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エンバー・レイス伯爵夫人の葬儀は、黒い雲が重くのしかかる冷たい雨が降る中、粛々と行われた。
その夫、オーティス・レイスは傘に当たる雨の音を呆然と聞きながら、妻が死んでから既に三日も経っているのにも関わらず、実感もないままにレイス家の墓地にいた。
焼かれ、小さな壺に収められた小さな妻の骨は、今まさに冷たい墓石の下へ納められようとしていた。
「兄さん、大丈夫か?」
双子の弟、ヴィクターは心配そうに兄を見つめる。
「ああ、大丈夫だ」
意味のない言葉が口から滑り出る。
妻が、愛していた妻が死んだのだから、何一つ大丈夫なことなどない。愛人宅へ泊まりに行く時に見た三週間前の寂しげな笑顔が、彼女の最後の姿になるとは思っていなかった。
三週間ぶりに愛人宅から帰宅すると屋敷が騒がしかった。オーティスの車が停まると、領地にいるはずの弟ヴィクターが青白い顔で駆け寄ってきた。
「兄さん、何で電話を切っているんだよ。明け方から何度も連絡したのに」
「スリープモードになっていたからな。気がつかなかった。それより騒がしいが、何かあったのか?」
「何かあったのかじゃないよ! 義姉さんが、エンバーが死んだよ。殺されたんだ」
「は、エンバーが? 何の冗談だ?」
「冗談なわけないよ。僕も警察から連絡を受けて慌てて戻ってきたんだ」
いつも通り家に戻れば、エンバーがいて、窮屈ではあるがありふれた、何も変わらない生活が待っているはずだろう?
オーティスは、突然の状況に思考がついていかなかった。ヴィクターに連れられ屋敷に入り、右へ左へと大騒ぎの使用人たちの間を抜け、エンバーが使用していた夫婦の部屋まで向かう。
中は現場検証をする警官や監察官が忙しく働いていた。一歩中に踏み入れると、寝室のベットには血飛沫が飛び、その上に血まみれで、ゴミ捨て場で倒れた酔っ払いのように身体を投げ出しているエンバーがいた。
窓ガラスは割れ、部屋は荒らされていた。その様子からどうやら強盗が主人不在の屋敷を襲い、鉢合わせしたエンバーを殺害し逃亡したようだった。
オーティスは、警官やヴィクターの制止を振り払い、血塗れのエンバーへと駆け寄る。力の抜けた、青白く変わり果てた妻の肩を強く揺らした。腹を滅多刺しにされているため、腹の中のものがだらりと飛び出しそうになっている。
「エンバー、どうして⁉ 寝ているだけだろ? 起きてくれ。おかしいだろうこんなの」
「兄さん、もうやめてくれ。エンバーは死んだんだ。乱暴にしないで」
「嫌だ。エンバー、今すぐ起きるんだ」
オーティスは、自身が汚れるのも気にせずに、冷たくなった妻の死体を抱きしめる。太陽の輝きを放っていた金の長髪は乱れ、所々血で固まっている。その半開きの青の双眸は、二度とオーティスを映すことは無い。
「何と言うことだ。ああ、神様、どうして俺にこんな仕打ちを。エンバー、目を覚ましてくれ」
オーティスは号泣した。妻の身体からは一切の温かさは感じられない。
殺害されたのは、夜中の二時から三時の間らしい。朝、エンバーの部屋を支度のために訪れた侍女が、彼女を発見した時には、既に部屋は荒らされ、エンバーは息絶えていた。
オーティスの歪んではいたが、普通の日常は前触れもなく失われた。
◇◇◇
妻が殺されてから一週間が経ったが、強盗は未だに捕まらなかった。どこへもぶつけられない悲しみと怒りは、オーティスの精神を日に日に蝕んでいく。
こんなことになるなら、始めからエンバーにもっと優しくすれば良かった。愛していると伝えれば良かった。いつからこんなにこじれてしまったのか。
エンバー、オーティス、ヴィクターは幼馴染であった。家同士仲が良く、三人で遊ぶことが多かった。オーティスとヴィクターはエンバーが好きだった。エンバーも二人のことが好きだったが、少し引っ込み思案だけれども心配りができる優しいヴィクターを異性として少しずつ愛するようになった。
年頃になると二人はお互いに想い合い、結婚することになった。結婚後は、レイス家の領地で静かに暮らす予定だったが、エンバーをどうしても譲りたくなかったオーティスは無理やりエンバーをヴィクターから奪った。
