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1 発端(1)
「お嬢様、そんな恰好で外へ出るなどなにをお考えなのです。爺は恥ずかしゅうて、お亡くなりになった大旦那さまに顔向けが出来ません」
太正八年春、帝都東京市麹町区三番町・英国公使館の向かいに建つ秋月伯爵家では、いつものように執事・乱丸の大声が響き渡っていた。
その相手は、これもお決まりのこの家の次女である〝秋月薫子〟である。
「もう、いつもいつも爺は煩いのよ。あたしがどんな恰好をしようと勝手じゃあないの、いまはもう太正の御代なのよ。明冶やまして慶應・元治じゃないんだから、女が軍服を着てどこが悪いのよ」
そこには帝国陸軍機神隊将校のなりをした、まだ十代半ばの少女が立っていた。
あろうことか腰には軍刀まで佩いている。
「それにそのお言葉使いもお改めください。男子のように乱暴なもの言いを婦女子がするものではありません。ましてや室町第から続く名門秋月家のご令嬢なのです、も少しお淑やかになってくださいませ。姉上さまはあのようにおとなしくあらせられますのに」
姉とはふたつ上の冴子のことである。
女学校を卒業すれば、侯爵・薗田家の長男である薗田近文との婚姻が決まっている。
「お姉様はお姉様、あたしはあたしよ。あたしはあんな猫っかぶりの生き方なんて嫌なの、乱丸はモガって言葉知ってる? いまはみな好きな恰好をしていいの、太正デモクラーシーよ」
「なにがモガでございます。そんなカフェの女給や成り上がりの家の不良女子のような真似は、この乱丸が生きておる限りはさせませんぞ。お民、お初、早くこんなものはお脱がせ致せ。外を歩けるお召し物を着せなさい」
老執事・乱丸杢兵衛の大声に応え、女中らしい女が現れた。
「まあまあ、なんてぇお勇ましいお姿を――」
四十絡みの小太りのお民が、目をまん丸にしている。
「薫子さまはなにをお召しになってもお似合いですね、初はそんな薫子さまも好きです」
十代後半らしいお初は、うっとりとした目で軍服姿の薫子を眺めている。
「でしょ。いまは女だから男だからと、古臭い時代じゃないの。生きたいように生きる、着たいものを着る、そんな時代なんだから。自由、そう自由よ」
お初に褒められ、薫子は制帽をより目深に被り嬉しそうに微笑む。
薫子の背丈は五尺四寸六分(約百六十五センチ)もあり、当時の女子としては目立って高い。
(当時の平均は、男性五尺三寸、女は五尺に満たぬほど)
「なにが自由でございますか。自由とは、自らを由とすると書くのですぞ。それにはそれなりの覚悟と責任が伴うのです、なに勝手をしても良いというものではありません」
「ほうら、また爺のお説教が始まった。もう耳に胼胝ができたわ」
「なんにしてもそのようなお姿であれば、一歩もお屋敷からは出しませんからな。旦那さまと奥さまがお留守の間は、この乱丸に責任があるのです。さあお前たち、早くお着替えさせよ。もうじきに龍彦さまと栄一郎さまがお着きになる、駅までお出迎えに行かねばならんのだ。急いでくれ」
「さあお嬢様、奥へ参りましょう。早くせねば叔父上とお兄様のお出迎えに遅れてしまいますよ」
お民に促され、不承不承薫子は自室のある二階へと姿を消した。
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