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―大いなるもの―
薄暗い山を星明りだけを頼りに進んで行く。もう夜明けは近い。ドミナの作ってくれたビスケットを食べる。うん、うまい。水筒の水を飲む。うん、うまい。
『山々を越えていくと崖に突き当たる。東の地平線にドッグスターが現れる。そうしたら、崖を進んで行きなさい。心を無にして、崖から空を歩きなさい。そこにあなたを待つものがいる』
ドミナは俺にトドメを刺さなかった。俺は、生き永らえた。“宇宙の洗礼”とやらを受けて、俺は負けたのに、どうやらクリアできたらしい。
『いいわ、坊や、神様に会わせてあげる。あなたは大いなる試練を突破した―』
―あなたが神様ではないのかい?
『生憎、わたしではないの。はじまりにしておわり。この全宇宙を統べる大いなるもの―いいかしら、訊かれたことには、はっきりと、“はい”“いいえ”分からない事は分からない。質問に質問で返したりしないように、間違えてもいいからはっきり答えなさい。決して適当に答えないようにするのよ。間違っても冗談なんか言わないように。怒らせたらすべての終わりだと思いなさい。』介抱してくれるドミナ。嗚呼―やはり、あなたは美しい―
シリウス、明けの明星―地球で見る太陽より白く大きい。
愚者が、やっとここまで辿りついた。
『そう、そこから一歩踏み出すのよ。決してうしろを振り返らず、恐れずに勇気を持って、自信を持って歩きなさい』
ドミナの声が風に乗って俺に届く。崖から見下ろす景色は、まさに絶景―
俺は、崖から一歩、足を踏み出す。ドミナが俺の背中にエールを送ってくる。愛し合ったものが殺し合い、今日は励まし、支えてくる。一体、何なのかこれは―
広がる雲の中、歩き出す。輝く雲の中を一歩、一歩、歩く。少しでも疑うと、落ちる。前も後ろも右も左も深い霧のように雲ばかり。俺はただまっすぐ、歩いた。胸を張って雲の中、空を闊歩した。幻の世界に何をしに来たのか自分でもよく分かっていなかった。いま、ようやく分かる。万感の思いだ。辛く苦しく長かった。俺の旅がようやく終わる。俺は、見つけた。探し求めたものを遂に見つけた―
雲の中を進んでいくと大きな岩が目の前に現れた。岩には文字が書いてある。
“sphinx”
文字の“p i n”が光る―
“12桁のpinを入力せよ”
聞いていないよ。なんだ、暗証番号って―
脳のスクリーンパネルに数字が浮かぶ。突如、閃く。。その数字を入力する。
〔460946104611〕よし、ビンゴ。大きな岩から石板が出てくる。
“34桁のpinを入力せよ”
またかよ―34桁。分からない。頭の回路が高速で回転する。これか―
〔1973568548161361157352552133475741〕
よし、ビンゴ。数字だけの羅列でも18桁になるとハッカーはクラックするのに最短で九か月を要する。ついてる、ついてる。俺はラッキー。秒でいけたぞ。急に、真っ暗になる。真っ暗闇の中、眩しい光が当たり一面を照らす。
―嗚呼―あなたが―ついに
目の前にいる―仰ぎ見る
この方が神か―神よ
大きい―おお、神よ―
人間の三倍以上の大きさ、そして異形―
眩しい―神というのも憚る神聖な光。大いなるもの―
なにも言葉はいらない。分かる。この方こそ全知全能の神―
俺は、神を見ようとせず、ただまっすぐ前だけを見つめた。目を合わせてはいけない。もし目が合ったら死ぬ。
俺の直感が、そう教える―
『よくぞ、来た。“選ばれたもの”よ―』大きな声が轟く。
その声はまさに威厳。―俺は震えた。
「はい―」
『そんなにかしこまらなくてよい、ともよ、―』
「はい、わたしは、わたしを呼ぶ声でここまで辿りつきました。その呼ぶ声はあなたですか?」
『いかにもそうだ。お前とこうやって話すのは初めてではない。ともよ、なにも恐れることはない。お前の心臓の鼓動が早いではないか。生き急ぐことはない。深呼吸でもしてリラックスしなさい。長旅ご苦労だった。』
「はい、ありがとうございます。」
『pinは簡単だったかね?なぜ、その数字を選んだのかね?』
「突き詰めればわかりません。最初の12桁は詩篇の好きな箇所からです。つまり46章09節から11章―」
『なぜ、それが好きなのかね?』
俺は、言葉に詰まり奥歯に物が挟まったような物言いになりそうだったが、態度を改めた。ここまで来たんだ。ドミナも言ってくれた。間違えてもいいからはっきり答えよう。
「わたし自身がSNSやゲームで“かみさま”と名乗っていました。それらしい一言で詩篇46章10節を引用していたんです。何気なく神様ぽいかと思い―ただ、それが、ある日、“その詩はお前の詩だ。”という声を聞いたのです。どういう意味か分からなかったのですが、46は、(4+6=10 4×6=24) わたしの誕生日でした―また声が、9節11節もお前の詩だと言うのです。そして“46は、お前を表し、人を表し、地球を表す。すなわち宇宙を表す”そう言いました。」
『面白い。続けたまえ』
「人間は四十六の染色体を持ち、地球は四十六億年前に誕生しました。最初は、わたしの妄想、こじつけや勘違い、または、偶然だと思ったのですが、また声が、わたしを“お前は5だ” “そして、お前は10だ” “お前は選ばれたもの”だと語りかけてきたのです―数字をよくみろと言うのです。4は5のひとつ前、6は5の次の数字です。―」
『いいかね、偶然というものはない。起こることは起こる。起きないことは起きない。よろしい、続けたまえ』
「これからリセットが始まる。ゼロサムゲームが始まる。お前に世界を救ってほしいと声は言います。わたしは恐ろしくなったのですが、声が色んなことを教えてくれました。また色んなヴィジョンを見せてくれました。起きているときも話しかけてきては、寝ているときも毎日、夢に出てきました。それで、わたしは5にして10と信じるようになりました―」
『5は、お前の運命数であろう、10は、何なのかね?』
「10番目の王国、“新天新地” このことです。それは、“X”です。ローマ数字の10番目、アルファベッドの24番目の文字。これもまたわたしの誕生日です。それに4と6はペアです。同じく3と7もペア、2と8もペア、1と9もペア、ペア同士を足すと10です。 5と10は似ていますが、ペアではありません。5と10だけは特殊です。各数字を乗算していくと1の位は、このようになります。各数字の乗算で1の位を見るとペアの数字はちょうど鏡になります。各位の鏡の数字を足すと10です。
1:123456789
2:246802468
3:369258147
4:482604826
5:505050505
6:628406284
7:741852963
8:864208642
9:987654321
10:000000000
5はどんな数字でも乗算をすると1の位が5になります。ひとつの例外は1の位が0の時だけ0です。10は例外なくどんな数字でも1の位が0になります。リセット、ゼロサムゲームとはこのことかと思いました。」
『面白い。そう、10とは、リセット―それは、はじまりでありおわり―ノアは、アダムから数えて十代目。数字の本質をよく見つけた。
では、34桁の数字の根拠は?』
「 “選ばれたもの” です。η Εκλογη(ヘーエクレゲー:アイソプシー8+5+20+30+70+3+8=144)
聖書をゲマトリアで読み解くと円周率との関係がよく出てきます。円周率ではじめに144(選ばれたもの)が現れたあとの34桁を足し算した数も144です。ただ数字を入力せよでは、迷いますが34桁の指定があったので、これしかないと思いました。」
『面白い。では、お前とわたしで、ここに預言を成就しよう。
お前とわたしで、ともに歴史を刻もう。
用意はいいかね?』
『は、はい―』
『では、
なぞなぞをはじめよう―
153匹の魚とはなにかね?イクスースとはなにかね?』あれれ?朝は、4本足のあのなぞなぞではないのか―そこからか―
よし、いこう―
俺は、さそり座、
そして、さそり座とは俺のこと―
さそり座のS字の形は、日本やポリネシアなどで“釣り針”として神話や民話など様々な伝承がある。
瀬戸内海では、“うおつりぼし”や“たいつりぼし”
能登のほうでが、“つりぼし”
沖縄では、“イユチーャブシ(魚釣り星)”や“ヤキナマギー(焼野の釣針)”
これは、
“phishing”ではない、
それは、“fishing”
よし、釣り上げるぞ、
それは、ビッグフィッシュ(大物)
さあ、はじめよう、
それは、壮大なフィッシュストーリー(ほら話)
ヨハネの福音書21:11
シモン・ペトロが行って、網を地へ引き上げると、153匹の大きな魚(イクスース)でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
「153は17番目の三角数(1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16+17=153
)で、
153は神秘的で不可思議な数字です。
1!=1
2!=1×2
3!=1×2×3
4!=1×2×3×4
5!=1×2×3×4×5
1!+2!+3!+4!+5!=153
153の各位を三乗して足した数は、同じく繰り返し計算すると必ずまた153に帰結します。
(13+53+33=153)
153は三分の一の代表とも言える特別な数字です。
つまり、153だけでなく、3で割り切れる数ならどんな数字でも三乗して何度か重ねて足すと必ず153に帰結します。三乗とは、立法(同じ数・式を三度掛け合わせること)であり、すなわち、それは立方体(サイコロのように六つの正方形に囲まれた立体:1辺×1辺×1辺=立方体の体積)を表します。それは、ヨハネの黙示録にあるように天の聖都、天の城、すなわち神の国の形を表します。ピタゴラスも153を聖い数字としていました。神の子たち(ベニーハエロヒーム)のゲマトリア(2+5+10+5+1+30+5+10+40=153)は153です。ですが、ヨハネが本当に伝えたかったのは、これではありません、―これです。」
ヨハネの福音書21:6
すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった
見よ、雲の鏡がアナログ時計を浮かび上がらせる。
“数や形にはパワーがあるの。”
ありがとう、ドミナ―
1→5→3(1→5 1→3 5→3) 浮かぶ二等辺三角形―そこから1→8 5→10 10→8へと線が光になって伸びる 全部で三つの二等辺三角形―
しかと見よ、これがイクスース(魚)―
「この形です。153で浮かびあがる魚の形。
また、全部の数字を足すと1+5+3+8+10=27(3×3×3 9+9+9)
