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牛を捕まえろ
おはようございます、と会社に出社した途端、俺は重苦しい雰囲気を察知した。ただでさえ営業部に所属している事もあってノルマだのアポイントだのでいつもピリついてるのに、今日は特に部署全体にドス黒い怒りの様なものが充満している。
「辰彦、牛島さんが飛んだ」「え?」
何かの拍子に逆鱗に触れない様、恐る恐ると自身のデスクに座った後、ひそひそと隣から話しかけてきたのは同僚の馬原だった。
「牛島さん、1人だけまた今月ノルマ未達成だったろ。今月達成出来なかったら寅さんに何されるか分からなかっただろうし、限界だったんだろうな」
「あー・・・なるほどな」
この寅さんというのは俺達の上司であり、いつもノルマに厳しい人だ。自分の苗字が渥美という事で、某ドラマシリーズの主演を務める俳優と同じ苗字であり、自身もその俳優の大ファンという事で自分を「寅さん」と部下には呼ばせている。
不思議なことに、ノルマで一喜一憂する彼を見ているとその俳優と似ていると感じてしまうので、余計タチが悪い。あの「寅さん」程この上司に分別があるとは思えない。
「ドカン!!!!!!」
何かが蹴飛ばされる音がした。はっとその音がした方向を向く。馬原も釣られて向く。その方向には「寅さん」が怒り心頭の顔で震えていた。
「はっきり言って、連絡を全て遮断して仕事を放棄するなんて社会人として異常だ!!!」
倒れた机の前で寅さんがそう叫んだ。関わりたく無い。誰もがその様に思っている事が感じられる様な静寂が流れた。何か嫌な予感がする。
「辰彦」
「・・・え?」
「確か、牛島はお前の教育担当だったよな?」
「は、はい。配属当初の話ですが」
「部下が飛んだ時は先輩に責任がある。なら、先輩が飛んだ時、責任は誰にあると思う?」
「・・・・・・先輩の先輩ですか?」
「馬鹿野郎!!俺に責任があるってのか!?」
寅さんは激昂して、近くにある椅子を蹴り上げた。
「先輩が飛んだ時は、その後輩の責任に決まってるだろうが!!!」
物凄い論理破綻だが、勢いに押されて俺は何も言えない。
「お前、牛島を連れ戻して来い」
「え?」
「お前の責任だから、牛島はお前が連れ戻して来い」
「でも、飛んだ人をどうやって連れ戻せば良いんですか」
「良いから連れ戻してこい!今日中にだ!!連れ戻してこなければ今季のお前の評価は全て最低にするぞ!!良いから連れ戻してこい!!!」
「は、はい!」
ビル中を震え立たせる様な怒号に押されて俺は慌てて走って部署を飛び出し、ビルを出た。そうするしか無かった。嫌な予感というものは、往々にして当たるものだ。
しかし、どうやって牛島さんを連れ戻せば良いんだろうか。慌てて飛び出して来たものの、少し冷静になるとどうしたら良いか分からず、取り敢えず会社の近くの公園で考えることとした。会社の前で立ち往生していては、いつまた寅さんが来るか分からない。
「どうしよう、こんな事をしていては・・・」
公園の前に着いた時、そんな独り言が公園から聞こえて来た。かなり切羽詰まった様な震えた声で、気になったので俺はその声の主を確認しようとした。その時、思わず声が出た。
「牛島さん!!!」
「え?」
「何してるんですかこんな所で!!牛島さんが出社しなくて連絡もつかないから寅さんめちゃくちゃ怒って、俺に連れ戻して来いって怒鳴り散らして来たんですよ!!今すぐ会社に行きましょう!!」
そこにはいつも通りのスーツを着てビジネスバッグを持った牛島さんが居た。
目当ての人物がいきなり見つかった俺は高揚し、彼に捲し立てる。その様子の俺を見て、牛島さんは驚愕の表情をみるみると恐怖へと変化させた。
「い、嫌だ!今会社に行ったら何をされるか分からないだろ!それこそ、殴る、蹴るで済めば御の字ってレベルだぞ!!」