オーティスは、ヴィクターの名前でエンバーを呼び出して、無理やり犯し、自分のものとした。エンバーはそのままオーティスと結婚することになった。突然のレイス伯爵家の『直前に花婿が変わる』という結婚騒動で、社交界には様々な噂が飛び交った。
醜聞が広まるのを避け、これ以上騒ぎを大きくしないように、ヴィクターは領地で離れて暮らすことになった。
オーティスは無理やり結婚すれば、いつかはエンバーが振り向いてくれると簡単に考えていたのだが、そう上手くはいかなかった。
エンバーは、諦めたようにオーティスとの結婚生活を始めたが、彼女の明るさや快活さは失われてしまった。そして罪悪感からか、オーティスもエンバーが自分を見ている時、同じ顔である双子の弟ヴィクターを見ているのではないかと日に日に疑心暗鬼になっていった。
鏡を見れば、自分と同じチャコールグレーの髪色、深紫の瞳、端正な顔立ちをした弟が、オーティスを恨みがましく凝視している気がした。
実際に、エンバーを寝取られた意気地なしのヴィクターは、そんなそぶりを自分に見せたこともないというのに。
今でもエンバーが愛しているのは、自分ではなくヴィクターなのかと殺伐とした気持ちになった。
痛がったセックスも、次第に身体が慣れてきて、気持ちよさそうにするエンバーの姿を始めはたまらなく思っていた。
しかし、次第にヴィクターに抱かれていると思いながら自分とセックスをしているのではないかと、どす黒い疑念を抱くようになった。
次第にオーティスは夫婦の寝室から遠ざかり、性欲を発散するために外に愛人を作るようになった。
このことで、エンバーが自分のことを気にしてくれるのではないかと淡く期待する気持ちもあったが、実際にはエンバーは寂し気に微笑むだけで心の距離は縮まることはなかった。
◇◇◇
初めてそれを見たのは、葬儀から二週間が経った黄昏時のことだった。内装工事が終わった夫婦の部屋は、家具も全て入れ替えられ、事件など何もなかったように新しい部屋になっていた。
新しいにおいが立ち込めるその部屋は、今は何にも使用されていなかった。特に理由は無かったが、オーティスは何となくそこに足踏み入れ、ソファーでぼうっとしていた。
物音がして、視線を向けると、ドアが開いてエンバーが静かに部屋に入ってきた。空いている窓を閉めるようなしぐさをした後、沈む夕日を静かに見つめていた。
「エンバー、生きていたのか? 今まで一体どこにいたんだ」
オーティスが声をかけると、ぼんやりとした白い影がこちらを振り向き、ふっと消えた。
今のは一体なんだ? ついに幻覚を見るようになってしまったのだろうか。とても信じられない。幽霊なのだろうか?
それから、黄昏時から夜にかけての時間帯に、その部屋でエンバーの幽霊を見るようになった。幽霊というよりは、その部屋に染み込んでいる断片的な記憶の様にも思えた。
なぜそんなものが見えるのか、よく分からなかったが、オーティスは幻でも幽霊でもエンバーに会えることで過ぎた日の罪悪感が薄まる気がした。
風呂に入るエンバーの幽霊を見たことがあった。ほんのりとバラ色に染まる白い肌、濡れた髪、揺れる乳房、丸い尻、美しい背中のカーブを見た時、久しく忘れていた性欲を思い出し、オーティスは浴室でその姿を見ながら自慰をした。
幽霊のエンバーはいつも美しく、瑞々しい。あの時、ぐにゃぐにゃと力なく倒れていた血濡れたエンバーとは全くの別物に見えた。
しばらくすると、夕方から夜にかけて、夫婦の寝室だけではなく、日中、屋敷の外でもエンバーの姿を見ることができるようになった。
「おい、あそこに何か見えるか?」
庭の生け垣を指さして、オーティスは庭師に尋ねる。オーティスには、ユリを見てたたずんでいるエンバーの姿が見えていた。
庭師は、不思議そうな顔をして「オレンジのユリですね。クロユリと一緒に奥様が大切にされていました」と言う。
何度か使用人や侍女たちにもエンバーが見えるか確認したが、見えているものはいないようだった。そして分かったのは、エンバーが良くいた場所や好きなものがある所に幽霊は現れるようだった。