27(9+9+9)は第三位格の聖霊の象徴数です。( “聖い”ゲマトリアは27) 27は、面白い数字です。(27×5339=144153 27×5672=153144 27×5338672=144144144 27×5672339=153153153)」
『この形こそ、
はじまりにしておわり
原点にして終点―
お前は、よく見つけた。
お前を、大いに褒めよう。
27は、救い (ἄκεα:アケア アイソプシー27:1+20+5+1)を意味する。
それは、お前が示したように救われるものたちを表す。
つまり、三分の一のものは救われる。
すなわち、それは三分の一の三分の一だ。
そしてイエスの愛したマグダラのマリア、彼女はこう呼ばれていた。
(η Μαγδαληνή:イマルガリーニ)
アイソプシーは153だ。(8 + 40 + 1 + 3 + 4 + 1 + 30 + 8 + 50 + 8 = 153) 』
ゼカリヤ書13:8-9
8 主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。9 わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。
『ともよ、顔色がよくない。ここでやめるかね?』
俺は、あの日見た未来の光景を思い出していた。
「…いえ、すみません。続けます。」
『では、続けよう』
「またこの形を反転して11→7→9→2→4とすると11+7+9+2+4=33となります。33も面白い数字です。(33×4368=144144 33×4641=153153 33×4377=144441 33×4647=153351)同じように8→4→6→11→1は8+4+6+11+1=30(30×4800=144000 30×5100=153000) 2→10→12→5→7は2+10+12+5+7=36(36×4000=144000 36×4250=153000) どの形も全部の数字を足すと3の倍数(27、30、33、36)になり、どの形も3の倍数(3、6、9、12)を除く残りの数字を足すと24(8+8+8)になります。」
アナログ時計に反転したイクスース、下を向いたイクスース、上を向いたイクスースが、それぞれ次々と浮かぶ。
『ともよ、お前は二千年明かされなかったことをいまここに、解き明かしている。
お前とわたしでいま、歴史を刻んでいる。
さあ、行こう、さらなる先へ、
では、ヨハネのオプサリオンとはなにかね?』
ヨハネの福音書6:9-13
「ここに、大麦のパン五つと、魚(オプサリオン)二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」。10イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。11そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。12人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。13そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
アナログ時計がローマ数字に変わりVがXを照らす。XがIXとXIを照らし、
三つの数字が引っ付く。
IX X XI キスをした二匹の魚―
見よ、これがオプサリオン(魚)―
そして、見よ、
V、X、IX、XIが他の八つの数字を照らし、十二の数字すべてが眩く光る―
1+2+3+4+6+7+8+12=43(34の鏡の数 43=14番目の素数 約数の和は44、約数の和が回文数になる7番目の数、(4+3=7 4×3=12) 12は神が望んだ数)
「この形です。V(五つのパン)と 二匹の魚かが十二の籠を満たしました。
IX は千年王国―
X は新天新地―XIは全部のはじまり―5×9×10×11=4950 およそ五千です。十二の籠とは、このアナログ時計。それは時間。それは世界。ヨハネが教えるロゴス(言)とは数です。数こそ言語であり、全宇宙、すべては数で、できています。」
『この形は聖い。これらの数字も聖い。
お前は、よく見つけた。
お前を大いに讃えよう。
明かしされたものは、さらによく見つけるだろう。
これこそが、“鍵”
この二匹の魚が口づけをした形は、
お前を表す。
お前は、Xのひとり。Vが二つでXになる。
鳳よ、
鳳が凰とひとつになる。
それは、鳳凰、
それは、唯一無二、
物語は、そこにおわり、そこからはじまる―
続けよう。
30(IX X XI)とは、なにかね?』
「ユダ(ゲマトリ30)( IX X XI:9+10+11=30)でしょうか?」
『そうだ、ユダだ。お前は、銀貨三十枚でイエスを売り渡したユダの行いを、この銀河で正しいものとした。この聖いオプサリオン(IX X XI)の合計値がなによりの証。』
「そのユダですか?ユダはイエスを裏切ったのではないですか?」
『裏切ったのではない。イエスを救ったのだ。イエスが「成し遂げられた」のは、ユダがいたからこそではないかね?裏切ったのは残りの十一人であろう。イエスを知らないと逃げたではないか。復活の奇跡を見ても、弟子はみな、イエスに背き、各々めいめい自分が思う様に生きていたではないか。違うかね?』
「―いえ、確かにそうです。」
『それに名は、生まれた日と同じくらいに大切で重要だ。ユダ族のユダは偉大で、イスカリオテのユダは汚い裏切り者。そのような事があるであろうか?もし、そうであるならば記者はユダの名を変えたはずだ。』
「名ですか?」
『実際に、変えているではないか。ダビデの子ベエルヤダ(バアルは知る)はエルヤダ(神は知る)に変わり、サウルの子エシュバアル(バアルの人)は、イシュポシェテ(恥の人)に変わっている。』
「はい、確かにそうです。」
見よ、雲の鏡に文字が浮かぶ
“διὰ τῆς θείας φιλίας”
『“神聖な友情のために”という意味だ。数えなさい―』
διὰ τῆς θείας φιλίας(ディアテスフィリアス)
4+10+1+300+8+200+9+5+10+1+200+500+10+30+10+1+200
=1499
「1499です。」
『何か思い当たらないかね?』
「―分かりません」
見よ、雲の鏡に文字が浮かぶ
“Ἰσκαριώτην”
『イスカリオテだ。数えなさい―』
Ἰσκαριώτην(イスカテリオン)
10+200+20+1+100+10+800+300+8+50
=1499
「1499です。」
『イスカリオテと神聖な友情の為とは、数価が一緒だ。そこに何か深遠なものを感じないかね?』
「…、」
『では、これはどうだね?』
見よ、雲の鏡に文字が浮かぶ
“ἰσοψηφία”
『アイソプシーだ。数えてみなさい。』
ἰσοψηφία(アイソプセア)
10+200+70+700+8+500+10+1
=1499
「1499です。」
『謎解きの基本が、イスカリオテと同じ数価だ。お前は、啓示を受けてここまで来た。啓示(κεχρηματισμένον:ケクレーマティスメノン)も数価は1499だ。まだ、深遠を感じないかね?』
κεχρηματισμένον(ケクレーマティスメノン)
20+5+600+100+8+40+1+300+100+200+40+5+50+70+50
=1499
「いえ、すみません、感じています。思考が少し追いつかなくて―聖書にもはっきりユダが裏切り者と書いてあります。ユダがイエスを裏切ったのではないという事が、少し理解できなくて―」
『それは、“ユダ”が裏切り者だからだ。』
「?????」
『固定観念をいきなり変えてみることは難しい。だが、本質は往々にして超えたところにある。なにごとも本質を見なければならない。ユダはイエスの十二番目の弟子だ。十二は、十二使徒からも分かるように特別な数字だ。イエスの奇跡はユダを置いて語れない。ユダの深き友情の上にイエスの深き愛の物語が成り立つ。それは、お前が解き明かした“オプサリオン”がその証である。そしていま、時を超えてふたつはひとつになる。』
「ユダ族のユダは、関係ないのでしょうか?」
『いや、大いにある。』
「?????」
『人の子よ、お前は、意味付けではない本質を照らした―限界(ゲバル:3+2+30=35:V、X、IX、XI:5+9+10+11=35)を突き当てた。さあ、行こう。お前とわたしで限界を突破しよう―』
突如、雲の鏡に五枚のタロットカードが浮かび上がる。
“教皇The Hierophant” 正位置 V
“悪魔:The Devil”逆位置” V→X V+X=XV
“隠者:The Hermit”正位置 IX
“運命の輪:Wheel of Fortune”正位置 X
“正義:Justice”正位置 XI
『そのタロットは預言になっている。今日、ここで成就した。―愚者のお前が、隠者の照らす灯りを探し当てた。それは、光。それは、運命の輪―よろしいかね、人の子よ、運命の車輪に逆らい、背く不義のものがいる。あろう事か自分たちの思うままに運命の輪を回している。わたしはそれに強い怒りを置く。それを正す時が来た―』
「…占いやまじないは聖書で禁じられています―」しまった―つい、本音を漏らす―
『お前の言う事は正しい。だが、タロットカードは占いの道具ではない。禁忌に触れることは真理へと近づく。何故に禁じられているかを考えねばならない。ともよ、いまここには、なにの禁忌もない。なにも恐れてはいけない―』怒らない―助かった―
『何故に、わたしがお前に怒る?』
「すみません、ドミナから絶対に怒らせるなと忠告され―それにわたしは不義のものです。およそ禁じられている多くを破りました。そのような身にかかわらずそれなのに、わたしはあろう事か―」
『女の言うことを信用してはいけない。お前を叱ることはあってもお前に怒ることはない。お前の事は、すべて知っている。泥だらけでも真珠が真珠であるように、お前はわたしの大切なともだ。』
「ありがたき幸せです。箴言に“あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる”とあります。もし、わたしが不義であるならば、どうか戒めてください。」
『お前の信仰は立派だ。ただし、あからさまに身を低くするものは、これもまたあざとさになる。十分に気をつけなさい。続けよう―』
「はい」
『“スフィンクス”一体、これはなにかね?』
「ひとつだけ尋ねて宜しいでしょうか?」しまった。質問に質問で返してしまった―
『よろしい。尋ねなさい。何も恐れなくて良い。』
「なぜ、スフィンクスなのでしょう?わたしは、この世界に紛れ込んでからずっと考えていました。なぜ、スフィンクスが現れたのか。ギリシャ神話やエジプト神話の話で、聖書とは関係がありません。」
