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「ザルベイル殿、少々お時間よろしいでしょうか」
それから数日、彼の執務室を訪れたのは部下の職業騎士だった。
「これはティードボルト殿。どうしましたか」
ティードボルトは彼の前まで来ると声を落として囁く。
「実は“山トネリコの亡霊”の潜伏先の密告があったのです」
「まさか……目撃証言すら満足に無いというのにか」
「仲間割れですよ」
神妙に語る言葉にザルベイルの目が僅かに丸くなる。聞けば“山トネリコの亡霊”は五人組の窃盗犯で、そのうちのひとりが分け前少なさに裏切ったという話だった。
密告者は残り四人の人相書きとアジトの情報を条件に恩赦を求めてきたのだそうだ。
「所詮は犯罪者か。なんとも身勝手な話だ」
「それは私も思いますが、街の治安の為に今は少しでも情報が必要です」
本来犯罪者と取引して恩赦するという法は存在せず、内容に応じて超法規的措置として実施される。それがザルベイルにはなんとも受け入れ難いのだった。
気難しい顔で黙り込む彼の反応は、まあ予想の範囲を出なかったのだろう。ティードボルトは小さく溜息を吐いて続ける。
「彼らが仲間の裏切りに気付く前に動くべきです。今は一刻の猶予もありません。騎士団や衛兵を動員すれば察せられる恐れがあるので秘密裏にすぐ動ける傭兵を手配しています」
「まさか内通者がいると」
「……その懸念もありますが、彼らの手際の良さを考えるとここは重点的に見張られている可能性があるかと。密告者が全面的に協力しているとも限りませんし」
「なるほど……そこまで踏まえて準備は万端、というわけですか」
「はい。しかし今回は敵も手練れです。お恥ずかしながら職業騎士が私ひとりだけでは心許ない。どうかご助力願えませんか」
組織的には部下とはいえティードボルトは年上であり、また職業騎士は基本的に自己裁量での行動が認められている。この件を成し遂げればそれは彼だけの大きな手柄になったはずだ。しかし彼は恥を忍んで助力を仰いできた。十分な理由もなく断ればその顔に泥を塗ることになる。
それに“山トネリコの亡霊”を捕らえれば商人や他の平民たちを苦しめている他の窃盗事件に回せる人員がかなり増員出来るはずだ。
釈然としない気持ちはあったが、これも街の治安のためと自分に言い聞かせる。
「……わかりました」
そう時間を置かず準備を整えたザルベイルはティードボルトと彼の手配した傭兵たちに合流した。軍馬で寂れた山道を一気に駆け上がり、途中から降りて散開しながら森へ分け入った。
森林行動用装備は短めの剣と小振りの盾によくなめされた革の鎧で一式となる。それは一見すると稼ぎの良い冒険者の斥候のようでもあり、圧倒的強者である彼らふたりが傭兵たちに紛れ込む偽装も兼ねている。
ほとんど音もなく滑るように森を進む。霧が濃くなり始めていたがこれは好都合と言えるだろう。情報にあった小屋を発見出来たら視認される前に合図と共に一斉に乗り込む。そういう手筈になっていた。
だが、小屋は無かった。
深い森の奥、川の上流には切り立った岩壁と崖があるばかりだ。もしやティードボルト殿は騙されたのかとザルベイルは訝しむ。
しかし大陸全土の職業騎士は共通して自分たちを虚仮にした犯罪者を絶対に許さない。汚辱を雪ぐためなら例え犯人が敵対する土地へ逃亡しようとも必ず追手を差し向けるほどの執念を見せる。そんなことをしても密告者にはなんの益もない。
ではなぜだ。思考が纏まらない。空気に微かに混じる異臭。
不覚だった。
予想外の事態で僅かに動揺した隙になにか毒のようなものを撒かれたのだ。
剣呑な気配。首筋に死の予感。突然の斬撃を紙一重で二度三度と転がるように避け、想定外の浮遊感に失策を悟る。
崖の位置を把握していなかった。全てが瞬く間の出来事。
奈落へ転落するザルベイルが最後に見たものは、剣を構え口元を布で押さえながら落ちていく自分を見下ろすティードボルトの姿だった。
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