帰郷

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帰郷

【目覚めるときには、いつも水の音がした。  ひたひたと、ひたひたと。  幼いわたしは、あれが泳ぎ来る音だと、信じて、疑わない。】 「潮風が心配だったけど、思ったより痛んでいないのね」  裏口の木戸をくぐり抜けた母がそう言って、かがんだ腰を伸ばした。 「でしょう?」  私は、かつては店舗だった引き戸の鍵をあけて、建物の中へと母を招き入れた。 「電気は?」 「まえに来たときに手続きしたから、電気も水道も大丈夫。プロパンガスは明日配達されるの」  壁のスイッチを押すと、天井の蛍光灯がついて室内が明るくなった。以前店舗として使われていた室内には、壁に作り付けの戸棚が数段あり、板の間には昔ながらの木で作られたショーケース、というにはあまりに古めかしいガラスをはめた陳列ケースがひとつ残っている。  家を整理してから店の中に初めて入った母は、しげしげと店内を見渡した。 「商品を処分したら、だいぶ広くなって」  それから、通りに面した入り口のカーテンを引いて鍵を開けるよう、私に指示した。 「ほら、なかなかすてきでしょ」  戸口をいっぱいに開けると、ささやかな商店が並ぶ一軒になる。かつての街道の狭い通りを車が行きかう。歩いている人影はほとんど見えない。たしか向かいにはお花やさんがあったとおもったけれど、今は錆びついたシャッターが下りている。辛うじて営業しているのは、靴屋兼クリーニング取次店、ちいさな電気店。元からの商家が並ぶ狭い旧道ぞいのせいか、近所にはコンビニの一軒もない。 「きれいな水ね」  店の前には道路と平行して石造りの水路が流れている。鮮やな緑の藻が透明な水の中、ゆらめいている。通りから店に入るには、ごく短い石橋というか大きめの側溝の石のふたを渡ることになる。こんな水路が町中に張り巡らされ、さらには店の裏手には江戸時代に造られた水路と呼ぶにふさわしい堀川の流れがある。堀川は澄川(すみかわ)湾へと続いていて、かつては水運の町として栄えていた。今はさびしいかぎりだけれど。 「カフェをするには、うってつけだと思う」  独り言ちしながらも、私は腰に手を当てて、これからのことを考えた。  まずは、家の中を片づけること、リフォームは水周りを中心に。前回来たときに雨漏りの心配はないことを確かめたけれど、床や基礎まで無事かどうか分からない。 「けっこうかかりそうね。お金、間に合うの?」  お金のことを言われると、正直心もとない。 「慰謝料でなんとかやりくりするわ。なんたって、たっぷりもぎ取ったからね」 「汐里(しおり)ったら……」  私の言葉に、母は返答に戸惑っているようだ。思わず私は言い繕う。 「いきなり開店するわけじゃないし。市の起業セミナーに出るでしょ? そこで企画が通ったら融資もして貰えるから」  町おこし、澄川市役所主催の商店街の活性化事業には申し込み済みだ。 「そうね、手伝えることがあるなら、母さん手伝うから」 「この家を使わせて貰うだけで十分」  そう、と答えると母親は小さくうなずいた。 「今日はとりあえず寝る場所だけでも確保したいから、夕方までに掃除を終わらせないと。お母さんは、お家でかわいいお姫様が待っているでしょ」  弟夫婦にはつい先日、女の子が生まれた。両親待望の初孫が実家にいる。子なしのまま戻って来た私に気兼ねしていると思う。両親も弟夫婦も。私がことさら明るい声で言うと、母もようやく納得したように顔を上げた。 「ここ、すぐ隣が台所だからこっちとつなげてお店のスペースにしようと思うの。だから、その奥の部屋を使うことにするわ。一番奥の座敷って、仏間だったんでしょ。仏壇は片づけられてるけど、ご先祖さま方の写真がちょっとコワイ」  仏間の鴨居には、紋付きの着物やスーツ姿の白黒写真が部屋を取り囲むようにぐるりと飾ってあるのだ。 「親戚っていっても、あまり会ったこともないものね、汐里は。