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<川瀬祐一>  ダメだ。  ダメだダメだダメだ。  起きたくない。  行きたくない。  朝の光を採り込むまいと堅く目を閉じ、布団の中で何度も輾転反側を繰り返す。  何で俺、教師なんかになっちゃったんだろう。  子どもなんか好きでも何でもなかったのに。  絶対向いてなんかいないって分かってたのに。  不況のせいか。  一般企業に就職しようにも、俺なんか採ってくれる企業はなかった。  取り敢えず教員採用試験受けてみたら、今人手不足らしくて、簡単に受かっちまっただけだ。  ラッキーといえばラッキーだけど。  受かった時はラッキーだって思ったけど。  そりゃ、職がないよりはあった方がいいに決まっている。  友だちも、就職できなくて派遣やってて首切られたって泣いてたし。  そうか。ラッキーだよな。  俺なんかに職があるだけありがたいと思わなきゃならないよな。  毎日そう思い直して学校に行くたび、クラスを飛び出して駆け回る子どもを追いかけ、追いかけている間にクラスがガチャガチャになり、机が倒され窓ガラスが割れ朝顔の鉢はひっくり返され、ケンカが起きてその仲裁をしている間に熱があるのに無理して来た子がゲロ吐いてその始末をして、やっと落ち着いたと思ったら授業時間は終わって休み時間になって、休み時間にまたケンカやケガが起きて、仲裁に駆け回ってる間に三時間目が終わって、やっと一時間勉強したらすぐに給食になって、食器が割れてスープを零してそれで火傷してまた保健室連れてって、その間にまた食器が割れてケンカが起きてスプーン床にばらまいて、それでもなんとか食べ終えても掃除がこれまたたいへんで、長箒を振り回して目に突き刺したヤツを介抱してる間に、雑巾投げて遊ぶヤツ、廊下で追いかけっこ始めるヤツ、隅に固まって馬鹿話に興じるヤツ、校庭に逃亡するヤツもいたりして、そいつら怒ったりなだめすかしたりしながらようやく掃除を終え、やっとこさ少しだけ勉強らしいことしようとしても、話は聞かねえノートは取れねえ理解はできねえテストは零点。さようならでようやく終わりかと思いきや、近隣住民の方々からイタズラやら大声やら交通ルール無視やら万引きやらの苦情が殺到する。どうしたらいいんだよもう。精神病みそうだ。  あああああ、だるい。  ううううう、いやだ。  行きたくない行きたくない行きたくない行きたくない逝きたくない。  あんな所に行ったらもうほんとに逝っちまう。  薄目を開け、枕元の時計をちらりと見る。  時計の針は七時半を回っていた。  何にしても、副校長に電話しなきゃ。  殻を抜け出るヤドカリ本体の如く、ズルズルと布団から這い出て棚の上の携帯を手に取る。  安っぽい呼び出し音の後、受話器をとる軽い音が鼓膜にちくりと刺さった。   『はい、柴浦小学校です』  あれ? この声。  この明るくてかわいくてハキハキした声の持ち主は。 「……あ、もしもし。あの、川瀬です」 『あれ、川瀬先生? どうしました?』  高島先生だ。  俺の一年後輩、今年採用の新卒で、やる気満々生徒にモテモテめちゃめちゃかわいい女の子。 「あ、いや、その……副校長先生は」 『今席外してますが、……よろしければ、お伝えしますよ』  マジ?  三秒間の沈黙。   「あ、い、いえ、……その、ちょっとやむを得ぬ事情がありまして、登校が……そうですね、もしかしたら十分ほど遅れるかもしれない旨、お伝え願えますか」 『あら、どうしたんですか? 具合でも……』 「え、ええ、ちょっと腹痛で……でも大丈夫です。治まってきたから、ひょっとしたら遅れなくて済むかも」 『無理なさらないで下さいね。分かりました。副校長には伝えておきます』  無理なさらないで下さいね、だって。  まともに話したの、もしかして初めてかも。  緩んでくる頬を無理矢理引き下げ、仕方なく、あくまで仕方なく顔洗って着替えて荷物抱えて家を出る。  我ながら単純な自分がちょっと悲しい。  でもまあ、出勤するきっかけになった訳だからよしとしよう。  通勤客でごった返すホームを先頭車両まで進む。いつも乗り込むお決まりの場所に、いつも並んでいるお決まりの人々。ほらいたいた、このおばさん。いつも三番目くらいに並んでて、携帯メール見てる。待ち受け画面にしてるの、子どもかなあ。サラサラの茶色いロングヘアが美しい女子高生も一緒。毎朝の目の保養できて嬉しい。あれ? あの学生さんがいないな。微妙にさえない感じの、自分の学生時代を思い起こさせるような容貌の……あ、きたきた。走ってきた。これで揃った、いつものメンバー。欠けるはずだった俺も揃って乗り込む、四十四分発急行天ヶ崎行。お寿司さながらぎっちり詰めこまれた俺たちを、今日もしっかり運んでくれよ。
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