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序幕
明治の文明開化を超えた日本は大正に年号を変えていた。
西洋文化の物が増え服や建物は大きく様変わりしたが、それでもここ、秩父の片田舎は明治時代の風情を色濃く残していた。
山々が静かに佇む山間は厳かな雰囲気が漂い、木立の合間からは雲が山を抱くような様子が見える。木々の枝では小鳥が囀っている。
麓には小さな集落が点在しているが、木造の家々が風景に調和して佇んでいた。
建物は木の温もりが心地よく、古めかしくても暖かく迎えてくれる。
西洋文化に追いつかない商店街がら外れた住宅街に《桐島駄菓子店》がある。
住居の路面側と店として使っていて、店内には古びた硝子瓶に詰められた色とりどりの飴玉や、昔ながらの紙で包まれた様々な駄菓子が所狭しと陳列されている。
小銭を握りしめた少年が一人、短い丈の半纏と西洋で主流だというズボン姿と無邪気な笑顔で桐島駄菓子店へ駆け込んだ。
「薫子ねーちゃん! 餡団子ちょうだい!」
「はーい。いらっしゃい」
薄暗い灯りが店内をやわらかく照らし、奥から十八になったばかりの薫子が出てきて少年を出迎えた。
薫子は着古した桃色の着物で、赤いリボンで髪を横で一つ結びにしている。少年を迎える表情は明るく、自宅を活用した店内の穏やかな雰囲気によく合っている。
「昨日も餡団子だったじゃない。たまにはお煎餅でもどう?」
「やだ。餡が好きなんだもん。ここの餡団子が一番おいしい!」
「あら嬉しい。和菓子屋さんもあるのに有難いわ。じゃあ十銭ね」
薫子は生まれ育ったこの家で、接客のために履き潰した草履で餡団子を取り出し少年に渡してやる。
薫子は西洋文化の眩さを話に聞いても実際に触れたことはほとんど無い。
けれど高いお金を出して洋風の物が欲しいとは思わなかったし、安い駄菓子で子供達とこの片田舎で生きていけばそれで良いと思っていた。
けれどそうも言っていられない事態に桐島駄菓子店は追い込まれている。
少年を見送った薫子は再び室内に戻り帳面を開いた。帳面にはびっしりと数字が書き込まれ、半分以上が赤い鉛筆で綴られている。
「粗利が既に赤字だわ。販管費でさらに赤字……」
桐島駄菓子店の経営は思わしくなかった。薫子の父が経営している店で、今までは問題なくやってきていた。そしてこれからもそうであると思っていた。
「ずっと下がり調子だったけど本格的にまずいわ。それもこれもあれのせいよ」
薫子は窓を開け、通りの向こう側に見える建物を睨んだ。
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