映る影、変わる時

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「お待たせしました」 「あの、今お話なさってたミルフィーユって」 「少々お待ちください。ご注文の前に足の手当てをしましょう」  男はカウンターの中に入ると引き出しの中から何かを取り出し差し出してきた。  それは消毒液とガーゼ、そして絆創膏だった。薫子が休憩を強いられた原因のかかとにちょうど良さそうな大きさだ。 「よく見てらっしゃいますね……」 「この辺りは秩父のように足元が柔らかくないですからね。慣れない靴で慣れない土地を歩き回るのは大変でしょう」  秩父と言われて薫子は眼を見開いた。  確かに秩父から来たが、東京に来てからそんなことは誰にも話していない。この青年とも初対面だ。知っているはずがない。 「どうして慣れてないと分かるんですか? 秩父から来たって」 「見たままですよ。新しくて靴擦れが酷いし服も新品同然。おそらく洋装自体あまり着ないのではないですか? それにその雑誌」  青年は薫子の鞄を指さした。そこには家から持って来た雑誌と地図が雑に押し込められている。 「雑誌に秩父版と書いてあります。東京ご出身で慣れた土地なら地図は使いません」 「……本当によく見てるんですね」 「ご同業のようなので気になったんです。敵情視察ですか? 喫茶店ばかり覗いてらっしゃったようですが」 「そうですけど、まさかずっと私を見てたんですか?」 「いいえ。十時過ぎにミスミ洋菓子店を睨みつけた後に準備中のうちを通りすぎた時だけですよ。十二時になったらまたミスミさんを睨んでらっしゃいましたが、靴擦れと小雨に困って開店したばかりで空いてるうちへいらしたというところでしょうか」 「通りすがりの相手をよく覚えてますね……」 「ちょっとばかり記憶力が良いもので。商売敵に足を運ぶ方は気になりますしね」  入店してほんの数分で次々に言い当てられ、薫子はぽかんと口を開けて固まった。  だがそれと同時に心臓が大きく音を立てた。  ありふれた果物とよく見る種類のケーキなのに、この店のお菓子はどれも唯一無二の宝石のようだ。それもお客様一人一人のために提供する暖かさもある。  他と同じでありながら独自の商品。それは薫子が今求めているものそのものだ。
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