オーティスはエンバーに外出することを禁じていたので、屋敷にほぼ軟禁状態であったはずだった。しかし現れるエンバーはいつも穏やかにほほ笑んでおり、屋敷のものたちに囲まれ幸せそうに思えた。
もっと早くこれに気が付いていれば、エンバーとの関係も改善することができたのかもしれないと、後悔しない日はなかった。
ある日、オーティスは来客が帰った後、少し考えたいことがあり応接室に残っていた。
いつものようにふんわりと霧が現れて、エンバーの幽霊が現れた。
エンバーはにこやかに挨拶をして、応接室に来客を迎えた。その客の姿を見てオーティスは眉をしかめた。
彼女が迎えた客は、いかにも怪しい風体の占い師だった。こんな女がなぜと思ったが、少し前に王都内で評判の旅の占い師がいるとのを聞いたので、その女だろうと思った。
占い師は、エンバーと歓談した後、白っぽいベージュの布で作られた人形を取り出した。人形は、頭と手足があるが、目鼻口はなく、生まれたばかりの赤子のような丸いフォルムをしていた。占い師はその人形を手に持ち、何か説明をしているようだったが、言葉は聞こえない。
エンバーは占い師の説明を真剣に聞いた後、両手を開き占い師の方へ向けて、「十枚下さい」と言っているようなしぐさをした。
占い師は満足そうな顔をして、出て行った。
その日からエンバーは、布を針でひたすらに刺し、あの占い師が持っていた人形を作っていた。毎日ひたすらに布に針を執拗に刺し、人形を作る妻の顔は鬼気迫るものがあった。
これが屋敷が持っている妻の記憶だとしたら、この人形は本当に存在しているのだろうか。寝食を忘れて人形を作る妻の姿は狂気に満ちていた。その姿を訝しげに見ていると、かつて妻の侍女だったものが通りがかった。
「そこの君、妻が生前、何か人形のようなものを作っていたようだが、それが何か知っているか」
「はい。存じ上げております。それは子宝祈願のお守りだそうです。私たちもお手伝いしますと申し出たのですが、奥様は、自分のことだから自分でやると決して私たちには触らせませんでした」
「子宝祈願……そうだったのか」
オーティスは胸が締め付けられる気がした。自分勝手な理由で、弟から寝取り無理やり結婚したくせに、外で愛人まで作り、愛しているエンバーと接することを避けていたというのに。彼女は自分との子を望んでいてくれたというのか。こんなダメな自分と寄り添ってくれるとは、何て慈悲深い女性だったのか。
その妻の深い愛に、オーティスの目にはジワリと涙がにじんだ。
「よかったらご覧になりますか? お持ちします」
「頼む」
しばらくすると侍女がバスケットに丁寧に入れられていた人形を持ってきてくれた。裸の丸いフォルムの人形は、どれも丁寧に仕上げられていて、自分たち夫婦に赤子がくるのを待ち望んでいるような気がした。
それも今や叶わない夢なのだと、オーティスはふわふわのフェルト生地の人形を握りしめて泣いた。
◇◇◇
エンバーの幽霊が出るようになって一ヶ月と少しが過ぎた頃、オーティスは少しずつ妻の姿が薄くなってきていることに気が付いた。
完全に消えてしまう日が近いのかもしれない。死後、人間の魂がこちらにとどまっていられるのは四十九日と聞いたことがあった。妻と最後の時間を過ごすのは後二週間くらいしか残っていないのかもしれない。
心のどこかで、これからもずっとここにいてくれると思っていた。再びエンバーを失うことに、オーティスは恐怖した。
残りの時間はどのくらいあるのか分からなかったが、とにかく最後の瞬間まで側に居たいと考え、オーティスは改装した夫婦の部屋で夜も過ごすことにした。
屋敷のものたちは、当主の行動を不審に思ったり、精神状態を心配したりしたが、落ち着くまではそっとすることにして何も言わなかった。そしてあんなことがあった部屋で眠れる神経を少しだけ怖いと思っているようだった。
夜中、ふと目を覚ますとエンバーの幽霊がすやすやと隣で眠っていた。妻の頬に触れたくて手を伸ばすが、オーティスの手は冷たいシーツに触れるだけだった。
日中、妻の姿は太陽の光に負けているのか、ほとんど見えなくなった。気配を感じて振り向いても、そこには誰も居なかった。