『本当にそうかね?ヨハネの黙示録にもエゼキエル書にも民数記にも出てくるではないか。スフィンクスだけが名を変えずギリシャ神話やエジプト神話に出てくる。そこになにかあると思わないかね?お前は、紛れ込んだのではなく辿りついたのだ。スフィンクスとは、謎という意味だ。神の姿、すなわち、それは宇宙を表す。イスラエル十二支族の幕屋は空から見ると十字架で、十字架とは正六面体の展開図、それぞれの東西南北の旗印が、神の姿を表す。これは科学なのだよ、人の子よ、分かるかね?』―確かに聖書の千年王国や新天新地は、ギリシャ神話の“ヒュペルボレイオス”の話と似ている。ドミナも科学だという。俺が知っている科学とは全然違う。
ヨハネの黙示録4:7
第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
エゼキエル書1:10
顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。
「幕屋は、分かりました。旗印がそれぞれ、黄道十二星座の不動宮なのも分かります。わたしは、スフィンクスと戦いました。鷲を見ました。獅子も見ました。人間も見ました。ですが、牛だけは見ていません。」
『いや、お前は見た。なぜに、最後にトドメを刺さなかったのかね?何を見たのかね?』
「新しい生命です。ドミナの中に胎芽を見て攻撃をやめました。」
『それだ。牛とは子宮を表す。それは、足台。お前の足が置かれた所。神の王座だ。胎芽とは、大河。牛の顔を見るものは幸い。それで、お前はたたかいに勝った。自身を犠牲にできるものだけがたたかいに勝つことができる。』
見よ、雲の鏡に子宮の絵が浮かぶ。
確かに牛の顔に見える。
「スフィンクスは神で、わたしは人間です。神の王座が分かりません。」
『お前は、いずれ全てを思い出す。よろしい、人々は、半神半人の英雄の話が好きだ。それが、神話や伝説ではないと人々は知る。スフィンクスの本質はいま言った通りだ。これ以上の事は、考えるのではなく思い出しなさい。では、スフィンクスの意味を言いなさい。』
「はい、幾重にも意味があります。まず、スフィンクスではなく本来はスピンクスです。“Sphinx”ではなく“spinx”が本来の読みです。“h”は、フランス語では、“アッシュ”フランス語に限らず、英語の“hour”などラテン語系の言語では“h”を発音しません。ですから何でもない時は、どちらでも、そうであろうとなかろうと何でもよいですが謎を解くうえでは“spinx”が、正しいと思います。つまり、spin“x”(スピンエックス)であり、“sp”in“x” (エスピーインエックス)です。spin“x”とは、“x”を回せ。“sp”in“x”とは、 “spirit” in“x”です。 “h”を入れる場合は、“s” “phi” “n” “x”(エスファイエヌエックス)の時だけです。この時の、“s”とは、“South” “n” とは、“North”です。」
『よろしい。“X”よ、ノタリコンやアナグラムからやるかね?』
「いえ、そちらは分からない事が多いので、アイソプシーからいきます。
ギリシャ語でσφίγγαスフィンガ、古代ギリシャ語でΣφίγξスピンクス。それぞれのアイソプシーはスフィンガが200+500+10+3+3+1=717(81番目の回文数)スピンクスが200+500+10+3+60=773(137番目の素数)で、順番数の合計値はスフィンガが18+21+9+3+3+1=55 スピンクスが18+21+9+3+14+=65 どちらも777(十字架、神、天、地)には、少し足りません―」
『よろしい。足らないようになっている。ここで、お前が完成させる―』
「はい、スフィンガがデルタ (Δ:順番数 4数価4)を足し、スピンクスはクサイ (ξ:順番数14数価60)を足します。どちらも数価が、777になり、どちらも順番数の合計値は、69になります―」
Δ:デルタ(順番数順番数4数価4)フェニキア文字ダレトに由来。その意味は“扉”―
古来、日本では、この形を鱗紋と呼び、それは、蛇、龍の鱗を指す。
エジプト神話の女神ソプテドのヒロエグリフは△
見よ、雲の鏡が銀河を映し、銀河に、夏の大三角形が大きく浮かぶ。
すると、見よ、二羽の燃える鷲が引き付けあうように飛び立つ。
ヴェガ(織女:織姫)「落ちる鷲」
アルタイル(牽牛:彦星)「飛ぶ鷲」
すべては繋がっている。
ヴェガとアルタイルの距離は14.4光年
ξ:クサイ(順番数14数価60)フェニキア文字サメクに由来。その意味は“魚”“柱”―サメクの、元の意味は“蛇”を表す。パペル十字、その姿は、「王」
『いま、ととのった。ふたつは時を越えて巡り合う。』
見よ、雲の鏡が、音を立てて激しく動く
『69とは、なにかね?』
「導く(ἄγειν:アギン)でしょうか―」
『サムソン(ゲマトリア690:300+40+300+50順番数ゲマトリア69:21+13+21+14)もそうだ。導くものよ―』
ママのおっぱい(αἱ θηλαί:エイフィレイ:アイソプシー69=1+10+9+8+30+1+10)もある。ああ、最高、アクメ(ἀκμή:アクミ:アイソプシー69=1+20+40+8)もそうだ。たわ言(κάκκη:カーキ:アイソプシー69=20+1+20+20+8)もこれくらいにしておこう。
“陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる。”
見よ、突如、雲の鏡が太極図に変わり白の魚(9)と黒の魚(6)、その双魚が回り泳ぎだすと中心の渦に飲まれるように消える。
すると、見よ、その中から、ひとつの光が現れ、その光が彼方へ飛んでいく―
『69週―メシアが来るまで62週のあとの7週がいま訪れた。だが、メシアとはお前ではない―』え、―違うのか?―いま訪れたと?―“X”のひとりだと?―俺に“選ばれたもの”と言ったではないか?―世界を救ってほしいと言われ、俺はここまで来たのに違うのか?―俺は、メシアではないのか?―
『心を揺らしてはいけない。お前は、“選ばれたもの” お前は、わたしの誇りだ。“X”の解を探し当てた。』俺じゃないとしたら?―
「メシアには心当たりがあります。しかし、彼女は―」
『決めつけは良くない。平静を保ちなさい。』―彼女も違うのか―俺はヴィジョンで見た。彼女がメシアの一人だと―
『鎮まりなさい。探すものよ、わたしがお前を見つけたようにお前もわたしを見つけた。そのようにしてお前は、メシアを見つける。お前は必ず見つける。そして、メシアも必ずお前を見つける。ただ、それだけだ。お前は、もう辿りついている。見つけるものよ、いま、お前は生命の木への扉を開いた―』
メシアを見つける―
俺の旅はまだ続くのか―
X、IX、XI(オプサリオン)が光り、十二の数字が踊るように光る。
アナログ時計の分針と秒針が重なり、
X、IX、XI が大きく光ると、見よ、XIIを照らす。
XII(9+10+11+12=42(24の鏡の数 14+14+14)
が、ひと際大きく光る。すると、見よ、
突如、雲の鏡に一枚のタロットカードが浮かび上がる。
“吊るされた男:The Hanged Man”正位置 XII
見よ、景色が変わり、透明な森が現れると目の前に一本の大きな木が聳えたち、その木の後ろを川が流れる。嗚呼、これが―生命の木―木は十個の実をつけていた。
すると、見よ、実のひとつずつが数字となり、それを繋ぐ二十二本の小径が現れる。―生命の木とはこれか―生命の木は逆さだと聞いたが、逆さではない―
いや、セフィラ(木の実)が上下左右逆さだ。
吊るされた男とは、この意味か―
『タロットカードの吊された男は、生命の木への扉を表す。なぜだか、分かるかね?』
「後ろ手に組んだ手は精神世界の“3”を表し、組んだ足は物質世界の“4”を表すと云われています。ルーン文字の読み方を知る為に世界樹、ユグドラシルの枝に九日間、首を吊り続けたオーディン、またはイスカリオテのユダがモデルと云われています。いま、こうして木を見ると逆さに見よという事でしょうか―」
『百聞は一見に如かずという。この先を見てみよう、お前は“5”つまり、第五のセフィラ峻厳(geburah:ゲブラー)、これは、神の力を表す―』
―嗚呼、すべてが繋がっていく
第五のセフィラの守護天使は「カマエル」
その意味は“神を見つけるもの”“神をさがすもの”
その象徴は“聖爵”つまり、“聖杯”(Calix)
十四万四千の能天使を率いる指揮官
一万二千の破壊の天使を率いる“たたかいの天使”
火曜日の守護天使にして、“天蝎宮の守護天使”
守護星は火星。さそり座のα星、アンタレスとは、ギリシャ語のAnt Aresに由来する。
その意味は“火星に比類するもの ”
『お前の事という意味が分かったかね。セフィラとはヘブライ語で“数えること”さあ、数えなさい。』
すると、見よ、第五のセフィラが光り、木の右側のセフィラが呼応するように光る。同時に王国(malchut:マルクト)と王冠(kaether:ケテル)も光り出す。〔1→3→5→8→10〕この数字の並びは、イクスース。すると、見よ、左側のセフィラも連動して光り、第九のセフィラ基礎(Yesod:イェソド)、第六のセフィラ美(Tiphereth:ティファレト)とすべての実が光る。そして、見よ、十一番目の隠されたセフィラが現れ、それを繋ぐ四本のパスが現れる。セフィラは全部で十一個、パスは全部で二十六本となった。
『そのセフィラはダアト(Daath)ダアトとは知識、マルクトとは、物質世界。それを切ることで、はじめて見える―』
すると、見よ、一番上の部分の第十のセフィラ、王国(malchut:マルクト)が赤く燃え、赤い光が蛇のように線を描きセフィラを光らせる。それは、まるで4が3つ重なった444、手(3)と足(4)はこれを表すのか―444とは即ち、こうだ。(1→11→2→3 11→6→4→5 6→9→7→8)
『数を数え、足しなさい』
1+11+2+3=17
11+6+4+5=26
6+9+7+8=30
17+26+30=73
「すべて足すと73です。」
『よろしい、73とはなにかね?』
「知恵(cochma:コクマー)でしょうか。コクマーのゲマトリアは73(8+20+40+5)です。」
すると、見よ、赤い光が、下からうねるように真ん中のセフィラを光らせる。〔1→11→6→9→10〕
『その数を数えなさい』
10+9+6+11+1=37
「37です。」
『37も73と同じように知恵を表す。』
(順番数ゲマトリア8+11+13+5=37)
『知恵は力にまさる。お前は、真実を照らした。さすがだ、小道(パス)のほとりのまむしよ。さあ、真実の先を見よう』
