1/1
前へ
/4ページ
次へ

 およそ四半時が過ぎてから多門が小屋を出ると、群生する葦の穂の間に、立ち尽すさきが見えた。  相変わらず虚ろな瞳を、暮色深まる空へ向けている。  その後ろ姿があまりに儚げで、多門は出会った頃の、十四のさきを思い出した。  真ん丸な顔をし、勝気の癖に人見知り。  ふふっ、あやつ、見合いの席ではまともに俺の顔を見れなんだのう。  そう、思えば無理もない話なのだ。    年端のゆかぬまま夫婦になり、その後は慌しく諸国を巡る羽目に陥る。    武家の妻という教えられた処世の枠組みを守り、ひたすら日々の拠り所としてきたのであろう。    その枠を壊そうとしたなら、己を見失うのも道理。    小さく頷き、多門はさきの背にそっと歩み寄って同じ黄昏を見上げてみた。    赤みが失せ、暮れなずむ空を、ゆっくりと「く」の字の影が過ぎていく。    渡り鳥を目で追う妻が、徐々に穏やかな表情を取り戻し、懐かしげな微笑みさえ浮かべるのに多門は気付いた。   「なぁ、すまなんだ、さき」  夫の声に振り向いたさきは、驚きと戸惑いに少し頬を赤らめている。   「お前に隠したは俺の過ちじゃ。先に相談した上、事を進めるべきであった」 「いえ、私の方こそ、先程はどうかしておりました」 「雁を見ていたのか」 「はい、何やら近江の夕暮れが思い出され、あなた様にも見せて差し上げたいと、思っていた所でございます」  多門は、ふっと笑った。  見失いかけた妻の心が自分と同じ景色へ見入り、同じ感慨を抱いた偶然に、不思議な喜びを感じていた。    遠くて近き、とは良く言ったものだとつくづく思う。   「どうなさいました」 「いや」 「おかしいですわね、自分から離縁を申し出ておきながら、私……」  笑い返そうとしてさきは俯き、夫から目を逸らした。  だが、再び向けられた背中に、先程の如く多門を強く拒む意志は感じられない。  代わりに震えている。  何かにひどく怯え、為す術も無く一人で途方に暮れている。 「さき、何を恐れておる」  躊躇いが、乱れる妻の息遣いに現れた。 「教えてくれ。何がそんなにお前の心を乱しておるのだ」  答えを待つ僅かな間にも暮色は深まり、足元に闇の領域を広げつつある。 「叔母が私と同じ病だった事、前にお話し致しましたね」 「ああ」 「旦那様も優しい方で、二人して養生に努められたのですが、最後はやはり……」  又、口ごもり、さきが奥歯を強く噛み締めた。 「ひどかったのか」 「激しい痛みが続き、薬も効かなくなりました。そして遂に耐えきれず、叔母は旦那様に死を願ったのです」  事の詳細は語らなかったが、多門の脳裏に自ずと浮かんだ。目の前で苦しむ妻の頼みを断れる筈など無い。  斬ったのだろう、未練もろとも、渾身の太刀で一思いに。 「間も無く旦那様も亡くなりましたが、食事を取らず、眠れず、魂が抜けて落ち窪んだ目を、私は良く覚えております」 「俺に離縁をせがみ、離れようとした理由はそれか」 「あなた様に同じ思いをさせとうない!」  さきの秘め続けた本音が弾け、叫びとなって迸った。 「でも、あなた様の傍で、最後まで耐え抜く自信も無いのです。きっと負けてしまう、あの叔母の様に」  多門に向けたままの背中が一層強く震え、微かな嗚咽の声が漏れた。 「怖い……怖いのです」  その背を両手で包み込み、抱きしめる事しか多門にはできなかった。  語る言葉が何になろう。  明日と言う日は濃い暗雲に閉ざされ、確かな約束など何一つありはしない。    多門も怖かった。  もし、さきを手に掛ける日がくれば、同時に己の心も砕け散るであろう。    でも、だからこそ二人でいたいと思う。    武士でもなく、その妻でもなく、ありのままの俺とお前で身を寄せ合える今のみ、愛おしむ日々を重ねたい。  たとえ、ともに白髪になり果てる日へ決して辿り着けないとしても。  互いに動かず、温もりを確かめ合う一時がどれ程に続いた事か。  夕日が山の端へ没しきる間際、多門とさきは掘立小屋を目指して歩き出した。   「あの、旦那様」 「何だ」 「確か、業平橋の蜆を手に入れたとおっしゃいましたね」 「おう、滅多にない上物ぞ」  すっかり落ち着きを取り戻した様子で、さきが弾んだ声を上げる。 「折角のお味噌汁、彩りをもう一つ増やしませんか」  上目遣いの眼差しが悪戯っぽく輝き、伸ばした右手の人差し指が、葦の間のカタバミを指す。  幼女の如き、あどけない笑み。  これも多門には見慣れない顔だ。二十五年を共に過ごし、まだまだ俺はコイツを知らぬな、と思う。  別れの日まで後どれくらい、未だ見知らぬ妻の顔と出会う事が叶うのであろう。  多門は思案顔で立ち止まり、さきの指す野草を見下ろした。 「そうさな、摘んで参るか」  さきは嬉しそうに肯き、多門と並んで膝を折った。  二人が見つめる先、黄色い五弁の花がまだ淡い月明かりに照らされ、そよ吹く風に揺れていた。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加