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4
およそ四半時が過ぎてから多門が小屋を出ると、群生する葦の穂の間に、立ち尽すさきが見えた。
相変わらず虚ろな瞳を、暮色深まる空へ向けている。
その後ろ姿があまりに儚げで、多門は出会った頃の、十四のさきを思い出した。
真ん丸な顔をし、勝気の癖に人見知り。
ふふっ、あやつ、見合いの席ではまともに俺の顔を見れなんだのう。
そう、思えば無理もない話なのだ。
年端のゆかぬまま夫婦になり、その後は慌しく諸国を巡る羽目に陥る。
武家の妻という教えられた処世の枠組みを守り、ひたすら日々の拠り所としてきたのであろう。
その枠を壊そうとしたなら、己を見失うのも道理。
小さく頷き、多門はさきの背にそっと歩み寄って同じ黄昏を見上げてみた。
赤みが失せ、暮れなずむ空を、ゆっくりと「く」の字の影が過ぎていく。
渡り鳥を目で追う妻が、徐々に穏やかな表情を取り戻し、懐かしげな微笑みさえ浮かべるのに多門は気付いた。
「なぁ、すまなんだ、さき」
夫の声に振り向いたさきは、驚きと戸惑いに少し頬を赤らめている。
「お前に隠したは俺の過ちじゃ。先に相談した上、事を進めるべきであった」
「いえ、私の方こそ、先程はどうかしておりました」
「雁を見ていたのか」
「はい、何やら近江の夕暮れが思い出され、あなた様にも見せて差し上げたいと、思っていた所でございます」
多門は、ふっと笑った。
見失いかけた妻の心が自分と同じ景色へ見入り、同じ感慨を抱いた偶然に、不思議な喜びを感じていた。
遠くて近き、とは良く言ったものだとつくづく思う。
「どうなさいました」
「いや」
「おかしいですわね、自分から離縁を申し出ておきながら、私……」
笑い返そうとしてさきは俯き、夫から目を逸らした。
だが、再び向けられた背中に、先程の如く多門を強く拒む意志は感じられない。
代わりに震えている。
何かにひどく怯え、為す術も無く一人で途方に暮れている。
「さき、何を恐れておる」
躊躇いが、乱れる妻の息遣いに現れた。
「教えてくれ。何がそんなにお前の心を乱しておるのだ」
答えを待つ僅かな間にも暮色は深まり、足元に闇の領域を広げつつある。
「叔母が私と同じ病だった事、前にお話し致しましたね」
「ああ」
「旦那様も優しい方で、二人して養生に努められたのですが、最後はやはり……」
又、口ごもり、さきが奥歯を強く噛み締めた。
「ひどかったのか」
「激しい痛みが続き、薬も効かなくなりました。そして遂に耐えきれず、叔母は旦那様に死を願ったのです」
事の詳細は語らなかったが、多門の脳裏に自ずと浮かんだ。目の前で苦しむ妻の頼みを断れる筈など無い。
斬ったのだろう、未練もろとも、渾身の太刀で一思いに。
「間も無く旦那様も亡くなりましたが、食事を取らず、眠れず、魂が抜けて落ち窪んだ目を、私は良く覚えております」
「俺に離縁をせがみ、離れようとした理由はそれか」
「あなた様に同じ思いをさせとうない!」
さきの秘め続けた本音が弾け、叫びとなって迸った。
「でも、あなた様の傍で、最後まで耐え抜く自信も無いのです。きっと負けてしまう、あの叔母の様に」
多門に向けたままの背中が一層強く震え、微かな嗚咽の声が漏れた。
「怖い……怖いのです」
その背を両手で包み込み、抱きしめる事しか多門にはできなかった。
語る言葉が何になろう。
明日と言う日は濃い暗雲に閉ざされ、確かな約束など何一つありはしない。
多門も怖かった。
もし、さきを手に掛ける日がくれば、同時に己の心も砕け散るであろう。
でも、だからこそ二人でいたいと思う。
武士でもなく、その妻でもなく、ありのままの俺とお前で身を寄せ合える今のみ、愛おしむ日々を重ねたい。
たとえ、ともに白髪になり果てる日へ決して辿り着けないとしても。
互いに動かず、温もりを確かめ合う一時がどれ程に続いた事か。
夕日が山の端へ没しきる間際、多門とさきは掘立小屋を目指して歩き出した。
「あの、旦那様」
「何だ」
「確か、業平橋の蜆を手に入れたとおっしゃいましたね」
「おう、滅多にない上物ぞ」
すっかり落ち着きを取り戻した様子で、さきが弾んだ声を上げる。
「折角のお味噌汁、彩りをもう一つ増やしませんか」
上目遣いの眼差しが悪戯っぽく輝き、伸ばした右手の人差し指が、葦の間のカタバミを指す。
幼女の如き、あどけない笑み。
これも多門には見慣れない顔だ。二十五年を共に過ごし、まだまだ俺はコイツを知らぬな、と思う。
別れの日まで後どれくらい、未だ見知らぬ妻の顔と出会う事が叶うのであろう。
多門は思案顔で立ち止まり、さきの指す野草を見下ろした。
「そうさな、摘んで参るか」
さきは嬉しそうに肯き、多門と並んで膝を折った。
二人が見つめる先、黄色い五弁の花がまだ淡い月明かりに照らされ、そよ吹く風に揺れていた。
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