すると、見よ、根の部分の第一のセフィラ、王冠(kaether:ケテル)から一本のパスが伸び、そこから実がひとつ光る。実は全部で十二個、パスは全部で二十七本となった。だが、十二番目の実は、根より下にある。
「斧かなにかあれば採れるのですが、…」
『待ちなさい。その実を採ってはいけない。』
見よ、川面に映る木の影が伸び、対岸に木を映す。聳え立つ大樹。
すると、見よ、赤い光が同じようにうねり、その木の頂点で十二個目の実が眩く光る。そして、見よ、透明だった森が色づき、本来の森のあるべき姿を映し出した。目の前に美しき森が広がる。
『いま、お前が解き明かしたその木は知恵の木、対岸のあの木が生命の木だ。さすがだ。知恵の木から生命の木までは、近くて遠い。さあ、行こう―』川面を歩き対岸まで行くと木の正面に立つ。すなわち、知恵の木と同じように木の背に川が流れている。
これが、生命の木―
なんと美しい木よ―
生命の木は知恵の木と上下、左右が逆になっている。
なるほど、吊された男とは、こういう意味か。
神は、俺を抱きかかえて実を採らせてくれた。
『さあ、生命の木の実を食べなさい。お前は、いますべてを繋げた。お前を大いに認めよう。王の実をもぎとりなさい。』
―嗚呼―お腹が熱くなる。あまりの美味しさに俺は、泣いた。味が美味しいのではない。それは、知覚を超えたもの、いや、根源かもしれない。全身全霊が満たされるのだ。
すると、見よ、採ったばかりの同じ場所に同じように実がなる。
『何個でも好きなだけ食べなさい。その実は、真理。それは“完全な愛”それはわたしの“血と肉”―お前は、いま永遠の生命を手に入れた。
』
嗚呼、繋がっていく―血肉(σὰρξ καὶ αἷμα:サルクスケーマ)のアイソプシーは444(200+1+100+60+20+1+10+1+10+40+1=444)
完全な愛(τελεία ἀγάπη:テレアアガペー)300+5+305+10+1+1+3+1+80+8=444(123+321=444 222+222=444)
そうか、知恵と十二番目の実で444(37×12) 知恵の木(444)と生命の木(444)を足すと888(37×24(8+8+8)) まさに鏡だ。(4+4+4=12 4×4×4=64) 64は真理。真理(Αληθεια:アレセイア)のアイソプシーは1+30+8+9+5+10+1=64 生命の木とは、真理の愛―見える、聞こえる。そうか、そうなのか―
神のかたち(Εικων Θεου:エイコーン セオウ)
5+10+20+800+50+9+5+70+400=1369
1369=37×37
知恵と二十七本のパスで999(37×27)
神の秘密 (Ο Απορρητοs:ホアポルレートス)
70+1+80+70+100+100+8+300+70+200=999
(444+555=999 153+315+531=999 351+135+513=999)
イクスース((7×3)+(17×3)+(27×3)=153) (1+5+3+8+10=27)
1/37= 27/999
すべてが、ここに繋がる。
俺は、生命の木の実をなんとか持って帰れないだろうかと思った。父や母に食べさせたかったのだ。
『やめなさい。それは、王の実。永遠の生命を得るものは、実によるものではなく、また血と肉によるものではない。見いだすものはさらに見いだし、得るものはさらに得る。渇くものは、実に触れると渇き、飢えるものは、実を食べても飢える。』
「はい、分かりました。」―俺は、結局ひとつしか食べなかった。
『“神の秘密”を見よう』
見よ、白く小さい立方体が現れると、同じものがどんどん増えていく。
すると、見よ、それらは積み上げられて、大きな立方体になっていく
それは、正六面体
。小さい立方体、その数を数えてみると六十四個であった。
『眺めてみなさい。一度に見れる最大の数はいくつかね?』
「三十七個です。」
『そうだ。六十四個の立方体の三十七個を見る時に残りの二十七個は常に隠れている。』
すると、見よ、白い立方体が黒くなる。嗚呼、ブラックキューブ―
『人々は、その黒い匱の中にいる―』
黒い匱―宇宙―
『37と73は鏡の数、この数をよく心に留めておきなさい。この二つの数字は聖い。この二つの数字の不思議が分かるかね?』
37は十二番目の素数
73は二十一番目の素数
122=144
212=441
32×72=441
まさに鏡だ―
37は四番目のエマープ
73は六番目のエマープ
4と6は俺が見つけた法則でペア
37は三番目の六芒星数
73は四番目の六芒星数
34+37+73=144
34の数字がここに繋がるのか。
なるほど、すべては繋がっている。
(3 + 7) + (37 + 73) + (12 + 21) = 153
(37×3)+(3×7)+(7×3)=153
(3×7)+(3×17)+(3×27)=153
『生命の木はノアの方舟も表す。それは、5が解き明かす。ゲブラーからのみ方舟が作れる。』
5×2=10
5×8=40
10+40=50(方舟の幅)
5×6=30(方舟の高さ)
5×3=15
5×4=20
15×20=300(方舟の長さ)
見よ、それぞれのセフィラが光り、木全体が方舟の形を見せる。
『5が、見つけ5が扉を開く。天地創造のはるか前より、そう決まっている。ノアの10とは、“無”お前の5とは、“宇”
“宇”とは、天地四方、それは、中央を入れて“5”すべては数。それは式。それは形。そして、すべては鏡になっている。人々はそれぞれの形を見つけれても、それを繋ぐことができない。お前はいまここにすべてを繋げた。』
ヨハネの福音書1:1
はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
(λόγος:ロゴス)
30+70+3+70+200=373
なるほど、少しは、分かってきた。
美しき森が消え、雲の鏡の間に変わる。
この景色とこのやりとりを俺は死んでも忘れない。
『謎は解けたかね?太陽の人よ―』
「はい、少しは近づけました。」
―太陽の人―サムソン―ああ、そうか―二本の木のパスを足すと
ダン(ゲマトリア54:4+50=54)
27+27=54
「ある日からサムソンの夢ばかりを見ます。ある時は、わたしがサムソンです。」
『それは、なぜだと思うかね?』
「分かりません。集合意識かなにかにアクセスしてるのか―」
『スフィンクスの謎かけ。サムソンの謎かけ。すべては踵で繋がっている。では、その秘密を解き明かしていこう。ともよ、イクスースもスフィンクスも生命の木もすべてお前を表している。太陽の人よ、すなわちお前だ。そして、わたしを表し、それは人間を表している。つまり、預言を表す―』
「イクスースがですか?」
『そうだ。大きい魚+153だ。数えなさい。』
大きい(μεγάλων:メガロン)
40+5+3+1+30+800+50=929
魚(ἰχθύων:イクスース)
10+600+9+400+5+200=1224(153×8)
929+1224=2153
2153+153=2306
…
それらしい数字は出てくるが、数価をみても順番数をみてもゲマトリアでもアイソプシーでも、いくら計算しても、分からない。
「分かりません―」
すると、見よ、知恵の木と生命の木が光り、交わる光が川の上に二十七個のギリシャ文字を映し出す。
〔α=1 β=2 γ=3 δ=4 ε=5 ϝ=6 ζ=7 η=8 θ=9 ι=10 κ=20 λ=30 μ=40 ν=50 ξ=60 ο=70 π= 80 ρ=100 σ=200τ=3 υ=4 φ=20 χ=40 ψ=50 ω=80 σ=200 ϟ=90 ϡ=90〕
『聖書のアイソプシーだ。計算してみなさい。』
大きい(μεγάλων:メガロン)
40+5+3+1+30+80+50=209
魚(ἰχθύων:イクスース)
10+400+9+4+80+50=193
209+193+153=555
鷲(ハネシェル)!
555=5+50+300+200
『そうだ。獅子が地の王者であるように、鷲は空の王者だ。鷲は、太陽を恐れずに、太陽を直視して飛ぶ。獲物を捕らえる時は優雅に空中で停止して浮遊する。とても賢く、とても強い―鷲を見たことあるかね?』
「夢でしか見たことありません。」
『夢で見る方が、価値がある。鷲は、美しい。ダン族の象徴は鷲、お前の星座は、蠍座。サソリとは鷲―それは、なぜかね?』
「錬金術で、蛇は蠍になり、蠍は鷲になります。ゆえに、天蝎宮を表す象徴は鷲です。」
『そうだ。 鷲が“獣のみち”を巡りここに辿りついた。“羊飼い”も“羊”も、星空にあるものだ。星とは“天の羊” 惑星とは、“年寄りの羊たち”お前たちは、“星”なのだ。人々は、“星の下”というがその実は理解していない。よろしい。続けよう―』
ヨハネの福音書21:11
シモン・ペトロが行って、網を地へ引き上げると、153匹の大きな魚(イクスース)でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
『次は、地と網を数えてみなさい。』
地(γῆν:ジン)
3+8+50=61
網(δίκτυον:ディクティオン)
4+10+20+3+4+70+50=161
61+161=222
ナザレ人!(Ναζαρηνέ:ナザレネ)
50+1+7+1+100+8+50+5=222
『そうだ。ナジルのものよ。鷲とナザレ人を足すと、777になる。お前が完成させたスフィンクスの順番数の合計値はいくつかね?』
「スフィンガもスピンクスも69です。」
『計算してみなさい―』
6+9=15 15=(5+5+5) 15=(5+10)
6×9=54 54=(24+30(10+10+10))
『これらが、お前の事と言う意味が分かったかね?デルタとクサイを足すと数価は64 そして、まだある―』
まだある―のか―
順番数の合計値に注目してみる。
14×4=56
54+56=110(37+73=110 46+64=110)
鏡、ではないな…
110は、100+10
100(1+8+27+64)
10(1+2+3+4)
うーん、なにか違うか―
ゲマトリアやアイソプシーは足し算が基本である。次に掛け算。出ている数字を足しても掛けても分からない。分からないから引き算や割り算をしてみる。でも、分からない―
「分かりません。」
『サムソンは雌牛で耕さなかったら分からないと言っているではないか―』
「サムソン―牛耕式―」
牛耕式とはβουστροφηδόν(ブストロフェドン“耕す牛のように引き返す”)の事。文字を一行、左から書けば、次の行は右から書く。そのようにして書くのが、古代で用いられた筆記方法、牛耕式。
ヒントを教えてもらっても分からない―
『ダンの順番数はいくつかね?並んだヘブライ文字を左から見てみなさい。』
ヘブライ文字は右から書く。
ダレット(D)=4
ヌン(N)=14
ヌン14ダレット4
144!