「でも、連れ戻さなきゃ俺が酷い目に遭うんですよ!可愛い部下の為だと思って、お願いします!!」
「無理だ!辰彦は尊い犠牲になってくれ!!」
そう捨て台詞を吐いて、牛島さんは駆け出した。なんて人だ!とにかく追いかけなければ、と俺も走り出そうとした時、後ろから声が聞こえてくる。
「辰彦ー!お前、社用携帯忘れてるぞ!」
振り向くと、馬原がこちらに駆けてきていた。どうやら忘れ物を俺に届けに来てくれたらしい。有り難かったが、何やら彼の顔にも焦りが見えている。
「馬原ァ!てめえ、朝礼中に何抜け出してやがる!!」その後ろに、顔を真っ赤にした寅さんが走って追いかけてきていたからだった。馬原の奴、何もそんな時に届けに来なくても良いのに、と思わずにはいられなかった。
しかし、寅さんがこちらに追いつこうかという時、更にまた状況が変わった。
「おい、牛島じゃねえか!」
パブロフの犬の様なものなのか上司の声が聞こえた牛島さんは思わず逃げる足を止めてしまい、更にこちらに顔を向けていた。当然、この鬼軍曹はそれを見逃さなかった。
「てめえ、連絡もせず何してやがんだ!!!早く出社しろ!!」
寅さんが怒鳴りつける。数秒蛇に睨まれた蛙のように固まっていた牛島さんだったが、恐怖が勝ったのか夢の中で走っている時の様な、はたまた川を走るエリマキトカゲを想起させる様な、めちゃくちゃな走法でまた逃げ出した。
「あっおい!待ちやがれ!!おい、何してんだ辰彦、馬原!!!あいつを捕まえろ!!」
「は、はい!!」
反射的に返事した俺たちは逃げる牛島さんを追いかけた。途中で馬原が「なんで俺まで捕まえなきゃいけなくなってるんだ!」と嘆いていた。しかし、かなりの喫煙者だった彼は追いかけ始めて早々に息を切らし、数100メートルで視界から見えなくなった。
暫く走り、公園の通りを抜けて牛島さんは大通りに出た。
片面二車線の大通りな上に、向こう側に行く為の前方の信号は点滅していたので、俺は牛島さんはすぐに逃げ道を失うだろうと考え、少し速度を緩めてしまった。しかし、それが間違いだった。
目論見通り牛島さんが渡る前に信号は赤になったのだが、なんと彼は信号を無視して走った。朝なのであまり車通りが無かったとはいえ、かなりの危険行為だ。
これでは逃してしまう。そう思い諦めかけた俺の身体を、後ろから強烈に突き動かしたものがあった。
「辰彦!!!渡れ!!てめえ逃したらタダじゃおかねえからな!!」
後ろからずっと追いかけてきていたのか、寅さんがこちらの様子を見て怒鳴り散らしてきた。その声に導かれるようにして、俺はその横断歩道を走った。走っている間も寅さんはずっと怒鳴り散らしている。
当然、青に変わって少し経っていたので走ってきている車にクラクションを鳴らされまくり、罵詈雑言を投げかけられる。その声さえも寅さんのものか、運転手の声がよく分からなかった。
横断歩道という死線を潜り抜け、何とか見失わずに牛島さんを追いかける事のできた俺は若さのアドバンテージもあってか、かなり詰め寄っていた。
「良い加減、諦めて捕まりましょう!!このまま逃げていても何も解決しませんよ!!」
「嫌だ!捕まるくらいならずっとこのまま走っている方がまだマシだ!俺は絶対に戻らないぞ!」
大通りを走りながら途切れ途切れに、舌戦を繰り広げる。周りを歩いている人間からの視線が痛い。ここまで恥を晒しているのだから、少しは大人しく捕まって欲しいのだが牛島さんが説得に応じない事は火を見るよりも明らかだった。
「追いかけてくるな!!!」
そして突如振り返った牛島さんは、手に持ったビジネスバッグをこちらに放り投げて来た。間一髪でそれを避け、追いかける。ガシャ、ガシャというバックが跳ねる音がした。恐らくあのバッグにはパソコンも入っているだろう。彼はいよいよ、逃げ延びる覚悟を決めたのだろうと感じた。
