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本編——L'histoire principale 新生活
枯れ葉を踏む音を聞くために公園を散歩し、帰ってくるなり「Salut!(おかえり)リラズ」と声をかけられた。
俺も微笑んで「ただいま。エマ、ジェイド」と返す。仲良く腕を組んだ彼女たちが、ウインクをしながら廊下を通り過ぎていく。
行き交う誰もが白のシャツに紺のカーディガンを羽織っており、胸もとには太陽モチーフの銀のループタイが揺れている。
ボトムスは自由だが、これが我が校の標準服だ。マリアンヌ(※)には学生服という文化がなかったが、貧富の差が目立ちにくくなるようにという理由で、数年前から取り入れられるようになっている。
グランゼコール準備級の試験に合格した俺は、今や晴れてプレパ生だ。大王学院と呼ばれるこの学校は900人もの生徒を抱えており、広い敷地内には約300人を収容可能な寄宿舎も備えられている。
俺は運よく抽選に当たり、ジムナーズ(※)のとき同様、生徒たちと集団生活を送っている。
考えてみれば、ジムナーズのあの大きな屋敷にたった6人の生徒しかいなかったなんて、嘘みたいな話だ。
エントランスに入ってすぐに広がる、飴色に磨き上げられた古い大階段が俺は好きだった。森に包まれた屋敷の静けさを、子どもだった俺たちの笑い声がきらきらとそよいでいく。
目を閉じればいつでもあの美しい景色を思い浮かべることができるが、今の貧乏学生然とした暮らしもそれなりに気に入っている。女の子の友達ができたこともとてもうれしい。
廊下を抜けて、自分の部屋のドアノブに手をかけようとした瞬間、二つ先のドアが開いた。「サラーフ」と思わず呼びかける。
彼も驚いたように「リラズ」と呼び、俺たちは互いに微笑みあった。そして、今日もしばしの沈黙が降りる。
伝えたい想いは山ほどあるのに、最初のひと言がこんなにも難しい。俺と同じく、サラーフのほうも何か言いたげな雰囲気だったが、まとまらなかったのか諦めたように天を仰いだ。
結局、俺たちは微笑みを残して別れた。
ここでの俺はリラズで通っている。
アマーリという名前を秘密にしているわけではないが、家族などのごく親しい間柄でなければ相手のミドルネームを呼ばないこの国において、ファーストネームで呼ばれるのは自然なことだ。
だけど、俺をアマーリと呼ぶ家族たちは、きっと今の俺を見たらにやにやするんだろう。
特にベルトは声色を変えて、「リリエンタールさんちのリラズく~ん」なんて言って。ルーは少し寂しがるかな。知らない人になっちゃったみたいだ、と未だにうじうじするかもしれない。
エヴァはどうだろう——ちょっと考えるだけで、寂しさを堪えて笑う顔が浮かび、胸が締めつけられた。
小さな秘密基地みたいな部屋を見回す。ベッドは中二階にあり、その下には大きな机とクローゼットがある。
壁はぎっしり本で埋まっていて、我ながら「書物の民」にふさわしい部屋だ、と満足している。
幸運なことにジムナーズにいた頃と同じく、今のところ出自のせいで嫌な思いをしたことはない。
皆、勉強熱心で、少し変わっていて、「ロボットに完璧な自我を持たせたい工学博士志望」に「完璧な自我とは何か問う自称哲学者」が食ってかかって大激論になったことがあるが、まあ概ね仲良くやっている。
ただ、パーティー好きな連中が多く、深夜の騒音にはうんざりだ。23時を過ぎたら「うるさいぞ!」と注意をしに行くが、「やっとリラズが来た~!」「遅い遅い!」とずるずるとキッチンの奥に引っ張られる。
「俺は今日は出ないと言っただろう! 帰る!」と叫ぶが帰してもらえないことも多く、無事帰還できても、たいていピザとか甘いお菓子なんかを無理やり持たされてしまう。
おかげでくまは薄くならないが、体重は少し増えた。
とあるときには「チーズと肉を一緒に取っちゃ駄目なんだろ?」と言われ、キャトルフロマージュ(※)のピザを勧められたことがあった。
書物の民には細かい食事の規定があり、乳製品と肉を同時に胃に収めてはならないのだ。
このうれしい気遣いをしてくれたのが、サラーフだった。そして、そのときに彼の出身を知った。
※ジムナーズ……本作の主人公リラズ(アマーリ)が通っていた、少人数制寄宿学校。英才教育のほか、心の傷を治す治療を行う。
※マリアンヌ……本作の舞台。『秘色のステラマリス』内の国家名。
※キャトルフロマージュ……クワトロフォルマッジ。四種のチーズ。
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