四十八日目、妻が殺害されたのは夜中だったので、推測が正しければ、今晩にはエンバーの幽霊は消えてしまうだろう。今日一日、オーティスは一睡もせず最後の瞬間まで共にありたいと、仕事は全て休みにして、エンバーの幽霊を追いかけ、屋敷をあてどなく徘徊していた。
いつものように屋敷の者たちと穏やかに過ごし、人形を作り、普通に生活しているエンバーの姿は本当にありふれた日常で。こんなに穏やかで幸せな日々を台無しにした強盗は未だに逮捕されていなかった。怒りの炎は未だにオーティスの中に燻っていた。
そしてそれ以上に、これまでの自分の身勝手さに腹が立った。
夜、ベッドに入ると、夜着に包まれたエンバーの幽霊もベッドに入ってくる。いつも通り眠るのかと思われたが、妻は夜着をするりと脱がされ、静かに笑い、誰かと唇を深く重ねた。
大分薄くなってしまった幽霊だが、妻はオーティスに抱かれていた。愛人を作るまでは、この場所で何度もエンバーを抱いた。抱いている時だけは、エンバーはオーティスのもののような気がしていた。
自分を見つめ、オーティスも妻を見つめる。その時だけはお互いの魂が触れ合っているような気がした。
エンバーの快い所を突けば、可愛く喘ぐ。恥ずかしそうにするのが初々しくて、何度も何度も腰を振った。
エンバーは、こんな顔をして自分に抱かれていたのだろうか……? 思い出せない。
けれどもこのベッドの上でエンバーを抱いているのは、間違いなくチャコールグレーの髪色をした深紫の瞳の自分であった。
今更ながら彼女の痴態に高まりを感じる。しかし、もうエンバーは、どこにもいない。
涙がとめどなく溢れてくる。
彼女のぬかるんだ中に己を抜き差しすることも、まとわりつく膣内に包まれて、最奥で射精することもできない。汗ばんだ背中を抱き、口内を侵すこともできない。可愛い嬌声も聞くことはできないのだ。
オーティスはいつの間にか屹立してしまった自身をぎゅっと握る。エンバーの幽霊は、幻の中で男の上に跨り、快楽に身を任せ跳ねる。
オーティスはその動きに合わせて、陰茎を擦る。先端から溢れる先走りが流れ落ち、ぬるぬるとした感覚はまるでエンバーに挿入しているかのような錯覚をもたらす。
エンバーの細い喉が後ろにのけぞり達するのと同時に、オーティスは勢いよく、まるでエンバーの最奥に全て吐き出すように吐精した。
はあはあとオーティスの荒い息だけが、静かな部屋に響く。エンバーの幽霊は消えてしまい、一人のベッドにオーティスは大の字になって、すっかり萎えてしまった陰茎を掴んだまま、泣きじゃくった。
「このまま私のことも連れて行ってくれればいいのに」とそのまま意識を失った。
◇◇◇
「オーティス、良かった! 目が覚めたのね!」
「兄さん、心配させやがって」
オーティスが目を覚ますと、エンバーとヴィクターの顔が眼前いっぱいにひろがった。一体、どうしたのかとオーティスは身体を起こそうとする。
しかしバランスがうまく取れず、身体は持ち上がらなかった。
「ダメよ。大人しくしていて。酷い事故だったのよ」
「今、医者を呼んでくるから」
ヴィクターが慌てて外に出る。オーティスは、事態が良く飲み込めない。
「エンバー? 君、生きて?」
「何を言ってるの?」
小首をかしげて、エンバーが不思議そうにオーティスを見つめる。
「いや、すまない。悪い夢を見ていたようだ。君がいなくなる夢だった」
「私は、どこにも行かないし、いなくならないわ」
「そうだな。あれは夢か。それにしても長い悪夢だった」
「それは、事故で負った怪我のせいかもしれないわね。あなた車の事故に巻き込まれて……。酷い怪我をして、ーー両脚を切断したのよ」
「え?足の感覚は感じるぞ」
「そう言うものらしいわよ。でも本当に生きていることが奇跡っていうくらい酷いものだったのだから」
エンバーは悲しげに目を伏せると、ゆっくりと毛布を外す。背中を支えて、オーティスを起き上がらせる。オーティスは恐る恐る足を見る。下履きの途中から厚みがなくなり、ペタリと生地がベッドに張り付いていた。
「本当だ。太ももの四分の一しか残っていない」
