旧友と集落

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 サイン会が終わると、編集者が折りたたまれた紙を渡してきた。サイズからして、手帳を破ったものだろう。そこにはこの本屋の裏手にある喫茶店で待つと書いてあった。  名前も書いておけばいいものを、伝えたい言葉だけを並べたそっけないものだった。  喫茶店に入り、店員に待ち合わせしている旨を伝えると、奥の席に案内される。先程の男が、珈琲をすすりながら、サインしたばかりの本を読んでいる。  向かいの席に座ると、男は本をしまい、笑みを浮かべる。 「俺のことは思い出せたか?」 「間違ってたら申し訳ないが……」  山岸は前置きをし、お冷で喉を潤す。慣れないサイン会で緊張していたせいか、ただの冷水でも美味しく感じる。 「嗽真一(うがいしんいち)か?」 「あぁ、そうだよ」  嗽は満面の笑みを浮かべる。笑う際に出来るシワに、懐かしさを感じる。嗽のしわくちゃの笑顔を見て猿だとからかう者がいたが、山岸は嗽のしわくちゃの笑顔が好きだった。  決して同性愛などではなく、くしゃっとした笑顔が好きなのだ。  綺麗に笑う人は、仮面めいて薄気味悪く感じるが、シワの多い笑顔は人間特有のあたたかみがあるように思えた。 「まさかヒロが、大好きな山岸星章だったとはな。灯台下暗しってやつだ」  使い方がなんか違うぞと思ったが、指摘して「さすが作家先生」と言われるのも嫌だったので、黙っていることにした。 「正直驚いたよ。まさか、同級生にファンがいたなんてな。ところで、君はこの辺に住んでいるのか?」  ふたりが通っていた学校は、九州のさびれた田舎にある。同世代の大半は故郷を離れるが、全国に散った同級生に会えるとは、思ってもみなかった。 「まさか! 俺は隣県の集落に住んでるんだ。今日ここに来たのは、お前のサインをもらうため」 「そうか」 「なぁ、ヒロ。ホラー作家ってさ、全国津々浦々、取材し回ってたりすんのか?」  嗽は先程までの人懐こい笑みを引っ込め、神妙な顔をする。まるで「他言するな」と言われた秘密を共有しようとしているような、どこか背徳めいた雰囲気に、山岸は胸を踊らせる。  
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