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ー暁に旅立つならば。ー編 水崎葵の事 15
「来い。」
棟梁は腕を組み
振り返ると廊下を進む。
葵もしぶしぶと遅れて付いていく。
御勝手へ入る。
屋敷の全員の食事を作るだけあって広く
食器や調理具が並んでいる。
古く使いこまれた台所で
木製の調理台や床、柱の所々に出来た染みや焦げが
歴史を物語っていた。
夜の静かな時間が流れる。
「待っていろ。」
棟梁は手を洗う。
今日の余った飯を取り出すと
塩をきつめに効かせて
手際よく握り飯にした。
5.6個をあっという間に作ると
包んで渡してきた。
そして向こうで何か分厚い封筒を用意すると
包みの上に置いた。
「持って行け。
辛かったか。
だが、それを乗り越えられないのも
お前に術士としての器だ。
出ていくのなら止めはせん。」
封筒の中には現金が入っていた。
葵はうつむいて歯を食いしばった。
こみ上げてくる何かと
また悔しいような気持ちもした。
棟梁は大きな手で葵の頭を撫でた。
「達者で…幸せになれ。
そしていつか必ずここへ戻って来い。」
葵は目から溢れ出る物が止められなかった。
両手で持った握り飯が
随分重く感じられた。
そこから動く事が出来ず、
結局棟梁に付き添われて部屋に戻った。
結局
水崎の家から出る事が出来なかった。
そして後日、
葵は玄冥の守護の一番を辞退する事にした。
山の森林の稜線から朝日が滲み出すと
木々に囲まれる水崎の屋敷に
白い光の線が幾筋も差し込む。
昨晩は雨が降っていた様で
梅雨の青葉に玉の様に水滴が残り
光を反射している。
山全体がしっとりとした湿気に包まれ
冷ややかな気温と相まって
神聖さを感じさせた。
白南風が雲を吹き飛ばし
梅雨を終わらそうとしている。
葵が守護の一番を辞退してから
数年の月日が流れていた。
禍福は
糾える縄の如し。
人間関係や環境と言う物は
ふとした事で変化する。
葵は守護の一番を辞退した事により
何かが吹っ切れた。
自分の居場所がなくなろうが関係ない
いや、
何がどうであろうと
自分の居場所はここだという思いがうまれ
揉め事が起ころうが
誰かに睨まれようが
言いたいことを言い、
周りと関わって行った。
すると不思議と
周囲との関係は良好な物になっていった。
当然、水崎の家の利権を奪われる恐れが
無くなった事により態度と警戒が軟化したのもある。
そして元来才能があり
他の者が音を上げる修行をこなし
自分の利権を捨てても
熱心に任務に当たる葵の姿に
周囲の人間は
敬意を感じずにはいられなくなっていった。
もちろん治郎などまだ反発を持つ者はいて
虐めや嫌がらせまがいの事は起こったが
実力に勝る葵はやり返し
それを認めてくれる仲間が出来た事で
バランスを取れるようになっていた。
下位の番手で
守護を続けている。
今では立派な術師である。
相変わらず女である事は明かしていないが
周りはみな気づいている。
仮初とはいえ葵は
安住の地を得たのであった。
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