あまりのことに動揺を隠せない。あの日、愛人宅から自宅に戻る途中、どうしたのか。
「本当に酷い事故で多くの人が亡くなったのよ。追突事故があって、渋滞に巻き込まれ並んでいる車に暴走した大型トラックが更に追突してきて。トラックの積み荷が、爆発物だったこともあり、ぶつかった時以上の被害があったのよ」
エンバーは、ゆっくりと再びベッドにオーティスを横たえる。
「そうだったのか」
「ショックもあると思うけれど、生きているだけで幸せだと思わないと」
「そうだな」
そう言うとエンバーはそっとオーティスの手に元気づけるように手を重ねた。
事故による傷も塞がり、リハビリが始まった。自分の足で歩くことはできないが、車椅子で移動する練習もする。
エンバーは文句も言わずにリハビリに付き合ってくれる。そして、毎日、車椅子での移動の練習のために、ちょっとした庭の高台にあるガゼボまで、散歩に行くのが日課になった。
道すがら些細なことを話しながら歩く。坂道の途中で力尽きることが多く、エンバーに車椅子を押してもらう。坂の下にある小さな池には、睡蓮が咲いていて、上から見るととても美しかった。
あの夢ではエンバーはいなかった。そして後悔に涙を流すだけで自分は何も出来なかった。今、自分は足を失ったが、エンバーは生きている。なんという幸せなことなのだ。事故が無ければ、こんな関係になることは叶わなかっただろう。そう考えれば、足などなくても全く構わないと思った。
人生、もう一度やり直せる。
今、オーティスの人生は輝く希望に満ちていた。
◇◇◇
雨が続いたある日のことだった。ずっと屋敷の中にいるのも気が滅入るような気がして、曇ってはいたがエンバーを散歩に誘った。
じっとりとした水分を含んだ重苦しい空気の日ではあったが、外に出るとやはり開放感がある。ぬかるみのひどい場所をさけながら、二人はいつものガゼボへ向かう。
「そう言えば、来週、ヴィクターが領地へ戻るみたいよ。オーティスが大丈夫みたいだからって」
「そうか。ここ数ヶ月はいるのが当たり前だったから、何となく寂しくなるな」
「そうね。昔みたいに一緒にいられたらいいのだけれど、お仕事もあるしね」
坂道に差し掛かると、ゴロゴロと遠くで聞こえていた雷鳴が少しずつ大きくなってくる。稲光と音の感覚が短くなってくるにつれて、大粒の雨がぽつぽつと落ちてくる。
「いったん、ガゼボで雨宿りしましょう」
「そうだな。きっとこの雨を見た誰かが迎えに来てくれるだろう」
しかし長雨でぬかるんだ坂道の途中で、車椅子の車輪が泥に取られてうまく進めなくなった。坂道を押すにはエンバーの力が足りない。
一方で雨足は強くなる。前も見えない大雨の中、前に進むこともできず、後ろに戻ることもできず、立ち往生してしまう。
「エンバー、兄さん。迎えに来たよ。ひどい雨だ」
ばしゃばしゃと雨の中駆け寄ってきたのはヴィクターだった。激しく打ち付ける雨で、視界が悪く、オーティスはヴィクターの顔をよく見ることができなかったが、その声に安心した。
「ヴィクター、すまないな。車輪が泥に食い込んでしまって、うまく動かないのだ」
「僕が押そう」
ヴィクターは車椅子のグリップをエンバーから受け取る。しかし、雨で手が滑り、ブレーキから手を離してしまった。次の瞬間、車椅子は坂道を転がっていく。オーティスの身体は車椅子から落ち池の方へ転落する。
「オーティス!」
エンバーが叫ぶ。
突然のことにオーティスの思考は現状把握ができない。ゴロゴロと転がる勢いをどうにか止めようと短い両脚をばたつかせる。
ようやく転落が止まった時、オーティスは坂の下の池の中に腹まで浸かっていた。
「エンバー、ヴィクター、池だ! 池に落ちた。早く助けてくれ」
激しい雨は池の表面を強く打ち、泥が目に入りよく見えない。もがいて何かに掴まろうとするが、ふわふわと漂う睡蓮の葉や茎ばかりで頼りにならない。
もがけばもがくほど、泥の中に身体が沈み込んでいく。
「早く助けてくれ!」
強い雨音は、オーティスの声をかき消してしまう。ガゼボの方を見ると、二つの影が寄り添い、息を殺してこちらを見ているようだった。
二人からは自分の声は聞こえないのか? 姿は見えないのか?
