映る影、変わる時

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 ミルフィーユを一口食べると、ほんのりとした甘さで歯触りが心地良かった。  他の店で食べたどれよりもずば抜けて美味しいというわけではなかったけれど、今の自分はこのミルフィーユじゃなければいけなかったのだと思わされた。  ふと父が作っていた餡団子を思い出した。  父はお菓子職人ではない。元は量産商品を仕入れて販売することしかやっていなかった。だが近所の子供が古賀翠鶴堂のお団子は高すぎるから、手頃に買える餡団子が欲しいという声があり作った物だった。 (そうだ。目的はミスミさんを潰すことじゃない。うちの店を続けることだ)  薫子は今更そんなことを思い出し、フォークを握る手に力が入った。  黒田彩菓茶房は父と同じ想いを馴染みのある果物と洋菓子を交えて表現している。  薫子の胸の中に何かが沸き起こり立ち上がると、カウンターの内側に一枚のびらが置いてあった。書き途中のようだが、書いてある情報だけで薫子の胸は高鳴った。  びらには『従業員募集 経理経験者優遇』と書いてある。 「これってお金の管理ですか? 損益計算とか」 「はい。僕ときたらすぐ無料であげちゃうんで気が付けば大変なことになっていて」 「無料って、もしかしてさっきのミルフィーユですか?」 「ええ。僕が好きで差し上げてるから良いんですけど、黒字赤字ってそういうことじゃないでしょう? でもその管理が苦手なんです」  つまりさっきの男性客はフルーツセットの金額でミルフィーユを食べたということだ。しかも転職ができればまたケーキを無料で提供し、珈琲は飲み放題だ。  この赤字が何件も続くならそれは確かに大問題になるだろう。それは桐島駄菓子店で経理業務をやってきた薫子にはよく分かる。  そして今青年が必要としているのは経理業務をやる人間ということだ。  薫子は勢いよく立ち上がり青年に詰め寄った。  「それ私にやらせてもらえませんか! お金周りをやってました! 接客も!」 「本当ですか? でもご実家のお店が大変なんですよね」 「猶予はあります。それに私がやるべきなのは新商品探しじゃなかった。お客様を笑顔にすることなんです。お客様の物語を傍で見させてください!」  薫子は勢いよく頭を下げた。するとすぐにぽんっと青年は薫子の肩を軽く叩き頭を上げるよう促してくれる。
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