ここの(はじめ)伯父さん、覚えてる?」 「最後に会ったのは六歳だったし。それからすぐに澄川から引っ越したでしょ。お年玉が毎年五百円玉いちまいだったのは強烈に覚えている。でも、なんだか無口で怖い人って印象しかないな」  母親はお年玉のくだりで吹き出して、台所の蛇口をひねって水をバケツにくんだ。 「伯父さんていっても、後妻の子どもだったお父さんと二十くらい違っていたし、母さんもあまりお話ししたこと無かったわ。今となったら、もっと話しておけばよかったかな」  伯父は江戸時代から続いた乾物屋を営んでいたが、二十年ほど前に旅先で亡くなった。乾物の買い付けに出かけてのことだったと聞いている。生涯独身、親戚づきあいもほとんどなく、ただひとりでこの家に住んでいたのだ。  店の片隅に、大きな一枚板の看板が残っている。  鰹節、羅臼昆布と共に『甲斐谷庄左エ門(かいたにしょうざえもん)商店』と毛筆で書かれた黒々とした文字が金で縁取られている。  母が奥まで一直線に続く長い廊下に面した座敷のふすまや障子をすべてあけると、五月の光りが畳を照らして裏庭まで見通せた。典型的な町家の造りだ。間口が狭くて、奥に長いうなぎの寝床。  私の車を停めたむこうに、白い壁の小さな蔵とトタンで葺いたガレージが残されている。前回来た時に調べたけれど、鍵がかかってあった。 「お母さん、蔵とガレージの鍵はどこかな」  すでに座敷にもってきたはたきをかけ始めた母に、声を張り上げて訊ねた。 「ああ、お父さんから預かってきたわ。車の中の荷物と一緒よ。中のものは汐里が好きにしてって」  好きに、って言われても古道具しか残っていなさそうだけど。明るい時にでも、あとで中を見てみよう。 「雑巾がけして」  得物を掃除機に持ち変えた母に促されて、バケツを持ち上げたとき、黒電話が派手に鳴ってバケツを落としそうになった。 「……電話?」  掃除機を切って母が不思議そうな顔をした。 「商売するなら、固定電話があったほうがいいって、それで」  店の中で鳴り続ける電話に返事半分でたどり着いて受話器を上げた。  もしもし、という前にいきなりな問いかけがあった。 『カ……タニさん……』  ノイズがひどく、語尾まで聞き取れなかった。 「いえ、甲斐谷の親戚です。どちらさまですか」  ガチャン、と通話が切れた。 「誰から?」  いつの間にか母がすぐ背後にいて、ぎょっとする。 「甲斐谷さんですか、って」  カイタニは伯父の苗字だ。父は婿入りしたので、私の苗字は江間。 「このへんは甲斐谷が多いけど、間違い電話かしら。それとも昔のなじみのお客さんかしらね。でも、店を閉めてからだいぶ経つのに」 「伯父さんの知り合いかも知れないよ」  それにしてもねえ……と、母は首をかしげた。もしも伯父がまだ存命なら、九十近い。百才間近の老人の友人だって、それなりの年だろう。それに、音質が悪くて男か女か分からなかった。なんだろう、ほかにもなにか引っかかるところがあるけど、何なのか分からない。 「電話、変えたら? 呼び出し音、心臓に悪いわよ」 「うん。でもなんだかレトロで雰囲気あるし、ふだんはスマホ使うから」  いずれファックス付きの電話に買い替えるかもしれないけれど、今はこれで間に合う。母は私の懐具合を心配している。心配はそれだけじゃないだろうけれど。それきり話題は途切れた。いつの間にか母は私よりずっと小さくなり、うつむく母の髪には白いものが目立つ。白髪が増えたのは、私が家に戻ってきたことも影響していると思う。 「……じゃあ、日が高いうちに掃除しちゃいましょう。昔よく行ったスーパーは、まだあるかしら。ひと段落したら、お昼を買いに出ましょ」  母は掃除機を強にして畳の掃除を始めた。  少しずつ、この町に慣れていこう。一人の暮らしに慣れていこう。  外から吹き込む風に潮の香りがかすかに混じっていた。
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