可思議だ。アリストテレスの位相幾何学的時間論、聖オーガスティンの脳内時間論、マックタガート博士のそもそも時間など存在しない論など真面目に時間の解明をしようとした科学者や哲学者は多い。実際、時間の経過は必ずしも一定ではない。高地と低地では高地の方が時間の経過が早いし、相対性理論が予言する現象、時間の遅れもそうだ。ジャネーの法則による“生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する”というのは心理的要因の話だが実にしっくりする理論だ。確かに子どもの頃は一日が長く感じた。二十代くらいからは一日なんてあっという間だ。もはや四十を超えると一年だってあっという間だ。 「この砂時計の砂を早く落とす方法をご存知かしら?」 「それは知っている。紐で縛ってブンブン回すと早く落ちる。腕の力だと三倍くらい早い。遠心力だね。」 「そう、その通り。じゃあ、光速で回したらどうなるかしら?」 「それは速度が速くなればなるほど砂は早く落ちるだけじゃないのかい?」 「いえ、合ってるわ。その状況を思い浮かべてみて欲しいの。光速であれば、もう目で見る事はできないわ。あるはずのものが見えないのよ。時間なんてそういうものってことよ。見えてる時は無いし、見えない時は在る―」 「なんだか、よく分からないな。まものの王も言っていたんだ。“はじまりがあっておわりがあるのではない。すべてが同時に起こっている。”ドミナ、あなたもノンリニアな時間概念を持てと言う。よく分からないと言えば分からない。いや、分かってはいたんだ。あなたが説明してくれたように小説や映画、それはゲームでもいい。そこにひとつの物語があって、それぞれの人々の人生ってそのようなものなのか理解していたんだ。作り手によってはじまりも終わりも展開も些末な出来事もそれはもう作られていて、あらゆる生命はその作中に生きている。だけどさっきその考えは外れたんだ。大魚はクジラより大きくなっているし、森の木々も前より大きい。という事は、時間は経過したはずなんだ。だけども赤ん坊がいない。跡形もなく消えている。痕跡すらない。痕跡とはつまり、ドミナのおっぱいが―いや、それはつまり―分かるでしょう?それで、頭がこんがらがってそのことについて考えるのは一旦止めたんだ。いや、ひょっとしたら分かってはいるのかも知れないけれど、頭がついていけれない―」 「難しく考えすぎなのよ。いいわ、0.1秒と0.01秒は同じ1秒の中に存在する。あなたがたの地球誕生から終わりまでを秒の出来事で考えたら、はじまりも終わりも同じ1秒の中の出来事なのよ。実際、人間の世界なんてそれくらいの出来事よ。あらゆる出来事は終わっているともいえるし、はじまっていないとも言える。人間の百年、千年ってあなたが思う以上に短いし、1秒はあなたが思う以上に長いわ。人間は、特にあなたがた現代人は、目で見えるものを崇拝っていいくらい信じているけれど、あら、びっくり、目で見えるものなんて実は、そんなに無いの。電波や紫外線や赤外線、人間は見えないでしょう?いや、見ようとしないという方が正しいかしら。風や臭いや音も目で見えないけれどあるでしょう?それは色彩を多く見れるとか、そういった話ではないの。わたしからすれば視力がもっとも良いものでさえ、盲人と大差ないわ。盲人の方が見えているのかも知れない。そのことに気づいて感覚を研ぎ澄ませれば、あら、不思議―見えるのよ―」俺は、目を開けるとドミナの顔を見つめた。目を閉じた顔も美しい。やはり、あなたは美しい。 チャボを見やると羊の背中にまだ乗っていた。 「時間を流れではなく円で考えたら良く分かるわ―はじまりとおわりが同時に存在していることに気付くはずよ。―本当は球なんでけれども―いや、それは螺旋状かも知れない―A が正しい時にBが間違いではなく、AもBもどちらも正しいって事があるの。 ―ところで、坊やはバナナ型神話ってご存知かしら?」 「なんだい、それは?」 「東南アジアに多く伝わる説話よ。神が人間に対して石とバナナを示し、どちらか一つを選ぶように命ずる。すると人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選ぶ。硬く変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死になることができたのだけど、バナナを選んでしまったために、バナナは子ができると親が枯れてしまうように、バナナのように脆く腐りやすい体になって、人間は死ぬようになったってお話―」 「それがバナナ型神話かい?話は、シンプルだけれどなかなか難しい話だね。創世記の知恵の木と生命の木の話に似ている。人間は知恵の木の実を食べたから生命の木の実の永遠の命にあずかれなかった。ギリシャ神話のゼウスとプロメテウスの骨と肉にも似ている。」 