しかし、このまま走り続けていても埒が開かないと感じたのか牛島さんは通りがかったショッピングモールに飛び込んだ。人混みに紛れて撒こうという作戦に切り替えたらしい。俺も即座に飛び込む。
モールに入ると、牛島さんは大きな過ちを犯した事が分かった。平日の朝のショッピングモールは閑散としており、しかもスーツを着ている人間なんて一目瞭然な程、周りは主婦や子連れの私服が多かった。当然俺は牛島さんをすぐ見つけ、追いかける。
エスカレーターを凄い勢いで登る彼を追いかけ、そして凄い勢いで降るのを追いかけた。最早、周りからはスーツを着た成人男性の姿をした子供がはしゃいでいる様にしか見えなかっただろう。
店に入っては出て、エレベーターは先周りをして、駐車場を飛び回る。かなりの迷惑行為を繰り返していたが、牛島さんにとっては捕まれば死、そして、俺にとっては捕まえなければ死、という程に逼迫した状況だった。
今度は店の構造で撒こうとしたのか、牛島さんは多くの商品が置かれ、複雑な構造になっているキャラクターショップに入った。
ごちゃごちゃとした店内を掻き分けて、追いかける。その裏をついて牛島さんはすぐに店から出た。完全に裏をかかれた俺は店内で派手に転び、商品棚の一つをひっくり返した。
ドカァ!と大きな音がして、店員が裏から出て来る。あまりに唐突な状況に、思考が追いついてない様子だった。
しかしこんな事をやらかしておいても、俺は牛島さんを逃すわけにはいかないと牛島さんが走った方向を振り返った。
見た先では、牛島さんが男に捕まっていた。
何が起こったのかを確かめる為、身体を起こして牛島さんと男の方に駆け寄る。俺が駆け寄ってくるのを見て、男は怒気を露わにして来た。
「あんたら、いい加減にしてくれ!朝から走り回って何やってるんだ!?」
ワイシャツの胸元を見るとネームプレートがあり、「蛇島」《へびしま》と書かれていた。どうやら、ここの店員らしい。そりゃあ、これだけの事をやらかしておけばこれだけご立腹なのも無理はない。
「本当に申し訳ありませんでした」
俺は素直に謝るしかなかった。飛んだ社員を追いかけて、店で業務妨害をして警察沙汰になるほど恥ずかしい事は無いと思った。
頭を下げた時、先程キャラクターショップに入った時に引っかかったのか、ネズミをモチーフとした某テーマパークのキャラクターのキーホルダーがジャケットのポケットから落ちた。
とにかく色々な所を走り回り、そして捕まった牛島さんと、それを追いかけていてヘトヘトだった俺を嘲笑うかの様に、そのネズミのキーホルダーは跳ねる様に俺達から離れ、転がっていった。
牛島さんに、辰彦に、蛇島。そしてこのネズミではまるで十二支の競争だ、と思った。
その後、こってりとモールの事務所で絞られ、今後の出入り禁止を言い渡されて何とか解放された俺達は会社に向かった。と言っても、まだ渋る牛島さんを掴み、強制的に連行したと言った方が正しかった。
会社に到着し、半ば引きずる様にして部署に牛島さんを連れていくと、同僚達が一瞬、わっと色めきだった。
何だなんだと動揺していると1人の同僚が、
「実は、辰彦が牛島さんを捕まえるか牛島さんが辰彦から逃げ切るかでみんなと賭けてたんだよ。いやーよく捕まえてくれた!」
とこっそり話しかけて来た。
ずっと走り回った挙句に賭け事の材料にされていたとは、まるで競走馬になった気分だった。
周りを見渡すと、疲れ果てて机に座っている馬原と丁度こちらに帰って来たのか、寅さんが今にも怒鳴ろうとこちらに詰め寄ろうとしていた。
「いや、実は12頭出走してたかも」
辰彦、何言ってんだ?と、同僚が首を傾げる。
牛島さんががっくりと項垂れた。
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