『選ばれたものが、いつの日か糸を紡ぎに来る。ここに“スフィンクス”が完成された。お前が今日ここに、ととのわせた。クサイとデルタで144になる。選ばれたものよ、お前の事と言う意味が分かったかね?』
「聖書には、メシアはダビデの家系から出ると書いてあります。わたしがダンの家系で、ダビデの家系のメシアを見つけるという事でしょうか?」しまった。質問に質問で返してしまった―
『それは、だいぶ違う。それに、もう一度言っておく。女の言う事は信用してはいけない。わたしはお前に怒ることはない。ともよ、なにも恐れることはない。安心しなさい。』
「はい、―」
『よろしい。はっきりさせておこう。本当に聖書にダビデの家系からメシアが出ると書いてあるのかね?』
イザヤ書11:1-5
1エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、2その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、4正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。5正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。
ヨハネの黙示録5:5
すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
「はい、エッサイはダビデの父です。」
『よく読みなさい。ヨハネの黙示録は、ひどい誤訳だ―』
スクリーンパネルにギリシャ文字が浮かぶ。
ダビデの根(η ριζα Δαυιδ:イリザデービッド) (the root of David)
―根と枝。根と枝は確かに違う。だが、根から若枝が出る。
『ダビデの木は倒されたのではなかったのかね?ソロモン亡き後、ユダ王国とイスラエル王国に別れたではないか。根とは、根株。切り株だ―倒されたダビデの木から若枝が出たのではない。倒された木の切り株から若枝が出たのだ。根と枝は、月とスッポンほども違う。
自立した美しい女も、時には、誰でも良いからと肌恋しく、無性に寂しい。そんな夜がある。だが、それがお前ではないのと同じなように、根と枝には、それくらいの隔たりがある。言語学者に尋ねなさい。根と枝は、同じ意味ですか、と。国語学者に尋ねなさい。根と枝は、同じ意味ですか、と。植物学者に尋ねなさい。根と枝は、同じ意味ですか、と。つまり、根とはダビデよりも前、エッサイよりも前を遡らなければならない。』
「マタイの福音書はイエスの家系図まで記し、ダビデの家系を強調しています。」
マタイの福音書1:17
だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
『同じマタイの福音書で、イエス自身がダビデの子を否定しているではないのか?マルコの福音書では、イエスはダビデを非難している。弟子の行為を庇う為とはいえ、ご先祖様を悪く言う事があろうか?』
マタイの福音書22:45
このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。
マルコの福音書2:25-26
そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。26すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
「確かにそうです。では何故に、マタイは三度も十四代と強調したのでしょう。」
『お前は、何故だと思うのかね?』
「ダビデのゲマトリアが14(4+6+4)だからでしょうか―」
『それで終わりかね?聖書は、矛盾に満ちて、暗号だらけだ。そのように作ってある。神と記者と読み手の知恵比べだ。イザヤ書ならイザヤ書、エレミヤ書ならエレミヤ書、マタイの福音書ならマタイの福音書、矛盾とは、同じ記者が引き起こす。鍵を見つけた先をさらに見ないといけない。聞こえた先をさらに聞かねばならない。心得無きものは見えないし、聞こえない。感じることができるかどうか、それがなによりも重要なのだ。見えて聞こえるものは驚くほどに少ない―』
「はい、―」
『三度も十四を記してある。簡単であろう。さあ、求めなさい―』
ダビデを三度―
求める―
嗚呼、そうか、三度、数えるのか―
よし、―
ダビデのゲマトリア4+6+4
=14
1+4=5
ゲマトリア4×6×4
=96
9×6=54
ゲマトリアで数価を数え
その数字を足す、または掛ける。
またその数字を足す、または掛ける。
この三ステップで見える数字
5と54
「できました。」
『よろしい。5と54がなにを指しているか分かるであろう―』
「ヤコブ五番目の息子、ダン(ゲマトリア54)でしょうか。」
『よろしい、見えてきたかね?』
「はい―ダンからメシアが出るという事でしょうか?もしそうであるのならば、何故にダンからメシアが出ると書き記さなかったのでしょうか?」
『いや、聖書にそうはっきり書き記してある。』
マタイの福音書2:23
ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。
『ナザレとナジルは同じだ。イエスがダビデの子であるならベツレヘムのイエスと言うであろう。イエスは何と呼ばれておる?ナザレのイエスではないか。聖書にナジル人としてはっきり書き記してあるのは、ダン族のサムソンだけではないのかね?』
「はい、確かにそうです。すみません、ですが、その一文だけでは、分かりません。キリスト教徒は、ユダヤ人から蔑称のようにナザレ人と呼ばれてました。イエスはダン族でしょうか?では、何故にマタイはダビデの家系図を書き記したのでしょうか?ルカの福音書とマタイ福音書の系図もまったく違います。」
マタイの福音書1:16
ヤコブはマリアの夫ヨセフの父であった。このマリアからキリストといわれるイエスがお生れになった。
ルカの福音書3:23
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子
『人の子よ、一文あれば十分ではないか。しかも、その一文だけではない。何故に、その先を見て聞こうとしないのか。聖書はただの言葉の羅列ではない。記したもの達が、どのような気持ちで書き記したか、そこにどのような意味があるのか、その先の意味ではなく本質を見なければならない。記者は各々預言を賜っている。イエスが静ならサムソンは動だ。サムソンが静ならイエスは動だ。ふたりは一つであり、鏡なのだ。お前は血筋と家系を混同している。だが、問題はそこではない。お前に尋ねよう。イエスの母マリアは聖霊によって身籠ったのではなかったのかね?ダビデの家系図に、如何様な価値があるのかね?イエス自身がダビデの子を否定しているのに、それ以上になにかいるのかね?何故に矛盾の先を見て聞こうとしない?』頭に深い衝撃を受ける―矛盾の先を見る―
「すみません、確かにそうです。イエスは否定しています。イエスは血統ではなく聖霊によるものです。ですが、血統ではなく聖霊によるものだとしても、ダビデの家系に聖霊が降りとどまるということだと解釈していました。それに、つえはユダを離れずと、聖書にあります。」
創世記 49:10
つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。
『いや、お前の言わんとしている事は、間違ってはいない。血統ではなく聖霊によるものだ。では、シロとはなにかね?』
「ヘブライ語のシャーラ―が語源です。“引き出す”だとか“栄える”という意味です。」
『その通りだ。よく読みなさい。シロの来る時までは及び、シロに諸々の民が従うのではないのかね?』
「はい、その通りです。」
『よく読みなさい。シロがユダから出るとは、一言も書いていない。』頭がクラクラしてくるが、反面ワクワクもする。この時が、まさにその時―だが、俺は愚を犯す―
「ユダ族のダビデの家系はまったく関係ないのでしょうか?では、何故にダビデを狂言回しのように―」
『そう、狂言回しなのだよ。象の事を言えば誰もが象の事を思う。だが、本質はそこではない。何度も言うが、その先を見て聞かねばならない。記者は預言者なのだ。ヨハネはそれを踏まえて “ダビデの鍵”と書き記してある。ルカもマタイもマルコも同じだ。違うように見えて、書き記してあることは同じだ。見えているものはひとつなのだ。』
ヨハネの黙示録4:6-8
6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。7第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
『これは、ダビデを表している。四つの生き物、六つの翼、四つの顔。ダビデの鍵であってダビデではない。』
「わたしは、スフィンクスを表していると思っていました。黄道十二宮、つまり、神の姿です―」
エゼキエル書5 -6
5またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。6 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。
『エゼキエルが同じようで生命の木を表しているように、少し違う。―ひとつ尋ねよう。お前は、ユダヤ人に友人や知人は、いるかね?』
「いません。」
『ユダヤ人は、むやみやたらと人やものを信用しない。物証主義で、猜疑心が強い。ユダヤ人は、父方の血統ではなく母の方の血統をみる。家系図は売買や盗みもある。だが、どの胎を出たのか、それは確かな事だからだ。』
「では、母マリアがダビデの家系でしょうか?やはりダビデの家系からメシアは出るのでしょうか?」
『それは、あるのかも知れない―』ここにきて逸らかされたか―
詩篇 118:22-25
22家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。23これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。25どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
『逸らかしたわけではない。そう慌てるでない。お前は、象の事を思うあまり、象の事が頭から離れなくなっておる。キリンを見ても聞いても象の事を考えるのをやめない。
少し、家について話をしよう。これはなにの家の話かね?』
「アロンの家がその前の文章に出てきます。ですが、ダビデの家も主の家も出てきます。―よく分かりません。」
『よろしい。ひとつは、まず、ヤコブの家だ。つまり、イスラエルの家。約束の地を十二支族で分割した時に、ダン族だけは、十分な相続地を受けられなかった。異邦人であるダンのものたちはイスラエルのこのような行いに失望した。ダン族の何千というもの達がこの時に、イスラエルの地を離れ、自分たちの先祖の故郷に帰る為にエーゲの島々に渡る。そして故郷でひとつの都市国家を征服した。その都市の名はアテナイ。イスラエルに残ったダンのものたちは聖書に書き記されてあるように、長い間、自分たちの土地を求めて放浪のものとなる―』
「異邦人?
故郷ですか?ダンはヤコブの息子ではないのでしょうか?」
『そうだ。ヤコブの腰から出たものではない。ダン族は、ギリシャ人だ。ヘブライ人とは、肌の色も髪の毛の色も違う。クレタ島が交易の要害であった頃、ギリシャ人は、イスラエルでは、ダナーンと呼ばれていた。それは、元来、ダン族のことを指す。イスラエルの民は、エジプト王家の血を引く。ユダヤ人とギリシャ人には古くからの深い確執がある。その災禍の根が約束の地。だが、種子はそれよりも遥か前、ノアの頃より連綿と続く、より根深い因縁がある。それは、“カナンの呪い”ダン族は、イスラエルの家から退けられた。』
エジプト王家―フロイトの説は正しかったのか―
『ふたつめが、ダビデの家。ユダ王国とイスラエル王国に別れ、ダン族は、ダビデの家から退けられた。』
『そしてみっつめが主の家―』
ヨハネの黙示録7:4-8
わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。7:5ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、7:6アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、7:7
シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、7:8ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。
「ダン族だけいません。」
『ヨハネは預言に従ったまでだ。“家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。”記者がなにより重きを置くのが神の意思、預言の成就に重きを置く。好き勝手に書き記すものは預言者ではない。その証拠にエゼキエルは、一番にダンを書き記してある。ヨハネは、あえてダンを書き記さずに、外した。ともよ、そう、思わないかね?』
エゼキエル書48:1
イスラエルの部族の名は次のとおりである。北の果からヘテロンの道を経て、ハマテの入口に至り、ハマテに相対するダマスコの北の境にあるハザル・エノンに及び、東の方から西の方へのびる地方、これがダンの分である。
「…。すみません。分かりませんが、衝撃です。深遠に触れた気がします。ですが、わたしはメシアではないと―メシアとは―ユダ族の獅子とは、なんでしょう?ユダではなくダンであるならば、わたしはダンのメシアを探すものでしょうか?」
創世記46:9
ユダは、獅子の子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。
ヨハネの黙示録5:5
すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
『聞きなさい、人の子よ、
甕そのものよりも甕の空間に価値がある。それよりも空間を満たす水により価値がある。その水は、喉を潤すだけではない。それは知性、生命だ。だが、その甕を作る手がそれらよりも価値がある。
家そのものより空間に価値がある。それよりも空間を満たす甕や食器、家具や人に、より価値がある。それが生命であり、知性だ。だが、家を作る手がそれらよりも価値がある。
人そのものよりも人と人の間に価値がある。それが人間だ。
よいだろうか、人の子よ、
ユダは獅子の子の一文は気にしてダンは獅子の子の一文は気にかけないのかね?ダビデの石碑が発見された場所の名を知っているかね?』
「マハネダン(裁きの丘)です。」
士師記13:25
主の霊はゾラとエシタオルの間のマハネダンにおいて初めて彼を感動させた。
『場所や日付、時間、なにものにも偶然はない。
太陽の子よ、誰が獅子を起こすことができようか?