「そうそう、それがバナナ型神話よ。似たようなお話は世界中にあるわ。日本神話のイワナガヒメとコノハナノサクヤビメのお話も類型かしら。坊やはこのお話の何がなかなか難しいのかしら?」 「難しい問題じゃないかい?不老不死が良いなんて思わないからさ。ずっと老いない、ずっと死なないっていうのも過酷な話だと思うけどね―」 「なるほど。確かにそうかも知れないわね―」      ”This is Sparta!!!!!” また、変な夢を見た。夢の中で夢を見る。そもそも、それが変なのだが― そのまま寝入ってしまったのか、起きると辺りはすっかり暗くなっていた。家から美味しそうな匂いがクスノキの木のところまで流れてきて、溢れている。パンの匂いと何かのスープだろうか。起き上がると柵から乾いた襤褸布を纏って家に入った。チャボはもう羊の背中から下りていた。 「あら、坊や、起きたのね。さあ、夕飯にしましょう。おかけになって―」 「いい匂い。何のスープだい?」 「メラス・ゾーモスよ。さあ、食べましょう。いただきます―」 俺はその聞いたことのない料理をもの珍しそうに眺めると、改めて匂いを嗅ぐ。血生臭い―とても良い匂いではない。ひと口、スープを飲む。―ん、なんだこれは―吐きそう、おそろしく不味い― 「あらら、そんなお顔して?せっかく作ったんだから残さず食べるのよ。」とても食えた代物じゃない―涙が出てきた。 「このメラス・ゾーモスはスパルタ料理よ。スパルタの兵士たちが戦いの前に食べるの。精がつくわ。たんとお食べ―」黒いスープに胡椒を大量にかけてパンと一緒にがむしゃらに胃に流し込む。うん、マズイ。 「スパルタ人も不味いと思って食べていたのよ。平和な時は不味い料理を食べて戦争の時は美味しい料理を食べていたの。もちろん戦いの最初の日は、スタミナ満点のこのスープ。だから、スパルタ人は戦に強いの。勝っておいしいごはんが食べたいじゃない。戦争になれば美味しいごはんが食べれるから戦になれば自然と奮起したわ。このスープは精力増強、滋養強壮と、体にとても良いのよ。ちゃんと味わって食べなさい。全部、食べたらご褒美あげるわ―」嘔吐きながらも、おかわりまでして不味いスープを平らげた。俺はタフだ。ブスが電気消せば宝物なようにマズいメシもご褒美もらえるならご馳走だろう。ご褒美とは、ここまできたらアレしかない。アレっきゃないだろう― スパルタ人は強かった。ギリシャだけでなく世界にその名を轟かせた。ペルシア戦争では大車輪の活躍で無類の強さをみせつけ、その後も何十年にも渡るペロポネソス戦争をスパルタは勝った。だが、それが良くなかった。戦勝国となったスパルタに莫大なお金が流入すると市民の間に貧富の差が生まれ、スパルタの団結力にも亀裂が生じた。土地の平等な配分,,家族制度,貴金属の使用禁止などのスパルタの美徳ともいえる制度は見事に崩壊した。失ったものは大きかった。スパルタは豊かになって悉く戦争に負けた。負けるにしても大敗した。もう、スパルタにかつての輝きは無かった。豊かになって人や国は亡ぶ―これに似た話は世界中にある。金の箸を持ったら終わりのはじまり。善も悪もない。人は同じことを繰り返す。ただ、ひたすらに繰り返す。ひたすらにひたすらに繰り返す― 「いい大人が逆上がりができるようになった事を自慢しないでしょう?でも、人々は、いくつになっても逆上がりができるようになった事を自慢したがる。どれだけお金を得ようと天国にお金は持っていけれない。どんな屈強な男もどんな美人もいずれ老いさらばえる。老いると歯は脆くなり目は霞み排泄すらもままならない。そして、その足腰の弱くなった肉体にも終わりの日が来る。終わりの日が近づくにつれて気付いてしまうの。「ああ、一体全体、人生で何をやってきたんだ。」って。でも、そうとは言わない。口が裂けても言わない。だから、残されたものたちも気付かない。」 俺は、黙って聞いていた。 「あなたは、タフね。メラス・ゾーモスを残さず平らげてしまうんだもの―」 空になったスープ皿に目を落とすとついついゲップが出た。 俺は夜目が効く。真っ暗な暗闇が好きだ。それ以上に好きなのが暗闇での焚き火。なんでこんなにワクワクするんだろう。キャンプファイヤーはいくつになっても楽しい。暗闇の中、薪を焚べて湯を沸かす。沸いた湯を木桶に移す。薪からあがった炎が顔を照らす。この仕事は楽しいぞ。毎日でもしたいくらい。 「ああ、いい気持ち。最高の贅沢だわ。坊やも早く入りなさい。」湯船に浸かったドミナが言葉を投げかけてくる。髪を上げた姿も美しい。嗚呼、やはり、あなたは美しい。 俺は、薪を焚べるのを切り上げると襤褸を脱いで湯船に浸かった。 湯船で対面に座るふたり― 見つめ合うふたり― 絡み合う足― その日の夜は、最高の夜となった。
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