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「嫌なことを思い出した?」
黒猫が立ち止まる。
青色に染まったその場所でこちらを見る。あの真っ青な目は、青年の目を捉えて離さない。
「……」
青年は、黒猫の姿に夜を見ていた。白猫が走っていく、夜を。
あの日は、暑さのせいか、眠りが浅かったのか、目が覚めた。そして、小窓から出ていくその白い後ろ姿を見たのだ。
冷静に、おやつを持って名前を呼べばよかったのかもしれない。
驚いて、焦って、僕はその後ろ姿を必死に追いかけた。驚いた彼が僕から逃げるように暗闇にまっすぐに走っていく。
その先にあるのは、車通りの多い大通りなのに。お願いだから、止まってくれ。
「猫には、九つの命があるんだ」
「……き、君は」
ふと、黒猫が言う。
青年は、喉が乾くのを感じた。今までずっと歩いていても感じなかったのに。
黒猫は、真っ直ぐに青年を見ている。
真っ黒なその猫は、あの夜の闇に連れ去られた白猫なのだろうか。
「……君、もっと大事なことを思い出さないと。道は終わらないよ」
青年は、黒猫の言葉に怯えながらつばを飲み込む。
もっと大事なこととは、何なのだろうか。
「君の白猫は、どういう猫だったか思い出してごらんよ。ほら、歩いて。道はまだ続いているよ」
黒猫は、また背を向けて歩き出した。
青年の耳にサワサワと花の擦れる音が入ってくる。
このままついていって、良いのだろうか。大事なこととは、何なのだろう。
僕の白猫は、どんな猫だった?
青年は、目の前の黒猫が死神のように感じた。
ここから、離れなければならないんじゃないか。その考えは、青年から離れることはなく、青年は右足を少しだけ後ろにずらした。
このまま、後ろを向いて青い花の中に飛び込んだほうがいいのではないか。
早く、動いたほうが、
「駄目だよ。後ろを向いたら、二度と戻れない」
「!」
黒猫は、立ち止まらずに言った。尻尾はもう上機嫌に揺れてはいなかった。
「黒猫だから、駄目なのかな。ボクが白猫なら君は、ちゃんとついてきてくれる?」
驚いて、逃げ出しそうになった青年は黒猫の言葉に動きを止める。
黒猫だから、死神を連想したのだろうか。目の前の黒猫は、寂しそうに尻尾と顔を下げた。
「怖がらないでよ。ボクは、君と歩けるだけで幸せなのに」
黒猫が小さく声を出す。寂しそうで、苦しそうな声。
目の前にいるのは、ただの黒猫だった。
恐ろしくもない、どこにでもいる普通の黒猫。
「君は少し、周りのものを怖く見すぎるんだ。あの白猫は、君が殺したわけじゃない」
ゆっくりと言葉をつなげる黒猫に、青年は怖さを感じなくなったどころか、黒猫を撫でたくて仕方がなくなっていた。
周りの景色や状況も相まって、必要以上に悪い方向へ考えていた自分を恥ずかしくも思った。
あの白猫は、優しい猫だったはすだ。泣いている僕にそっと寄り添ってくれるような、温かい猫だった。
「周りに咲いてる花、わかる?」
ふと振り向いた黒猫は、その真っ青な瞳で青年を見つめた。優しい、空の色だ。
青年は、黒猫の瞳から視線を外し、周りの花の方へ目を向ける。
真ん中が白く、周りが真っ青な可愛らしい花だ。
「……、……ネモフィラ?」
少し考えてから青年は答えた。少し前にネットに写真が流れてきたのを見たことがある。
綺麗な青にかんどうして、いつか自分の目で見に行こうとその名前をしっかりと覚えたのだ。
「そう。花なんて全然知らなそうなのに、よく分かったね」
黒猫は、目を細めて笑う。まるで、人間のように優しい笑顔で。
「花言葉はね、“あなたを許す”」
「……」
黒猫がこちらに近づいてくる。そのゆったりとした、歩き姿を青年は覚えていた。
「元々、君は悪くないんだから許すもなにもないけどさ。君は、その言葉が欲しいのかなって思って」
黒猫が青年の足に頭をつける。
そこには、優しさの温かさがあった。この猫は、もう居ないのだと青年は触れた体温から理解した。
「ボク、君に会うのはもっと先がいいな。虹の前で待っているから、ゆっくりおいでよ」
青年は、しゃがみこんで黒猫の頭に手を置いた。
ふわふわとした毛並みは、手を離したくないと思うほどに柔らかく懐かしいものだった。
「ボクの八つの命を君に上げるから。もう、こんなところに来たら駄目だよ。もう、次に来たときにはきっとここは夜が来ていて君はボクを見つけられないし、ボクも君を見つけられない」
最後にそういった黒猫の青空の瞳から、涙が流れたのを青年は見た。
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