反逆のかしらもダンから出る。ダン族の話には、続きがある。ダン族は、ついに国を持つ。それは、三つ。いや、四つかも知れない。だが、本当に手に入れたのは国ではない。世界を動かす権力。それは、世界を操るほどのチカラ―』
「…。反逆のかしら―わたしも、気になっていました。54×4=216だからです。また、(6+6+6)+(6+6+6)+ (6+6+6)=54です。」
『獣の数字666(6×6×6=216)かね―。面白い、続けなさい。』
「ですが、わたしは、216が悪い数字だとは思えません。“直角三角形の斜辺の 2 乗は他の 2 辺の 2 乗の和に等しい”ピタゴラスの定理です。(c²=a² + b² )最小のピタグラス数は【3、4、5】です。3乗にするとピタゴラスの定理ではないですが、比率が正しければそのまま使えます。(5 ³ =3 ³ + 4 ³:3 ³ + 4 ³ +5 ³ = 216) そこから見えるもの、 それは、イエスの象徴です。」
345+543=888
888=〔イエス:Ιησουs〕のアイソプシー
わたしたちの神の救い(イェシュア エロヒム:ゲマトリア888)
6+50+10+5+30+1+400+70+6+300+10=888
「また円周率の最初の3を除く、小数点以下144桁の数字の和は666です。さらに興味深いのが、144桁の内、8は18個で144(8×18) 9は17個で153(9×17)です。ここから先があるのか、行き止まりなのか分かりません。」
『面白い。すべては鏡なのだ。お前はユダヤ人が好む数字を知っているかね?』
「はい、18です。それも少し気になります。(6+6+6=18) ヘブライ語のハイ(生命、活き活き:ゲマトリア18)が、由来だと聞きます。」
『もっともらしい由来だが、それは違う。古代エジプト第十八王朝に由来する。そして、エジプトのファラオの意味は、“大いなる家”だが、問題は、そこではない。つまり、【3、4、5】からイエスの象徴が見えて、さらにそこから見えた216は獣の数字666と関係があるのかないのか―』
「わたしは、違うと思います。…―違います。」
『本当に、そうなのかね?』
ヨハネの黙示録13:18
ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。
キリスト (Χριστοs:クリストス)
600+100+10+200+300+70+200=1480
イエス・キリスト(Ιησους Χριστος)
888 + 1480 = 2368(37×64)
そしてその数字は六百六十六である。(Και ο αριθμος αυτου Χξς)
20+1+10+70+1+100+10+9+40+70+200+1+400+300+70+400+600+60+6=2368
『“イエスキリスト”と“そしてその数字は六百六十六である。”のアイソプシーが全く同じだ。』
「獣の数字がイエスキリストということですか?」
『世界を見てみなさい。キリスト教こそ悪ではないか?違うかね?』
「…いえ、」
『世界のキリスト教を見てみなさい。豊かで、富んでいるではないか、違うかね?』
「…、―」
『キリスト教こそ獣ではないかね。歴史を見てみなさい。キリスト教を用いてどれだけの国や人を蹂躙したと思っている。お前の国ではどうだ。ポルトガルの宣教師は、日本人を奴隷として他国に売ることに加担していたではないか。キリスト教の宣教と植民地支配は、表裏一体であり、このような事を世界中で起こしているではないか。人身売買をキリストの名の下に行っているのだ。違うかね?』
「それは、…」
『世界の戦争はどうだね?バチカンを見てみなさい。戦争に加担する人殺しではないか。このもの達には良心も恥も無い。まさに、獣―そう思わないかね?』
「…いえ、」
『聖職者が起こしている犯罪を見てみなさい。バチカンの犯罪を見てみなさい。キリストの名の下に罪を犯す盗っ人ばかりではないか。イエスキリストはその親であろう。キリストこそ獣。そう思わないかね?』
「…、―」
『お前自身も女に言っていたではないか?“教会で出会う人はパリサイ派の人だと。選ばれた民なら、なにをしても良いのかね?』
「いえ、言葉が過ぎたのなら謝ります。ほとんどの方は、良心的な人ばかりです。神父やシスターもわたし自身は良い人しか知りません。深い付き合いがあるわけでも無いのに、ただのわたしの偏見です。確かに、ただの悪事よりもキリストの名の下で行う悪事は、より悪いでしょう。しかし、だからと言ってイエスキリストが獣、キリスト者のみなが悪いというのは違うと思います。ほとんどの方達は良心的な人です。」
『本当にそうなのかね?イエスは良い木か悪い木かは採れる実で決まると言ったではないか。実が悪いのは、木が悪い。子が悪いのは、親が悪い。違うかね?お前は、何故に、イエスを庇う?お前自身、信仰から離れ、聖書も読まず、祈りもせず、教会にも行かない。お前はキリスト教が嫌いであろう。何故に、庇うのかね?』
「確かに、そうなのかも知れません。しかし、イエスキリストは多くのものを救い、いまも救い、今後も救い続けるでしょう。イエスキリストの名の下に悪を行う事や悪を行うものは、過去、現在、未来において到底、許されることではないです。しかし、 “イエスキリスト”で沢山のものが救われているのも事実です。わたしがイエスを庇っているのでしょうか。いいえ、わたしは、こんにちまでに、死にかけたことがありました。辛い時や、悲しい時、苦しい時もありました。およそ悪い事もしました。それでもいつでも庇ってくれているのは、寧ろイエスキリストです。うまく言えませんが、ずっと一緒にいてくれている。庇護してくれている。そう感じるのです。わたしは、聖書をよく知っている、よく読む、祈りをよくする、祈りを長くする、教会に行く、それらがイエスの教えだとは思いません。それらが良いとも、それらが信仰だとも思いません。日常で、つまりなんでもない日々の瞬間の中で、愛や義を行えるかどうかが大切だと思っています。実が悪いのは、確かに木が悪いのかも知れませんが、イエスは葉ばかり茂って実がなっていない無花果の木を呪いました。キリストの名の下に悪事を犯すものは、まさに有名無実、見せかけだけでもとより実がついていないのです。だから、ゲマトリアやアイソプシーが、そう指し示しても、それより先をみるべきで、イエスが獣や悪ということは断じてありません。」
『ああ、お前の信仰は立派だ。そうだ。そのように遠慮のないお前の心が聞きたいのだ。さすが峻厳を表している。216も18も重要な示唆である。それらを形にしてみるとよく分かる。つまり、善も悪も、光も闇も表裏一体なのだ。だが、そこは行き止まりなのだ。神聖ななにかを感じることはできる。繰り返し言おう。だが、そこは行き止まりなのだ。お前はすでに答えに辿りついている。』
「いえ、辿りついてません。666は不思議な数字です。それしか分かりません。16+26+36+=666 1+2+3+4+567+89=666 9+87+6+543+21=666 数字や形を見ると確かに666に神聖ささえ感じます。6665=131,030,122,140,576となり、131+030+122+140+576+=999です。」
『面白い、それで獣の数字がなにを指すか解けたかね?』
「解けません。ゲマトリアで皇帝ネロだとかローマ教皇だとか云いますがはたしてそうでしょうか。確かにそのような意味も含めたのかも知れません。但しゲマトリアやアイソプシーは知っていれば難しいものではありません。当時、文字が数価を持っていることは当たり前のことであり、その時代のユダヤ人やギリシャ人なら容易に答えに辿りつきます。それは、ローマ人とて同じです。つまり、誰でも容易に解けるのです。それをヨハネはわざわざ知恵が必要と大袈裟に言うでしょうか。少し、考えにくいのです。
666は、ヨハネの黙示録以外では、列王記と歴代志に出てきます。文章もほとんど一緒です。ソロモンは知恵ものです。わたしは、ここに注目することが重大な示唆だと思います。」
列王記上10:14 さて一年の間にソロモンのところに、はいってきた金の目方は六百六十六タラントであった。
歴代志下9:13 さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は六百六十六タラントであった。
『面白い、続けなさい』
「不思議なのが、ソロモンです。知恵ものであるソロモンが何故に、神に背いてまで背教に陥り、イスラエル王国の分裂を招いたのか。しかも、ソロモンは神の警告を二度も無視しているのです。ソロモンは、知恵ものです。イエスの教えも、ソロモンの言葉である箴言、伝道の書からの影響、または引用が多くあります。もしくは、イエスが影響を与え、ソロモンが引用したのかもしれません。」
『ソロモンはイエスよりも前のものではないのかね?』
「イエスは、ご自分でアブラハムよりも前からいると言っています。ですが、列王記を読んでも、歴代志を読んでも、666の答えは、よく分かりませんでした。そこで着目したのが、ソロモンの出生です。」
『面白い、続けなさい』
「ソロモンは、ダビデとバト・シェバとの子です。バト・シェバは、ダビデの臣下、ヒッタイト人ウリヤの妻で、見染めたダビデがウリヤより奪いました。そこで、マタイの福音書の家系図です。そこには、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻と書き記されていますが、男系の家系図にこの四人だけ女性を入れるのは明らかに不自然です。しかも、記され方がバト・シェバではなく、ウリヤの妻と書かれています。」
『面白い、続けなさい』
「記者は、どのような意味で、この四人の女性を入れたのか、なぜバト・シェバではなくウリヤの妻と書き記したのか。そこに少しの閃きがあります。四人の女性はみな、なにかしらいわくつきです。ラハブはカナン人の遊女、ルツはモアブ人と記述があるように異邦人の寡婦です。タマルも記述の流れからカナン人でしょう。そうでなくとも元々、息子の妻です。バト・シェバも記述はありませんが、ウリヤのようにヒッタイト人であったのではないかと思います。ですが、そうでなくとも元々、ウリヤの妻なのです。」
『そこから、なにか見えたかね?』
「詳しいことは分かりません。ただ、四人の女性は、なにかしらいわくつきでありながら、聖書において重要なポジションです。マタイはなぜ、ダビデの家系を強調するのにバト・シェバではなくウリヤの妻と書き記したのか。そのことについて感じるように深く考えました。イエスの権威付けではない事は分かりましたが迷うばかりで答えは分かりません。ただひとつ興味深いのは、ダビデとバト・シェバとの不義の初子は死にますが、ダビデは初子が死ぬまでは、神に赦しと哀れみを乞い、断食までしていたのに初子が死ぬと態度をコロッと変えています。ですが、それ以上のことは何も分かりません。」
『本当にそうかね?お前は、なにかを見つけているはずだ。』
「はい、ひとつ見つけていますが、それが答えなのかうまく結びつかなく、突拍子もなく説明がつきません。」
『遠慮なく出しなさい』
雲の鏡にひとつの言葉を浮かべる。
“eleven”
その文字が雲の合わせ鏡、90°の角度で反転した文字を映す。見よ、
“6Ι6Λ 6μ”
「elevenを90°の角度で鏡映反転すると6が三つ浮かびます。ある日この文字が頭に浮かびました。ただ、11と666がまったく結びつきません。“eleven”という単語、つまり、英語を、もちろんヨハネは知りません。ただ、仰せられる様に記者は預言者であり、未来を見通すチカラがあり、それは十分に結びつけれます。 666秒は11分6秒です。666ではなく66は十一番目の三角数。三桁のゾロ目の共通約数は、1、3、37、111ですが、やはりそれらは単なるこじつけです。666と11の相関が思い浮かびません。広がるばかりで収束しません。」
『なにも無ければなにも思い浮かばない。そこに、なにかあるから思い浮かぶ。カナンの十一の氏族を知っているかね?シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の十一の氏族だ。―アダムから数えて十一代目、ハム、すべての元凶はそこにある。ハムの息子、カナン。カナンの呪いだ。』