ゴボゴボと泥水が口に入る。苦しい。息ができない。
深くない池であるが、両脚がないオーティスには底なし沼のように感じる。
「助け……」
がはっ
池の底の泥は、次第にオーティスを池の中へと誘う。
気管に、肺に、胃に泥水が入る。呼吸ができない。苦しい……。オーティスは、意識を失った。
そして訪れる無。
ゴボゴボゴボ…………
◇◇◇
ガゼボの天井を叩く雨の音が少しだけ弱まってきた。
ヴィクターは、緩慢な動作で携帯を手に取り、屋敷に連絡をする。
「大変だ! 兄さんが、池に落ちた。すぐに助けに来てくれ。ああ、そうだ。うん、エンバーは無事だ」
必要なことだけを焦ったように伝えると、通話を終わらせる。再び自分の膝の上に座っているエンバーに、口付ける。
「ん、だめよ、まだ。皆が来ちゃう」
「大丈夫、あと十分は誰も来ない。視界も道も悪いし」
「ヴィクター、やっとだわ。ここまで五年もかかってしまった。彼の悪運の強さってすごいんだもの」
「事故が起きた時は、神が僕達に祝福を与えてくれたと思ったが、まさか生き残るとは思わなかった」
ヴィクターが、エンバーの濡れた身体をタオルで優しく拭く。
「エンバー、君があいつに無理矢理奪われた時から、この日までその怒りと共に生きてきた」
「そうね。私も怒りだけを頼りに絶望の中、生きてきた。彼に抱かれている時は、あなたに抱かれていると思って耐えたわ」
エンバーが、ヴィクターの唇に自分の唇を重ねる。お互いの舌を絡ませ、その存在を確かめるように口内を侵す。
雨の音がだんだんと弱くなり、陽の光が雲の間から差し込む。
「彼との行為は、キス一つをとっても本当に不快だった。独りよがりな性格は、セックスにも現れるのね。彼が愛人を作った後、あなたに抱かれた時、私は初めて女としての幸福を感じたの」
「でもそれも今日で終わりだ。これからは僕たちと僕たちの子のために、生きよう。もうあいつはどこにもいないのだから」
ヴィクターは慈しむようにエンバーの腹を優しく撫でた。
「うん。愛してる、ヴィクター」
「僕もだ。愛してる」
二人はようやく掴み取った幸せに涙を流した。屋敷から使用人が来る頃には、雨上がりの黒い雲と夕空の間に、虹がかかっていた。
◇◇◇
オーティスの死体は池の中で発見された。死因は溺死だった。警察官が死体を引き上げた時、それを見たものは心臓がどきりとした。
睡蓮の花と葉が身体中に付着し、茎はオーティスの身体を拘束するかのように巻きついていた。
溺れた時に藁をも掴む気持ちで、もがいたことが原因だと理性では分かっていた。
しかし皆が「睡蓮の花を摘み取ろうとするものは魔物に水中に引きずり込まれる」と言うこの地方に伝わる古い言い伝えを一様に思い出した。
この件は、事故死ということであっさりと片付けられた。散歩に行こうと誘ったのもオーティスであったし、突然の雨も意図してできるものではなかった。
リハビリを手助けするエンバーの姿を多くのものが好ましく思っていた。また、この時エンバーは妊娠しており、夫婦仲は――色々あるものの――悪くなかったと多くの人々から証言が得られた。その結果、殺人の線はすぐに消えた。
その後、ヴィクターは、エンバーを妻とした。『エンバーが産んだ子を自分の子のように育てた。ヴィクターは素晴らしい紳士だ』と、無責任で無関係な人々は噂した。
レイス家は悲惨な事件が立て続けにあったものの、その後は静かに平穏に暮らした。
オーティスが死んだ池は、屋敷のものたちが「雨の日になると車いすの車輪の音が聞こえる」とか、「這いつくばっている男が追ってくる」と、あまりに怖がるため、池は埋め立て、ついでにガゼボは取り壊した。
今は家畜のための牧草地になっている。
そのうちここに池があったことも、突き落とされた一人の男が虚しく溺死したことも、毎日雨後の筍のように新しく起こる他の事件に紛れて人々の記憶から忘れられていくことだろう。
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