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3
「さき、今、帰ったぞ」
意識して明るい声をだし、多門は小屋の戸を開けて中に入った。
「ほら、蜆じゃ。それも業平橋の上物よ。売り子にうまい味噌汁の作方も聞いてきたでのう、今宵は俺がこしらえて進ぜよう」
おどけた素振りが似合わぬのは、己が一番良く知っている。でも、さりげなく仕官の断念を打ち明けるには、段取りが肝要だと思った。
今朝の様子を見る限り、さきの具合は落ち着いていたし、夕餉の膳を囲み、共に和やかな気持ちになった所で心底を打ち明けるのが上策と思えたが、
「旦那様、その前にお尋ねしたき儀がございます」
土間を上がった先、六畳程の板間でさきが正座していた。
「ご近所の方が昼頃に立ち寄り、これを届けてくれました。湿地に転がっているのを見つけたそうでございます」
傍らに置いていた木刀を両手で掴み、夫の正面へ置き直す。
多門は土間で立ち竦み、己の喉がごくりと唾を呑む音を聞いた。
「何故、この様な……お稽古へは欠かさず持って行かれる筈ですのに」
窓から差し込む夕日で、木刀の所々にこびりついたままの泥が見える。
几帳面なさきにはまずあり得ない事だから、多分、敢えて洗わぬままにしておいたのであろう。
「そ、それはだな」
「はい」
「今朝、素振りの途中にすっぽ抜け、探す間も無く、そのまま……」
「戯言はお止し下さいませ」
動揺を抑え、上ずる声で何とかその場を取り繕おうとする多門の言い訳を、さきは一言で断ち切った。
「お尋ねしたき儀は他にもございます」
心持ち顔を伏せ、表情は隠したままで、静かな声が却って怖い。火山の奥で滾る溶岩の熱を感じる。
「本日のお仕事は如何でしたか」
「いや、如何と言われても困る。いつも通りで何も変わらん」
「先程、あなた様と同じ口入屋を通じ、軽子をなさっている方が、一足先に帰って来られましてね」
青ざめた多門の喉が、また唾を呑む音を立てた。
「お尋ねした所、あなた様は本日より別の仕事についた、と話してくれました」
「そうか……」
「私、あなた様ご自身の口から事実をお聞きしとう存じます」
多門は深いため息をつき、蜆の桶を竈に置いて、板間へ上がった。
さきの寝床の傍らに活けてあるカタバミの花は、もう枯れていて、黄色い花弁が萎んでいる。
朝の和やかさが遠い過去に思え、多門は意を決して、妻の対面に腰を下ろした。
「深川の、岸辺にな」
「はい」
「江戸中のごみを集め、埋め立てて新たな土地となす試みがある」
「存じております。ごみが土に慣れるまで、随分ひどい匂いを出すとか」
「大八車は届を出せねば使えないのが江戸の御定法である故、必要な数が中々揃わぬ。集めた近在のごみは荷にまとめ、埋め立て場まで人が担いで運ばねばならぬ」
「わざわざ、ごみなどを担ぐのでございますか」
「おう、山の程な」
怪訝そうに顔を上げたさきの、しかめた眉が見えた。
如何にも下賤な生業に思えているのだろうが、ここまで来たら最後まで言い切るより他に無い。
「きつい汚れ仕事の上、今の江戸は働き手の引く手数多で、やりたがる者は僅かじゃ。その分、日払いの給金はぐんと良うなる仕組みでな」
「あなた様、まさか」
「ははっ、左様。ひがな一日、ごみに塗れて参ったわい」
笑い飛ばそうとしたのは、切羽詰まった多門の苦肉の策である。しかし、その口元が強張り、血の気が引くまで瞬く間しかない。
狙いは裏目に出た様だ。
しかめた眉が一層吊り上り、滅多に見られぬ妻の、鬼の形相がそこにある。
「笑い事ではございませぬ」
「おい、さき、落ち着け。そう目くじら立てずとも」
「曲がりなりにも武士たるもの、下賤のごみを扱うとは、ご先祖様に恥ずかしゅうございませんか」
「背に腹は代えられぬ」
「今は亡き義母上様に、私、どうお詫びしたら良いものか」
「お前のせいではない」
「されど、情けのうございます。我が夫は誰より誇り高き御方と、ずっと思っておりましたのに」
「あぁ、鬱陶しいのう。やむを得ぬであろうが、我ら夫婦が共に生きる為」
押し問答を繰り返す内、気が付くと多門も声を荒げている。
本気の夫婦喧嘩など何年振りだろう。
故郷を離れて以来かもしれない。日頃は争いとなる前に、さきが一歩引き、夫を立ててくれていたのだ。
あぁ、いかん。確かに黙って事を進めたのは、まずかったわい。
素直に謝らんか、園部多門。
いい年してお主、何時まで女房殿に甘えおるつもりじゃ。
内心大いに焦り、言い争いの引け際を探る内、宙でぶつかる眼差しを、この時も妻が先に逸らした。
「詰まる所、私が理由でございますか」
呟く声に力が無い。まるで張り詰めた糸が切れてしまったかの如き、虚ろな響きが感じられる。
「あなた様が下賤に身を落とし、仕官の望みはおろか、剣の道さえお捨てになろうとしているのは、一重に私、この身の病を慮ったが故なのですね」
「いや、それは……」
「今すぐ離縁して下さいませ」
一旦逸らした妻の眼差しが、一層強く多門を貫く。
「さもなくば、この場でご成敗を」
「お、俺にお前を斬れと」
「はい」
「できる訳なかろう」
「ならば離縁を」
「おい、そんなに俺と別れたいのか」
「武士であるあなた様に嫁ぎ、武家の妻としてあるべき道のみ追い求めて、今日までお仕えして参りました。その全てを捨てると仰せなら、最早、夫でも妻でもあり得ぬ」
さきの言葉は淡々としていた。表情にも怒りは伺えない。と言うより、如何なる感情も浮かんでおらず、心の熱が感じられない。
多門には、今、目の前にいる女の気持ちがわからなくなっていた。糟糠の妻どころか、初めて会った赤の他人に思えてならない。
絞り出した問いは呻きに似ていた。
「つまり……武士でない俺など、共に暮らすに値しないと」
「だって、あなたには、他に何も無いではありませんか」
その時、さきが浮かべた笑みも又、多門が初めて見るものである。
唇を歪めた冷笑だ。
「良かろう。その首、差し出せぃ」
激発した怒りに任せ、鞘走った剣がさきの首筋に食い込む。
しかし、血が迸る事は無い。
はっとしたさきが見上げる先、夫の握りしめる竹のささくれた刀身があった。
「それは、まさか」
「竹光じゃ。勢いで抜いてはみたが、どうと言う事も無い。とうに俺は侍の魂を金に換えておったのよ」
「何時、でございますか」
多門は気持ちを静め、沈黙を守った。
刀を売り払ったのは一月前、妻が倒れた際に医師へ支払う為だったが、何を告げても言い訳にしか聞こえまい。
しばし竹光を見つめ、さきはふらりと立ち上がって、小屋の外へ出て行った。
すぐ、その後は追わない。
夕べの寒風にさらされる妻の体が気がかりだったが、今は掛ける言葉が見つからず、互いに気持ちを整える時が必要だと思った。
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