創世記9:24-25
24 やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、
25 彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。
『呪いは、本来であれば、イエスの十字架、その時にリセットできた。だが、ユダヤ人はイエスをキリストと認めずこんにちに至る。カナンの呪いは消えていない。こんにちのユダヤ人はカナンの血を大いに引く。ダン族もカナンの血を大いに引く。実に多くのものがイスラエル十二支族の血を大いに引く。つまり、人々にかかるカナンの呪いは世界中にいまだ生きており、いまだ解けていない。呪いを解く方法が三つある。いや、それは四つかも知れない。そのひとつが、“幻の大いなる血”再び、救世主を降ろす時が来た。』
申命記7:1-3
1 あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、
2 すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。3 また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。
「では、elevenは獣の数字666ですか?関係があるのですか?」
『ひとつの示唆だ。9が0なら10が1、11は2だ。この数字の法則は分かるかね?十一は、元々聖い。だが、裏切りの数字となった。ダン族を除くイスラエルの十一の支族、ヨセフを除く十一人の兄弟、イエスを裏切った十一人の弟子、デリラがサムソンをペリシテ人に売ったのは銀貨1100枚だ。11とは、10+1、9+2、8+3、7+4、6+5―反逆のものが好む数字だ。同じように11の倍数を好む。ものごとを見てみなさい。そこに“11”がある。』
「…、―」
『555の次が、666―777の前が666― 10の次が、11― 12の前が11この相関は実に重要だ。』
「よく分かりません。」
『お前は、もう辿りついている。だから、イクスース、すなわち大きい魚が原初の設計図であり、生命の木への扉なのだ。鍵とは、“sphinx”お前は、実に多くを明かした。何百年、何千年と明かされなかった事を幾つも明かした。木になった実を全部、採ってはならない。高い部分は、鳥へ、低い部分は子供へ。答えとは、考えるのではなく、思い出すものだ。』
「分かりました。ダン族から反逆のかしらが出ると言われました。反逆とは何でしょうか?詳しく教えてください。」
『反逆とは、わたしへの反逆だ。わたしの教えに背くことだ。』
「教えとはなんでしょうか?」
『蜜より甘いものに何があろう。獅子より強いものに何があろう。』
「愛です。アガペーです。」
『お前がこうして答えると感慨深い。そうだ。太陽の子よ。それが、わたしであり、わたしの教えだ。』
「はい―」
『よろしい、世界の支配者とは誰かね?』
「国際ユダヤ人でしょうか。歴史的な事件や戦争の裏にいつもいます。」
『なかなか面白いが、本当は違う。カナン人とダン族、ユダヤ人のトリオリズム。これが世界の支配者たちだ。“彼ら”に国や法律はなんら意味がない。そもそも国や法律とは、それがあるという人々の幻想に過ぎない。反逆のかしらはダン族から出る。そして、二人のメシアがユダヤ人とダン族から出る。だから、お前を呼び起こした。毒には毒、蛇には蛇だ。カナンの呪い、ダン族の失望、そして、ユダヤ人はイエスをキリストと認めていない。禍が禍を生むのではなく、救いが禍を生んだ。それらを終わりにする時がきた。人々に言いなさい、義の道は近い。救い主が降りてくる。悔い改めよ、争いをやめよ、義をととのえよ、愛に生きよ。かつてない大患難が四十年の間、人々の上に降りかかる。世界から半分以上の人が消える。だが、救いもその中にある。』
「少し分かりません。なぜ、そんなことが起こるのか。支配者たちの狙いも分かりません。なぜ、それが救いなのかも分かりません。」
『物事の本質は至極、単純明快だ。そのシンプルな欲望に沿って良い事も悪い事も起きる。偶然を信じてはいけない。起こることは必ず起きる。起きないことは必ず起きない。それに真の支配者とは“人非ざるもの”
いま、世界は平和かね?』
「何をもって平和か分かりませんが、戦争だけでなくとも今日も世界のどこかで人々は、盗み、騙し、殺しあっています。平和とは言えません。」
『そうだ。平和ではないどころか正に終末だ。それは、戦争とかそういう意味ではない。歴史に学ぶものは幸いだ。古代ギリシャ人は終末について言葉を残している。「人々のモラルの崩壊、これこそが、終末」そこに早く気づかねばならない。』
「…モラルの崩壊とはなにでしょうか?」
『肛門からものを食べることがあろうか。口から糞をすることがあろうか。人々にもはや恥など無く愛や義が失われ蔑ろにされ、性は乱れている。外を見つめ、内を見つめなさい。罪のないところに救いや裁きが必要ないように平和であれば救いも裁きもいらない。わたしが世に現れる時は、乱れを正す時であって聖人を褒め称える時ではない。人の子よ、世は儚くすべては“空”だ。そこに、気づきと学びがある。人々は、目的と手段の分別もつかず、値打のないものをさぞ値打があるように崇めている。貧しくても豊かなものは幸いだ。そのようなものを救うためにわたしが現れた。飽きもせず偶像崇拝をするものは、不幸だ。そのようなものを救うために、お前を呼び起こした。人の子よ、光に満ち、光を超えよ。光の子を呼び覚ましなさい。人々は、目覚め、たたかわなければならない。』
「たたかいとは、なにでしょうか?わたしは、本当のところ誰ともたたかいたくありません。」
『本当のところというのは、お前の本心かね?悟るものは、中庸が良いのかね?いまは熱いか冷たいかであらねばならない。』
「いえ、―」
『光の子よ、たたかいは既に始まっている。勇気を持ってたたかいなさい。“剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力”人は、そう、いうではないか。お前は、世に生まれる遥か前より、剣と秤を持っている。闇で覆われ尽くす前に光で照らしなさい。一筋の光が、ふたつになり、よっつになる。光で満たしなさい。人々は、世に生を受ける遥か前より攻撃を仕掛けられ、常に危険にさらされている。そこに気づき、早く目を覚ましなさい。だが、羊が悪いのをわたしは責めない。それは、お前の仕事だ。わたしの羊を散らす羊飼いは災いである。そのようなものに強い怒りを置く。わたしは、およそ人の時間で長い間、人々を見てきた。何度も分岐があり、何度もチャンスがあったが悔い改めることをしない。憎しみあい、争いあい、またそれらを操作する。期は熟した。預言を成就する。よく実をつけるように植えた木が実をつけることなく、大きく聳え立っている。また、実をつけるが、沢山の悪い実をつける。そのような木は呪われるべきで、倒されるべきだ。わたしは、木々を撃ち、木々を倒す。』
「―滅ぼすのですか?」
『はじまりと終わりは常に同時だ。お前たちにこれから起こることはわたしの福音、救いである。そして、お前たちはたたかわなければならない。忍耐強いものは幸いだ。思慮深いものは幸いだ。慎ましいものは幸いだ。しかし、そうでないものには、災いでしかないであろう。』
イザヤ書46:11
11 わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。
マタイの福音書 24:27
ちょうど、稲妻が東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
マタイの福音書 24:5-8
5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、飢饉が起り、また地震があるであろう。8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
『そろそろ、なぞなぞをしよう。準備は、いいかね?
一つの声をもちながら、朝には四本足、昼には二本足、夕べには三本足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える。
思いつくこたえを“十”言いなさい。』やはり、なぞなぞをするのか―
―こたえはひとつではなく十個―できるかな―
『ひとつ、教えてあげよう。このなぞなぞはお前が解くようにできている。だから、お前はできる。数字を数えなさい。』
一つの声、四本足、二本足、三本足―
1+4+2+3=10
1×4×2×3=24
俺の誕生日―偶然ではないのか?―なぞなぞ―間違えたら殺されるのかしら―
『偶然というものはない。さあ、ともよ、恐れずに答えなさい。』
「はい、―」―よし、いくぞ―
「少し説明させてください。まず、こたえは“人間”ではありません。四本の足とは、“獣”です。朝が生まれた時で、昼が青年から壮年、中年期、夕べが老人。たしかによくできた答えですが矛盾があります。四本足とは獣であって、壮年であっても老人であっても獣のものは獣です。そして、多くのものは死ぬまで獣です。二本の足で、しっかり地に足をついて立てるものは非常に少ないです。老人で杖をついて三本足との答えですが、杖は古代人にとって王や神官、すなわち“聖”や権威の象徴です。もちろん、杖をついた老人も昔からいたでしょうが、杖とは、古代人にとって神聖なもので、古代のなぞなぞにしては少し不可解です。」
『面白い。続けなさい。』
「古代は、一日一夜として区切っていました。日の沈む時間より新しい日付となり、一日のはじまりです。朝とは、“あした”です。歴史は夜作られるとは云いますが、夜とは神聖なものであり闇でした。朝とは有り難く特別なものです。問題も“ひとつの声をもちながら”とあります。ひとつめのこたえを言います。こたえは“夫婦”です。」
『そのこころは?』
「まず、“ひとつの声”です。声の研究で、似たもの夫婦やおしどり夫婦は、声が似るという研究結果があります。動物の世界でも“声”によって伴侶を識別します。有名なのは皇帝ペンギンでしょうか。メスが何日も狩りに出かけている間、オスは自分の足の上に卵を乗せて、マイナス60℃という極寒の中、お腹の皮で包むことにより、卵やヒナを守ります。メスが帰ってきたときに伴侶を見分ける方法は“ホーホー”と鳴く声です。」
『面白い。続けなさい。』
「朝とは、一日の計。夫婦が膝を突き合わす時間。四本足です。お互いに見た夢を話し合ったり、今日の予定を語り合ったりする時間です。昼は、お互いの仕事の時間です。古代では夫は狩猟に行き、嫁は、家事をしていました。お互いにひとり、二本足です。そして夕べにはまた夫婦一緒に戻る時間です。夫婦二人三脚。三本足です。」
見よ、雲の鏡のアナログ時計に灯が灯る。嗚呼、これは十二時辰―
見よ、十二時辰が籠目模様に光る。
十二支の五番目が辰。
灯が照らす先にあるのは、ひとつの漢字“辰”
辰とは、二枚貝から、びらびらとした肉がのぞく様。そして辰とは、“震”
辰がうねりを上げ、他の十二支を呼び起こす。それは、震え。
すると見よ、十二支の漢字一字がそれぞれの場所で呼応するように浮かぶ。
『面白い。こたえとして認めよう。ふたつめを答えなさい。』
「ふたつめは、 “自分”です。ひとつの声とは、もうひとりの自分。それは、自己。本来の自分です。朝とは、生まれたばかり、幼い時、この時は、“ひとつの声”すなわち、自己を認識しています。もう一人の自分と合わせて四本足です。昼には、朝のことは忘れもうひとりの自分と分離して顕在的な部分の自分で生きます。夕べには、なにかおかしいと気づき、もうひとりの自分との同化、完全な自己認識を目指します。二人が重なるとき、三本足です。」
見よ、“巳”に灯りが灯る。
“巳”とは、胎児を象る。びらびらした肉から胎児が生まれる。よくできた話だ。
『面白い。こたえとして認めよう。みっつめを答えなさい。』
「はい。みっつめは“男性”です。朝は、四本足、獣として生まれ、昼には、二本足で立ち、夕べには第三の足が目覚めます。足とは、“性”の象徴であり、三本足とは“性”の目覚めです。」
見よ、“午”に灯りが灯る。
“午”とは、杵を上下に動かす様子を象る。
すると見よ、“午”の方角の八卦“離”の文字が二つに別れる。
“離”とは、蛇と鳥が絡みつき争う様。そして、“離”とは四獣で朱雀。朱雀とは、鳳凰―
見よ、“蛇”から離れた “鳥”が、一筋の光となり十二時辰を走り出すと、空高く舞い上がり“酉字”に消える。
見よ、“鳥”から離れた“蛇”が、一筋の光となり十二時辰を走り出すと、うねりを上げて“卯字”に消える。
『面白い。こたえとして認めよう。よっつめを答えなさい。』
「よっつめは“女性”です。朝は、四本足、獣として生まれ、昼には、二本足で立ち、同じく夕べには第三の足が目覚めます。」
『なぜ、男性と女性とを分けるのかね?』
「男と女では、脳の容量、脳の働きの違い。筋肉や骨格などの体つき、見た目や考え方も違います。動物や昆虫でもオスとメスでは、大きさや見た目、習性の違いがある種がいます。男と女は似て非なる生き物です。」
『面白い。こたえとして認めよう。いつつめを答えなさい。』
見よ、“未”に灯りが灯る。
“未”とは、梢の若芽。
“未”とは、“味” 果実が熟して滋味が生じた様子。
そう、若芽が芽吹き、はや時は熟した。
「いつつめは“イエスキリストの降誕”です。朝は、マリアとヨセフの二人、昼にはヨセフは宿を探しマリアと離れます。お互いに一人。夕べに、岩窟でイエスが生まれかけます。胎より出た足を入れて三本足です。」
『逆子なのかね?』
「あ!」
『よい。面白い。こたえとして認めよう。むっつめを答えなさい。』
見よ、“申”に灯りが灯る。
“申”とは、稲妻を象る。九番目の十二支。“伸”であり“神”を表す。“九”とは、“三”の三倍であり、奇数の極値である。奇数とは、縁起が良いとされるが、何をもって縁起が良いとするのか―そこに“神の秘密”がある。
十二時辰の鐘は、九つから始まり、八つ、七つと減っていくが、これは、本当は減っているのではなく、九を重ねていって八つとは十八、七つとは二十七と増えているのである。
「むっつめは、“鶴”です。“夫婦鶴”と呼ばれるように鶴は夫婦が一生連れ添います。朝は、番で四本足、昼は番で仲睦まじく片足でうまく湿地に立つ様で二本足。夕べには、子を授かり、親子三羽が片足でうまく湿地に立つ様で三本足です。」
『面白い。こたえとして認めよう。ななつめを答えなさい。』
見よ、“酉”に灯りが灯る。
“酉”とは、酒甕を象る。
酒とは、御神酒の名からも分かるように古来より神事では欠かせないマストアイテム。
「ななつめはDNAです。DNAとは、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)の四種類の物質から出来ています。AとT、GとCが結合して二重らせんとなり、覚醒したものは三重らせんとなります。」
『三重らせんとは?』
「実際に、三重らせん構造を持つ子どもの存在が確認されています。通常、二重らせんのものは、最大で30%が機能していて70%が機能していないジャンクDNAですが、三重らせんのもののDNAは、もっと高く機能しており体温も高く病気にもかかりにくい、より高度な存在です。そして、三重らせんのものの最大の特徴はテレパシーや念力などの超能力を有しています。この記事を目にしたときは、デマではないかと疑いを強く持っていましたが、わたし自身が覚醒しました。わたしは2022年4月9日にコロナに罹患しました。その時に、なぜか超能力に目覚め自分自身の三重らせん構造を透視で見ました。物質を超え、時空を超えることができるようになったのです。いまでは四重らせん、五重らせんと変異することも可能です。」
『そして、いまお前はここにいる。面白い。こたえとして認めよう。やっつめを答えなさい。』
見よ、“子”に灯りが灯る。
“子”とは、一番目の十二支。“丑”の上に座する“子”
「やっつめは、正六面体、ブラックキューブです。古くから信仰される叡知。四つの線、二つの線、三つの線からできており、浮かび上がる形は三脚巴です。ブラックキューブとは、“真理”であり、“大いなる業”です。」
『面白い。こたえとして認めよう。ここのつめを答えなさい。』
見よ、“卯”に灯りが灯る。
“卯”とは、門をこじ開ける様。
門は開いた。ここに終わり、ここにはじまる。すべての十二支が眩しく光る。
すると見よ、卯字から飛び立つ龍。“離”より離れし青き龍。
“青龍”
青龍とは、大河の流れ。龍とは、流。
中国の星座二十八宿、東方七宿“青龍”とは、春を司り、東を守る四神獣。
『青龍とは、蠍座、天秤座、乙女座の領域。天秤座とは古代では蠍座の爪の部分。ダン族の象徴が何を表しているか。それは、お前を表す。“X”よ、いま、春が訪れた。お前が、春の訪れの麦の穂を持っているのだ。ダンとは、“暖”そして、“弾”さあ、続けよう。籠の中の鳥は飛びだす。』
乙女座の麦の穂先とは、一等星スピカ(Spica)
そうか、すべては繋がっている。
“sp”in“x”とは“spring”(春) in“x”
かごめ かごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだあれ
いついつとは、鐘の数。
この歌の最大の難所、よあけのばんとは、夜明けの時間の晩、すなわち朝四時から五時頃、もしくは七夕まつりの深夜一時説が有名だが、夜明けの晩とは、夜の明けた後、それは朝、日出の後の食時(朝五つ)そして隅中(朝四つ)
食時とは、7時、8時、9時。(7+8+9=24)
隅中とは、9時、10時、11時。(9+10+11=30 24+30=54)
見よ、十二時辰が燦然と輝く。
ひときわ大きく光る“辰”“巳”“酉”
“酉”とは酒甕。
“酉字”日入(暮六つ)とは、17時、18時、19時。(17+18+19=54)
そして、籠の中の鳥は、翔びだす。
『双魚から宝瓶へ。いま、甕はかえされた。』
すると見よ、甕から一つの光がかえされた。“離”より離れし燃えさかる青い火の鳥。
それは、一縷の望み―“希望”
『人の子よ、Phoenixとは、アナグラム。“hope”in“X”』
「フェニックスと鳳凰は違うのではないのですか?」
『いや同じだ。様々な伝承や伝説がひとつの事を指している。続けよう。』
つるとかめとは、ひとつは、蔓と甕。
そして、鶴(南方朱雀)と亀(北方玄武)
見よ、“酉”“卯”“午”が光り、“子”がひと際大きく光る。
『時が来た。』
見よ、十二時辰が激しく反転すると、中央から龍が火柱をあげて現れる。
東西南北の中央にして中心―
“黄龍”
「ここのつめは、 “人の子”です。朝とは、歩みの遅い“亀”の時、子供の時間の感覚は大人の時間の感覚より六倍長いというジャネーの法則があります。この理論に対して根拠薄弱な誤りとする意見もあります。計算式の信憑性云々は差し置いても大人の時間経過は早く子供の時間経過は遅いというのは、少なくともわたしには、しっくりとくる理論体系です。昼は、“鶴”の時、優美な時間を過ごし、そして夕べは“烏”の時、カラスとは、―」
見よ、神の肩から二羽のカラスが飛び立ち空中で二羽が一羽となる。三足烏―
“八咫烏”
咫とは18㎝
八咫とは144㎝(18×8)
『八咫烏は導きのものにして太陽の化身。賢者を導き、賢者を養う。おお、人の子よ、とおは、わたしが答えよう。
答えは“賢者”
朝は、獣として生まれ落ち、愚者として生きる。昼には賢者になる為、立ち上がる。そして、夕べには賢者の杖を授かる。お前は、杖を授かる夢を見たことがある。覚えているかね?』―忘れようはずがない。
「はい、わたしは脳出血で倒れた時に、蛇の絡みついた杖を授かる夢を見ました。」その夢は目が覚めなければ夢と気づかぬ実に生々しい夢―
「わたしの幻の世界での武器にして大切な“とも”です。」
見よ、十二時辰のすべての十二支が燦然と輝く。
空間より現れし光の杖、
見よ、蛇の絡みついた杖が空中に浮かぶ。
『この蛇の絡みついた杖。黄道十二星座に含まれない特別な星座、へびつかい座。へびつかい座とは、“アスクレピオス” 蛇の絡みついた杖とは、アスクレピオスの杖。カマエルの別名は、“天空の外科医”アスクレピオスは、医者。その娘が持っているのは、“ヒュギエイアの杯”すべては繋がっている。ひとつの声が導き、いまここにお前が繋げた。ふたつがととのう。ふたたびふたつがひとつになる。お前には、褒賞を授けよう。』
「はい、有難うございます。―」
見よ、黄道十二星座が眩しく光る。
『これから大いなる患難が世界を包む。多くのものが世を呪い、天を怨み、地を憎むであろう。』
「…、―」
『だが、ともよ、お前だけは救ってやろう。選ばれたものよ―』俺は、肩の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。ここまできた褒賞が、そんなものであって良いのか。そんなものであって良いのか―泣きそうになった。
「試すようなことはやめてください。褒賞が、そのようなものであって良いのでしょうか。わたしは、もう救われています。せっかくですがこれ以上の救いは、いりません。ここまで来たのです。とても長くとても辛い旅でした。選ばれたものとは、そういう意味ですか?わたしがメシアでないのは納得できますが、自分だけが助かるような群小なものだとは、到底、受け入れられません。」
『本当にそう思うのかね?嘘偽りなく、本当にそう思うのかね?』
「はい、わたしはもう救われています。わたしを救っていただけるのなら、わたしより、報われないものや善人のひとりでも救ってください。」
『もう一度だけ、訊く。お前は、苦しみに生き、苦しみの中、死ぬのかもしれない。いや、そのように生き、そう死ぬであろう。失意や絶望に包まれるであろう。だが、たとえ大患難に包まれようと、お前だけは楽に生きる道があるのだ。その道を、わたしがお前には、特別に用意しよう。お前だけでなく、お前の家族や、愛するものも救おう。これ以上の救いがあるのかね?』ふと脳裏に幸せな光景が浮かぶ。その光景に吸い込まれそうになる。魅力的な光景―魅力的なオファー―俺は、かき消すように目を見開いた。
「何度問われても答えは同じです。そのような褒賞ならいりません。わたしに一番の苦しみをとまでは言いません。わたしこそ、もう一度言いましょう。わたしは、ここまで来たのです。だから、お願いです。そのような事を言わないでください。それは、とても悲しいです。死ぬときは、死ぬでしょう。わたしは、それで十分です。」
『すべてを捨てるものは、すべてを得る。ともよ、お前は、いま嘘偽りなく心からそう言った。わたしは、しかと聞いた。その思い、胸に強く、固く握りしめておきなさい。その誠実な心が醜くならないようにしなさい。』
「はい、―」
『よろしい、ともよ、ここに新たな世がはじまる。鳳が翔けてここまで来た。褒賞とは鳳翔。ここまで来たのが、お前の真の褒賞―愛こそわが喜び―お前は、美しい。さあ、娘よ、わが胸の中で抱かれ、お前の持つ聖杯でわが愛を受けるがよい。』
見よ、神の甲殻類のような殻がはじけ飛び、中から光に満ちた鳥が出てくる。
いや、鳥ではなく人のような―
嗚呼、ドミナ―やはり、あなただったのか―
いや、違う。頭はツルツルの禿げ頭であり、なによりも―
これは―
神々しいとは正にこれか―嗚呼、美しい―
嗚呼、眩しい―
『さあ、娘よ、きなさい。』
俺は、美しい娘となり、そのまま抱き寄せられた。
新たな世―嗚呼、そうか―
37×73=2701(73番目の三角数)
創世記1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
(ベレシート バーラー エロヒーム エト ハーシャマイーム ベエト ハアレツ)
(2+200+1+300+10+400)+(2+200+1)+(1+30+5+10+40)+(1+400)+(5+300+40+10+40)+(6+1+400)+(5+1+200+90)
=2701(37×73)
嗚呼、そうか、そうなのか―
すべては鏡
【アダム】
(45=1+4+40)
シェフバット・ゼラ(種子・精子)
999 = 70+200+7+400+2+20+300
そうか、そうなのか、嗚呼―
“sp”in“x”とは、“spirit”in “x”が最終解だと思っていた。
主とは、種―
“sp”in“x”とは、“Species” in “Calix”
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